26 *** 葵 : 新しい気分
「葵は噂の何が怖いのかな?」
学校へのいつもの道を歩きながら、宇喜多さんが尋ねた。
少し気持ちが落ち着いたわたしは、噂が怖い理由を言葉に表そうとしてみる。
「焼きもちを焼かれる……とか? あ、あと、ほら、相手の人に彼女ができなくなっちゃうとか。」
「ぷ……、相手のことを心配してるわけ?」
「そうです。」
思わず胸を張って言ってから、そうじゃなかったと思い直した。
もっと大きな理由がある。
「ごめんなさい、違います。本当は、女の子の反感を買わないように…です。」
「ああ、さっきも女子校のことを言ってたな。へえ。女子の世界って、そんなに厳しいんだ。そりゃあ大変だなあ。」
宇喜多さんが感心したようにつぶやいている。
(もしかして、全部の女子がそうやって監視し合っていると思っちゃってる……?)
それもまた誤解だ。
この真面目なひとに、そんな誤解をさせたままにしておいたらいけない気がする。
「あのですね、でも、それは一部です。だいたいの女子はそんなに厳しくは……。」
「ってことは、葵はその厳しい誰かに気を遣って、そんなに疲れる思いをしてまで男を避けてるってこと?」
「う。」
「急に始めたってことは、何か、そうしたくなるようなきっかけがあったんだね?」
(鋭い。この分だと、わたしが美加さんを気にしてるってことも分かっちゃうかも。)
「あ、あの……、ごめんなさい……。」
うなだれるわたしと一緒に、宇喜多さんはゆっくり歩いていた。
しばらく黙っているのでそっと様子を窺うと、それに気付いた宇喜多さんは、呆れたように微笑んだ。
「噂になっても、『違う』って言えばいいんだよ。」
「え……?」
「そうだろ? 間違った噂なら、否定すればいいんだよ。」
「でも……、広まっちゃったら……。」
宇喜多さんは少し考えてから、明るく話し始めた。
「もしもだよ、何かとんでもない噂、そうだなあ、例えば “尾野と相河が付き合ってる” とか、誰かに聞いたらどうする?」
(尾野くんと相河くんって……例えが本当にとんでもないけど……。)
「そういうことだったら、隠しておきたいかも知れないから、知らないふりをする…と思います。」
「そこが違うんだよ。」
まるで諭すように指を立てて、宇喜多さんが言った。
「違うって……?」
「葵はその噂を本当だって信じてしまうってことだろう? 俺だったら、本人に確認するよ。」
「確認しますか?」
知られたくないかも知れないのに?
「うん。だって、本当かどうか分からないじゃないか。」
「そうですけど……。」
「俺は誰か知らないヤツが流した噂よりも、本人の言葉を信じたい。」
(あ……。)
「噂が間違っていたら、その話をしているヤツに “間違いだ” って言わなきゃならないし、本当だったら、お互いに好きで上手く行ってるんだから、『よかったな。』って言ってやる。それから『大変だろうけど頑張れよ。』って。」
「『頑張れよ。』って……?」
「うん。 “世間がどう思っても、俺は味方だから” って伝えたいんだよ。」
( “俺は味方だから” ……。)
「考えてみろよ。本人たちが秘密にしておきたくても、もう噂になっちゃってるんだぜ? それを知らない方が可哀想じゃないか。」
「ああ……。」
言われてみると、本当にそうだ。
間違っていても、本当でも、自分が知らないところで話題になっているなんて気持ちが悪い。
どこかで話されていると分かったら、覚悟をすることもできそうな気がするけれど……。
「でも、もし、間違いなく本当だけど、本人たちが否定したら?」
「本人が言う方を信じる。 …っていうか、信じることにする。」
( “本人が言う方を信じる” ……。)
宇喜多さんが言っているのは、友達を信じるってことだ。
信じて、受け入れて、味方になるってことだ。
「葵?」
「はい……?」
