30 スタート地点に
改札口を出て季坂と別れるまで、俺は少し緊張していた。
葵が季坂と並んで前を歩いてくれていることが、今は心を落ち着かせるためにありがたかった。
言葉をさんざん考えて、何度も頭の中で予行練習をしてみたけれど、いざとなってみると難しい。
でも、とにかく早く済ませたい一心で、季坂の姿が見えなくなったところですぐに切り出すことにした。
「あの……。」
葵は問いかけるように俺を見上げた。
一瞬だけ迷いがあったように見えたけど、その瞳はすぐに落ち着いて俺に向けられた。
「俺、葵に謝らなくちゃならないことがあるんだ。」
階段に差し掛かるところで一旦彼女は下を向き、また俺に視線を戻した。
「榎元が…何か言っただろう? あれ……、俺のせいなんだ。ごめん。」
考えていた言葉をゆっくりと口にしながら、一段ずつ確かめるように階段を降りる。
葵は足元を確認しながら、俺の歩調に合わせている。
少しの間のあと、彼女は微笑んでこちらを向いた。
「相河くんのせいじゃないよ。気にしないで。」
「だけど……。」
「美加さんは心配になっちゃったんだよ。だから……。」
葵はそこで言葉を止めて、ちょっと考えた。
それからまた俺に笑顔を向けた。
「これからは美加さんが焼きもちを焼かなくて済むように、大事にしてあげてね。」
「え?」
(なんだ、これは……?)
何か大きな誤解がある。
榎元は葵に何て言ったんだ?
この言われ方だと “距離の取り方” 程度の話じゃないのは確かだ。
もっと具体的なことを言ったのか……?
(とにかく……たぶん、ここは否定するところだな。)
「ええと、俺と榎元は何でもないんだ…けど。」
「え? でも…、美加さんが『上手く行きそう』って……。」
(なんて勝手なことを!)
思わず榎元に対する怒りが湧く。
「それは、榎元が ――― 」
俺の反応を見て、葵が微かに体を引いた。
俺が腹を立てたことに驚いたのだ。
(これじゃダメだ。)
一旦視線を足元に移し、心を静めながら考える。
葵は榎元が俺のことで焼きもちを焼いたことは気付いているらしい。
そして、俺が謝っているのは、自分の “彼女” が葵に迷惑をかけたからだと思っている?
「ええと……、榎元とは何でもないんだよ。」
「でも…月曜日には……、だからわたし……。」
葵が混乱した顔をする。
「今日の朝、俺 ――― 」
“断った” と言おうとして、電車の中での会話を思い出した。
榎元の脅しで彼女が避けたのは俺だけじゃなかった。
たぶん、それくらい榎元の言葉が葵にとっては強かった…というか、怖かったんだと思う。
ここで俺が榎元を断ったと言ったら、葵は、今度は榎元の仕返しを心配することになるんじゃないか?
彼女にそんな不安を抱かせないようにするためには……?
「あいつ、俺のこと嫌いだって。」
「えぇっ!?」
思い切って笑顔を作って言うと、葵は目を真ん丸にして驚いた。
驚きのあまり階段の途中で急に立ち止まり、振り返った俺をまじまじと見つめた。
「だって……、上手く行きそうって……。」
葵がさっきの言葉をもう一度繰り返す。
まあ、確かに月曜日にそれを言った本人が、今日は俺を嫌いだと言ったと聞いても、簡単に信じられないのは当然だ。
でも、ここまで来たら信じてもらうしかない。
「ホントだよ。まあ、振られたってことだよな、はははは。」
笑ってみせると、葵はパチパチと瞬きをして、またゆっくりと階段を下りはじめた。
無言で何段か下りてから、気の毒そうに俺を見た。
「振られちゃったの……? 今まで仲良くしてきたのに……?」
「うん。俺みたいにはっきりしない男は嫌いだって。」
きっと今ごろ、榎元はそう思っているだろう。
プライドの高い彼女のことだから。
「そう……。」
どうにか信じてくれたらしい。
もともと素直な性格だから、たぶん、いつまでも疑ったままではいられないんだ。
(なんだかすっきりした。)
よく考えたら榎元にも、他人には榎元が断ったことにしていいって言ったのだった。
辻褄が合ってちょうど良かった。
「変なことで葵に迷惑かけちゃって、ごめんな。」
「ううん、そんなことないよ。」
階段を下りきって、いつもならさよならのあいさつをする場所で、葵が俺を見上げた。
立ち止まった俺たちを、改札口に向かう人がよけて行く。
「あの、ちょっと……。」
葵が俺の学生服の袖口をつまみ、通行人の邪魔にならない線路側の壁へとそっと引っ張っていく。
彼女にそんなことをされるのは初めてで、そのほんの微かな軽い力に胸が震える。
「わたし、美加さんに言われたこと、全然気にしてないから。」
俺の袖から手を離すと、彼女は真剣な顔で言った。
「相河くんも、わたしに悪いとか、思わなくていいんだよ。絶対に。」
(葵……。)
彼女の心遣いが嬉しかった。
懸命に言ってくれる彼女が愛しかった。
「うん…、ありがとう。」
礼を言うと、彼女は微笑んだ。
その頬に触れたい、と思った。
けれど、そんなことをしたら、葵はとても驚いてしまうだろう。
「本当言うとね、わたし、学校に行くのが少しだけ憂うつになっちゃったの。でも、今は大丈夫だし、そのお陰でいいこともあったから。」
憂うつになったと聞いて、心が痛んだ。
その痛みで、彼女の気持ちを共有しているみたいな気がする。
「いいこと……?」
「そう。みんなが心配してくれるって分かったこと。」
「ああ……、もちろん心配するよ。当たり前だろう? 葵は俺たちの仲間なんだから。」
あんなに一生懸命やってくれているんだから。
「うん。そう思ってもらえたことが嬉しいの。どうもありがとう。」
「そんな…こと……。」
彼女の笑顔が眩しい。
いつまでも見ていたいけれど、なんだか ――― 。
「あとね、言葉遣いを変えられたこと。」
「ああ、さっき……。」
電車の中での会話を思い出して、少し複雑な気分になってしまう。
「そう。あのことがなければ宇喜多さんとあんなに話すこともなかったし、宇喜多さんが、敬語はやめてほしいって言わなかったかも知れないものね?」
( “あんなに” ……? )
それは一体、どれくらいなんだ?
