34 負けるもんか!
「うわあ、泳いでる……。」
展示室に入った途端、大きなガラスの向こうを悠々と泳ぐ白クマを見て、葵が立ち止まった。
その後ろに、従者のように付き従っている俺と尾野。
水族館に入って長い通路を抜けた先の最初の部屋は、丸い室内を囲んで、白クマとペンギンとアザラシがいた。
それぞれ区切られたガラス越しに、俺たちの背の高さくらいまで水が入った池で泳ぐ白クマたちの姿が観察できる。
池の奥には陸地部分もある。
白クマは犬かきで悠々と泳ぎ、ときどき潜ってはこちらを見たりした。
意外に大きいアザラシは、楽しいのかどうか疑問になるほど同じコースで行ったり来たり、なめらかに泳いでいた。
ペンギンは太った体でプカプカ浮き、かと思うとものすごいスピードで泳いだり、陸に飛び上がったりしている。
荷物になる弁当はコインロッカーにまとめて入れて、それぞれ身軽になっている。
藁谷は服を褒めなかったという失点を回復すべく、季坂のそばにいる。
宇喜多は一人でどんどん水槽の前に行ってしまった。
「みんな可愛い。ね?」
笑顔で葵が振り向く。
(俺はその笑顔の方が可愛いと思うけど……。)
彼女の嬉しそうな表情が自分をこんなに楽しい気分にさせるということに、あらためて気付いた。
尾野をこっそり窺うと、やっぱりにやけた顔をしている。
俺もあんな顔をしているのかも知れない。
「葵ちゃん、もっと近くで見ようよ。」
彼女の顔を覗き込むように尾野が言う。
ちょっと近付き過ぎじゃないかと思ったけど、彼女が確認するように俺を振り向いてくれたので気持ちが収まった。
(俺のこともちゃんと忘れないでいてくれる。)
俺が頷くのを見てから白クマのガラスの前へと進む彼女の後ろを歩きながら、そのことに満足した。
俺たちは、ゆっくりと展示室を見て行った。
結構お客が多くて、背の低い葵は前に出ないと見ることができない。
「葵ちゃんもおんぶしてあげようか?」
前にいた親子連れを見て尾野が言うと、彼女は面白がって笑った。
それを見ながら、俺はこれが尾野の言う “本気” なのかと首をひねった。
俺と尾野は彼女から片時も離れずに付き添っていた。
ときどき合流する宇喜多は、その度にあれこれ指をさして説明してくれた。
藁谷と季坂は途中から見えなくなった。
どの展示室にもそれなりに人がいて、小さい子がウロチョロしていた。
ゆっくり回っているせいか、どんどん人が増えてくる。
「あ、クラゲだ。」
少し長い通路を通って次の部屋に入ったとき、葵がつぶやいた。
そこは少し照明を落とした縦に長い部屋で、真ん中に円柱形の水槽がずらりと並んでいた。
高めの位置に設置された水槽には、白いクラゲがライトアップされたようにふわりふわりと漂っている。
それぞれの水槽を囲んで、お客たちが幻想的といえなくもないクラゲにぼんやりと見惚れている。
じっくり立ち止まるお客が多いのか、その部屋は特に混んでいた。
興奮した子どもたちに手を引かれて、人の間を行ったり来たりしている家族連れもいる。
「不思議〜。面白いねえ。」
移動して行ったカップルのいた隙間から一番前に出た葵が、俺たちを振り返りながら言った。
それに笑顔を返し、俺も彼女から水槽へと目を移す。
(ほんとだ……。)
見ているといつの間にか、一匹一匹のクラゲの動きに見入ってしまう。
クラゲは水の流れに漂っているかと思うと、ときどき傘の端をふわりと動かして自力で泳いだりする。
泳いでいるとちゃんと意思を持っているように感じるし、透き通った体に白い模様がついているのが意外に綺麗だ。
隣の水槽にいるのは、少し光っているような……。
「見えないよ〜。」
後ろで小さい子の声。
「あ、どうぞ。」
気付くと水槽のすぐ前にいた。
ながめているうちに近付いていたらしい。
場所を譲りながら自分の周りを見たら……、
(あれ?)
葵がいなかった。
(しまった!)
慌てて尾野の姿を探す。
背の小さい葵を見付けるよりも、尾野の方が簡単なはずだ。
(いた!)
2つ先の水槽の前に尾野を発見。
俺がクラゲに見入っている間に、彼女と尾野は先に進んでしまったのだ。
見失うほどじゃなくてよかった、と思ったのと同時に、尾野が近付く俺に気付いた。
そして、前にいる葵に話しかけ………ようとして、驚いた顔で俺に向き直った。
と思うと、慌てて周囲を見回している。
(あれ……?)
「葵ちゃんがいない。」
そばまで行った俺に尾野が言う。
思わず「ちゃんと見てろよ。」と言いそうになったけど、自分も同じだったことを思い出してやめた。
それよりも、彼女を探す方が先だ。
とは言え、小さい子を探すように、大きな声で名前を呼ぶのは恥ずかしい。
こんな場所で事件に巻き込まれることも考えにくいから、人混みを走りまわるほどのこともない。
ただ、尾野よりも先に見付けたいのは間違いないけど。
幸い、俺も尾野も背が高いから、集まっている人たちの後ろからでも部屋の中を見渡せる。
並んだ水槽の周りを二人別々に2周ほどしたとき、俺と尾野は、この部屋に彼女はいないという結論に達した。
「ってことは、次の部屋か?」
出口と入口は一つずつ。
さっき入って来た細長い通路からは次々と人が入って来る。その先はすでに見て来た深海の魚たち。
もう一つの方には『順路』という文字と矢印。
俺たちはもう一度ざっと部屋を見回して、次の部屋へと入った。
そこは扇形の部屋だっだ。
湾曲した広い壁が大きな高い水槽になっていて、銀色の魚が群れをなして泳いでいる。
その部屋もやっぱり薄暗くて混んでいる。
「葵ちゃ〜ん。」
部屋を見回しながら、尾野が小声で彼女を呼んだ。
けれど、水槽の前に何列にもなっているお客にはそんな声は聞こえないだろう。
(端から見て行くしかないか。)
尾野と左右に分かれて、水槽の前の人たちを順に覗いて行く。
けれど、彼女は見つからない。
似たような色の服を見付けてハッとすることは何度もあるのに。
「宇喜多と一緒か?」
そう言いながら尾野と顔を見合わせたとき、クラゲの部屋から宇喜多が入って来たのが見えた。
その前後左右どこにも、葵の姿はない。
(マジではぐれた!?)
メールを送ってみたけけど、何の反応もない。
こうなったら本気で探すしかない。
宇喜多に葵が見当たらないことを話すと、
「最後まで行けば、必ず合流するだろう?」
と不思議そうに言われた。
「11時半のイルカのショーを見ることに決めてあるんだから、それに間に合うように出てくるはずだよな?」
(宇喜多に言っても仕方ないか……。)
俺だって、さすがに高校生もになると、迷っても最終的には目的地に着けるのは間違いないと思う。
でも、葵はどこかしら心配せずにはいられないところがある。
それに、向こうだって俺たちを探しているだろうし。
まあ、一人で見て回っても十分に楽しんでいる宇喜多はそれでいいんだろう。
でも俺は、一緒に見て楽しんでくれる相手が欲しい。
そしてその相手は尾野なんかじゃなく、絶対に葵がいい!
俺と尾野は顔を見合わせた。
その視線は打ち合わせのためではなく ――― 。
(お前には負けない。)
どちらが先に彼女を見付けるかの勝負開始の視線だった。




