28 決着
榎元が来たのは、俺が学校に着いてから5分後くらいだった。
予想したとおり、急いでやって来た。
中庭を抜けて走り寄る彼女は、太陽に負けないくらい明るい笑顔だった。
その笑顔を見ても、今の俺には、彼女の周りに黒い靄が渦巻いているような気がする。
「おはよう! 今日は早い電車だったの?」
周囲の生徒に気を配って少し微笑んでみせた俺に、榎元が嬉しそうに話しかけた。
俺は内心の怒りを隠しながら、明るい口調を装う。
「うん。ちょっといいかな? まだ余裕あるよね?」
一応、時計を確認。
朝のHRまでは10分少し。
頷いた彼女を連れて、校舎の横へ。
体育館との通路があるこの場所は、この時間には通る生徒はほとんどいない。
振り向いて榎元と向き合うと、彼女は恥ずかしそうにちらりと俺を見た。
たぶん、俺が告白するとでも思っているんだろう。
それも予想していたことだったけど、実際にその場になってみると、胃のあたりが重くなった。
考えてみると、今まで俺は、誰かと真剣に対決したことがほとんどない。
「葵の様子が変なんだ。」
冷静さを失わないように注意しながら言うと、榎元の表情が変わった。
自分が考えていた話の内容とはまったく関係のないものだったからだろう。
「元気がないし、……俺を避けてるみたいで。」
(ダメだ……。)
一言言うごとに、自分の口調も表情も硬くなって行くのが分かる。
そして榎元の表情も、驚きから苦いものへと変わっていく。
「日曜日は何でもなかったのに、月曜日から急に……。」
彼女が俺から目を逸らしたのを見て、確信した。
「榎元。葵に何かしたのか?」
心が冷たい怒りで静まっている。
「なん、で、あたしが?」
榎元は微笑もうとしたけど、それは失敗していた。
表情も態度も、心当たりがあることを告げている。
「羽村から聞いた。榎元が葵のことを佐野に話したって。」
「羽村くん……。」
榎元の視線が何かを探すように揺れる。
言い訳を考えているのか。
数秒ののち、彼女は何事もないような笑顔で俺を見上げた。
「教えてあげただけよ。」
「教えた?」
「そう。男の子と近付き過ぎないように気を付けなさいって。葵は今まで女子校だったから、男の子との距離の取り方が分からないんじゃないかと思って。」
「距離の取り方って……。」
馴れ馴れしくするな、ってことか?
だから俺を避けた?
「だってほら、相河くんに名前で呼ばれたりして、 “自分だけ特別だ” なんて勘違いしちゃったりしたら可哀想じゃない?」
(勘違い? 彼女が? そんなはずはないのに。)
榎元が人当たりの良い笑顔で葵に “助言” をしているところが目に浮かぶ。
けれどその言葉には棘があり、葵は心細そうな顔をして……。
胸がドキドキする。
葵の態度が変わった原因を知って、冷たい怒りが熱いものに変わる。
葵にそんなことを言って、平気で笑っていられる榎元が……許せない。
「どうして……。」
「え?」
「どうしてそんなことをした?」
低いけれど強い口調で問い詰める俺に、榎元が驚いて目を見開く。
「なんで葵にそんなことをするんだよ!? 彼女は関係ないだろう? ただのマネージャーなんだぞ!」
一言ごとに怒りが増して、声が抑えられなくなった。
睨み付けると、榎元は唇を引き結んだ。
それから下を向き、両脇に下ろした手を握り締めて大きく息をついた。
次に俺の顔を見上げたとき、彼女の目にも怒りがこもっていた。
「ただのマネージャーなら、どうしてそんなに怒るのよ!?」
榎元の言葉が胸に刺さった。
「相河くん、葵が来てから変わったよ。前は一緒にいる間、ずーっとしゃべったり笑ったりしてた。なのに最近、あたしが話してもあんまり面白そうじゃなかったり。」
「それは、そういうことだってあるだろう?」
「話の内容がどうこうってことじゃないよ。乗って来ないって言うか……、とにかく前はくだらない話でもちゃんと話を合わせてくれて、盛り上がったのに。」
「そんな……。興味がない話におざなりに返事をしたって、仕方ないじゃないか。」
「それだけじゃないよ。あたしが隣で話していても、葵のことばっかり見てる。あたしには適当に返事をして、葵のことばっかり気にしてる。ちゃんと見てたんだから!」
「そんなこと……。」
(俺が? 葵を?)