二人が肩を並べて楽しげに歩く姿が頭に浮かぶ。
今の俺は、簡単に気分の波が荒くなる。
「あ、ああ、まあ、そうだよな……。」
(で、葵が宇喜多と親しくなることもなかった。)
「なんだか不思議なの。」
彼女が少し遠い目をする。
宇喜多との会話を思い出しているんだろうか?
「何が?」
(俺がふて腐れていることには気付いてくれないのか?)
“どこを見てるんだよ!?” と言いたい……。
「言葉遣いを変えたらね、みんなと近付いたような気がするの。」
「近付いた……?」
(あ……。)
さっき、袖口を引っ張られたのは……そういうこと?
彼女の気持ちの持ちようが変わったことの表れなのか……?
(そうか。じゃあ……いいかも。)
これからは、もうちょっと仲良く……?
「もちろん、相河くんにも感謝してるの。」
「俺に?」
「うん。だって、一番最初に話しかけてくれたでしょう?」
目の前の彼女の笑顔に、初日の遠慮がちな微笑みが重なった。
行儀よく膝に手を置いて、俺と話していた彼女 ――― 。
「転校一日目だったし、男の子とどう接したらいいか分からなくて、すごく不安だったの。でも、最初に話しかけてくれたのが相河くんだったから、 “なんとかなるかも” って、ほっとしたの。」
(俺だったから……?)
俺が彼女の役に立てていた?
こんな俺でも?
もしかすると、こんな俺だから……?
「マネージャーの話が出たときも、心配して一緒についてきてくれたでしょう? とっても有り難かった。本当にありがとう。」
「ああ……。」
そうだった。
あのとき、彼女が遠慮して断れないんじゃないかと思って……。
(俺は最初からずっと、葵のことを心配していたんだ……。)
「こうやって伝えられるのも、敬語をやめて、気分が変わったせいだと思うの。考えていることを口に出しやすくなったみたい。」
そう言って彼女は首を傾げながら可愛らしく微笑んだ。
本当に親しみのこもった笑顔で、俺は何故か切なくなってしまった。
それを誤魔化すために、軽く冗談を言ってみる。
「なんだか怖いな。これからは厳しいこともビシビシ言われそうな気がする。」
「あ、そうかもね。覚悟しといた方がいいよ〜。」
二人で顔を見合わせて笑う。
彼女が言ったとおり、お互いの距離が近付いたような気がした。
「あれ、相河!? 久しぶり!」
男の声に、ひどく邪魔された気分になって振り向くと、中学時代の友人の波木だった。
階段を速足に下りてくる。
「今帰り? あ……。」
葵に気付いて波木が口をつぐむ。
隣では葵が丁寧にお辞儀をしていた。
「あー……ごめん。邪魔しちゃったかな?」
「ああ……。」
「あ、違います。」
(え!?)
あまりにも素早くはっきりと否定されて、俺の方が驚いた。
俺だって否定するつもりだったけど、こんなにも素早く言うなんて。
そんな俺に構わず、葵がにこにこと波木に説明をする。
「わたし、ただのマネージャーなんです。最近ここに越して来たばかりで。」
「あ、ああ、そうなのか……。」
波木も少し面食らっているようだ。
「じゃあ、これで失礼します。相河くん、またね。」
「あ、ああ、また。」
彼女は波木に軽く頭を下げて、さっさと歩き去った。
それを見送りながら、波木が言った。
「本当にただのマネージャーなんだな。」
「まあ……、うん。」
(今は、まだ。)
波木とお互いの近況を話しながら、これからの彼女と俺のことをぼんやりと考えていた。