少しあらたまった呼びかけに顔を上げると、宇喜多さんはわたしを元気づけるように微笑んでいた。
「俺は葵の噂を聞いたときでも、同じようにするよ。最初から間違いだって分かっていれば、その場で『違う』って言う。たぶん、うちの部員も、季坂も同じだと思う。ほかにもそういう友達はいるよね?」
「はい……。」
うちのクラスにも、前の学校にも、わたしを信じてくれそうな友達がいる……。
「だったら、そんなに心配しなくてもいいんじゃないのか? もう少し自由な気持ちでさ。もちろん、度が過ぎる行動は慎んだ方がいいと思うけど、俺たちまで避けるのはやり過ぎだよ。」
「……はい。」
わたしだって、本当に心苦しかった。
「そもそも噂になるかどうかだって分からないのに。それに、本当じゃない噂なんて、しばらくしたら消えちゃうよ。」
「そう……ですね……。」
こうやって言われると、とてもくだらないことをしていたように思える。
美加さんを怖いと思ったことから始まって、その不安が小さな小さな可能性にまで広がって。
たった一言、「違う」って言えばいいだけのことだったのに。
わたしには、わたしの言葉を信じてくれるひとがいるのに。
「ありがとうございます。すっきりしました。」
にっこり笑った宇喜多さんに、わたしも心からの微笑みを返すことができた。
「あ、じゃあ、ついでに言っちゃおうかな。」
宇喜多さんが、思い付いたように言った。
「何ですか?」
「その言い方、やめてくれないかな?」
「え……?」
「その敬語。」
「あ……。」
思いがけない指摘だった。
「名前が “さん” 付けなのはもういいよ。自分の名前が “さん” まで含めて全部だと思えばいいことにするから。それに、もともと葵は誰のことも呼び捨てにしないからね。」
(結構気にしてたんだ……。)
「だけど、敬語は違うよね? デフォルトは女子同士で話してる言葉遣いだろう? 俺だけじゃなくて、男には基本的には敬語みたいだけど、単に男だっていう理由だけで敬語を使うのは変だよ。」
「あ、はい……。」
「マネージャーになって、もう1か月以上……2か月近いよ。ほとんど毎日話してるのに、俺たちそんなに怖い?」
「いいえ、怖いなんて ――― 」
「入部した時期も経験年数も違うかもしれないけど、同い年だぜ? 上下関係なんかないよ。俺たちだって、葵に頼ってること結構あるのに、いつまでも遠慮されてるみたいで気になるよ。もっと堂々としてていいんだよ。」
「あ…はい……。」
「だいたいさあ、俺たちよりも、ときどきしか会わない榎元の方が遠慮なく話せるなんて、なんでだよ? 全然納得が行かないんだけど?」
一気にしゃべったので息が切れたらしい。
宇喜多さんは大きく一呼吸ついて、不満そうにわたしを見つめた。
(本当に嫌なんだ……。)
試合のときでもあまり表情が変わらないひとなのに、こんな顔をするなんて。
息が切れるほど一気に話すなんて。
「分かりま…、分かった。」
(あ、れ?)
言い方を変えてみたら、わたしの中で何かが変わった。
ぽーん、と、何かを飛び越えた感じがする。
「ええと、これからは普通に話すようにする…ね。」
いいえ、飛び越えたと言うよりも、踏み台の上に乗ったみたい。
背の高さが並んだみたいな。
「気が付かなくて、ごめんね。」
思ったよりも簡単だ。
するすると言葉が出てくる。
そして……。
(仲間だ……。)
胸の中が “仲間” という言葉で満たされて行く。
さっきまでよりも、絆が強くなったみたい。
「あ、ええと、うん。分かってくれれば、いいよ。」
(あらら……。)
宇喜多さんが照れている。
いつもまっすぐにわたしを見て話す宇喜多さんが、腕時計を見たりして。
(そうか……。)
同い年なんだものね。
落ち着いていても、背が高くても、同い年なんだ。
そんなことを思いながら、自分の心が自由になって、世界が広がっていくような気がした。