言われてみて思い出す彼女の後ろ姿。
帰り道で、隣から聞こえる榎元の声と、前を歩く彼女……。
「何も考えないような顔して、葵は相河くんのそばにいる。相河くんは、そんな葵を見てる。だから追い払ったのよ!」
はっきりと言い切って、榎元は挑戦的に俺を見た。
「追い払うなんて……。」
(なんてことを……。)
「葵を脅したんだな?」
低くつぶやいた俺の言葉に、榎元が一瞬ひるんだ。
それでも彼女は俺から目を逸らさなかった。
「葵はべつに俺につきまとってたわけじゃないだろ!? そうじゃない。俺が ――― 。」
( “俺が” ……?)
俺が……。
俺が、葵を手伝いたいんだ。
葵を支えたいんだ。
彼女が「大丈夫」って言っても。
彼女を大切に思うから。
彼女を愛しく思うから ――― 。
(葵………。)
両手で顔を覆って、大きく息を吸う。
(葵。俺は……。)
今までに見て来た彼女が目に浮かぶ。
笑っているところ。
驚いているところ。
淋しげに俯いているところ。
しっかりと前を見ているところ……。
静かな優しい彼女を心に思い浮かべると、ゆっくりと怒りが引いてきた。
代わりに湧いてきたのは、榎元に対する申し訳ないという気持ち。
彼女の怒りを目の当たりにした今まで、彼女の心を思いやってみたことがなかったから。
俺だって、榎元と一緒にいることを楽しんでいた。
男に人気のある榎元と一緒にいることを、得意にさえ思っていた。
なのに……。
「榎元……、ごめん。」
「何…が……?」
謝った俺に、榎元は気の強そうな表情を崩さなかった。
けれど、さっきまで挑戦的に輝いていた瞳は、今は悲しそうな光を宿している。
「俺、今まで一緒にいる相手の気持ちを深く考えたことがなかった。その時楽しく過ごせればそれで良くて……、本当にガキのままで……。だから榎元の気持ちもちゃんと考えないままで……、ごめん。」
「相河くん……。」
榎元の視線がすっと下がった。
肩から力が抜けて、緊張が解けたのが分かる。
「だけど、だからと言って、葵にそんなことをする必要はなかったんだよ。彼女が見ていたのは俺じゃなかったんだから。」
「え?」
そう。
葵が見ていたのは俺じゃない。
「葵は……見ていることしかできなかったんだ。黙って一人で耐えてたんだ。だから俺は助けたかったのに……。」
「あ……。」
次に榎元が何か言う前に、俺からの最後の言葉を告げる。
「もう、俺と葵には関わらないでほしい。今までどおりの付き合いは、俺にはできないよ。俺はそれほど…大人じゃないから。」
これが俺の本心。
こんなことを言うのは自分勝手だと分かっているけれど。
「榎元には悪いことをしたと思ってる。だから……、佐野たちには、榎元が俺に愛想をつかしたってことにしていいよ。それくらいしか俺にできることはないから。」
下を向いてしまった榎元を残して、昇降口へ向かった。
靴を履き替えてぼんやりと歩く俺を、生徒たちが足早に追い越していく。
誰かに背中を叩かれて何かを言われたときには、曖昧に返事をした。
(終わった……。)
考え無しの子供だった俺。
楽しいことだけを追いかけて、他人を傷付けてしまった……。
5階に上り、右側の2つ目の教室。
いつも開いている戸が閉まっている。
(…………もしかして!?)
周囲を見回すと、廊下には誰もいない。
(そんな!? まさか!?)
ガラッと戸を開けると、教卓の前には担任が。
「はい。」
そして、戸が開くのと同時に返事をしたのは藁谷だった。
「ああ、相河晶紀、遅刻ね。」
(ウソだろ……?)
バッグがずるずると肩から滑り落ちる。
「せ、先生。もしも俺が藁谷の次の出席番号だったら ――― 」
「ダメよ。だって、うちのクラスの人数は31人だもの。さっきのタイミングで31番目が呼ばれたってことよ。」
「そんな〜。ほんの1秒。お願いします!」
「え〜? 本当はわたしが来る前に教室にいることになってるのよ?」
「先生! そいつ、さっき俺が『遅刻するぞ。』って教えてやったのに、余裕こいて歩いてたんっすよ。」
(え!? 木村!?)
さっき背中をたたいたのは木村だったんだ……。
「あら。じゃあ、同情の余地なしね。はい、遅刻。」
「そんな〜〜〜〜!?」
クラスメイトがくすくす笑う中、葵も一緒に笑っていた。
その笑顔を視界の隅で確認しながら、俺は彼女への気持ちをもう一度確認した。




