23 微かな不安
「先輩たちに都合を聞いて、今週の金曜日に決まったから。」
部活のない放課後の部室。
壁を背にして立った藁谷が、俺たちに話している。
今日は練習は休みだけど、1、2年生が放課後に集まった。
3年生の引退式のことを話し合うため。
校庭の北側の隅にあるプレハブの部室棟は、横に6部屋が並んだ2階建てが2棟ある。
おれたちの部室は体育館側の棟の2階端、階段を上ってすぐのところ。
たいして広くない部屋には、壁際にスチール製の棚と長机が並び、遠征用のあれこれや、部員の荷物が置いてある。
部屋の隅にはいつからそこにあるのか分からない、埃を被った参考書やバレーシューズ。
砂がいっぱいの床には木製のベンチが4つ、壁際には小さいホワイトボード。
窓は真ん中についているドアをはさんで二つで、着替える時以外はカーテンは開けている。
カレンダーのかかったドアは外に向かって開けるから、いきなり開けないように、『ちょっと待て!』と貼り紙がある。
引退式と言っても、それほど大がかりなものではない。
お礼を言って、記念品を渡すだけ。
去年は、練習前に30分程度で終わった。
「記念品なんだけど、去年と同じようにバレーボールに寄せ書きでいいか?」
藁谷がベンチに腰掛けている俺たちに尋ねる。
「それだと、一人いくらくらい?」
尾野が渋い顔で質問。
(確かに……。)
先輩への記念品代は部費からは出さない決まりだ。
だから、残る部員で出し合うんだけど、うちの部は年々人数が減って来ていたせいで、去年は一人1500円くらい払った。
それほど多くない小遣いから1500円は結構痛い。
お世話になった先輩ではあるけれど、できれば負担額は少ない方がありがたい。
「ああ、それが…。」
藁谷が手に持っていたメモを見る。
「今年は部員が増えたから、800円か900円くらいで済むぞ。」
「よかった〜! じゃあOK!」
「うん、俺も。」
全員がほっとしたように頷く。
「じゃあ、今日の帰りにボールを買って、明日からここに置いておくから、各自で一言書いてくれ。金曜日に渡すから、木曜日までに頼む。集金は藍川に頼んでもいいか?」
藁谷が後ろのすみに立っている葵を見ると、彼女は「はい。」と笑顔で答えた。
すぐに事務用品が入っている引き出しからノートを取り出すと、ちょっと考えて。
「先に集金ですか? それとも立て替え?」
葵の質問に藁谷が笑う。
「ははは、集金が先。一万円以上の立て替えができる高校生って、なかなかいないだろ?」
「一万円以上!? そ、そうだよね、それは無理だわ。はーい、みなさん、集金ですよー。ええと……?」
「とりあえず900円! 余ったら返すから。」
「先輩、俺、足りません!」
「俺も……。」
「ちょ、ちょっと待って。じゃあ、まずは足りる人から順番に……。」
葵のためにベンチを壁際の机のそばに寄せて、部員がその周りに集まる。
彼女は名前をチェックしながら、机の上に置かれるお金を確認していった。
「じゃあ、あとは3人ね。」
葵が持ち合わせのなかった1年生3人の名前を読みあげて確認。
「誰が買いに行く?」
これは2年生の仕事だ。
今日は練習がないからちょうどいいし。
「一番近いのは緑ヶ原なんだ。いつも買ってる店だし、もしかしたら値引きしてくれるかも。」
藁谷が俺を見て言った。
緑ヶ原はここから4つ目の駅、俺が使っている丸宮台の一つ手前。この路線では比較的栄えている駅だ。
藁谷は、定期が使える俺に買いに行けるかと訊いているのだ。
それに、俺が副部長だから。
「いいよ、俺が行く。駅前のミドリスポーツだろ?」
俺もときどき買いに行く店だ。
学生証を見せると、個人でも割引きしてくれる。
「じゃあ、晶紀、頼む。藍川も一応、お金の管理人として行ってもらっていいか? 帰り道の途中だし。」
「あ、はい。」
(え?)
葵と二人で寄り途……?
(いや、べつに、喜んだりしてるわけじゃ……ないけど……。)
いつもとは違う場所を二人で歩いているところを想像すると、なんだか……。
俺がぼんやりしている間に、藁谷が1年生を帰した。
口々に「お先に失礼しまーす。」とあいさつをしながら、1年生が出て行く。
「ええと、足りない3人分は、とりあえず2年で立て替えて……。」
「あ、俺、1000円なら出せるよ。」
宇喜多が財布を開けながら言う。
「そうか。俺は……、俺も1000円出すよ。」
苦しそうな藁谷を見て、俺も出さなきゃ悪いかな……と思ったとき。
「あのっ。」
と声を出したのは葵だった。
何か必死な顔をしている。
その様子に俺たちの動きが止まる。
「あの、もう一人、一緒に行ってもらってもいいですか?」
(もう一人?)
少し驚いて俺たちが見守っていると、彼女はハッとしたように付け加えた。
「ええと、ボール6個、ですよね? 持って帰るのが……。」
(ああ、そうか。)
二人だと3つずつ持たなくちゃならないと思っているのか。
確かに彼女には、ボール3つは大変かも知れない。明日の朝、持って来なくちゃならないし。
でも、それなら俺が持てば済むことだ。
「ここにあるボールバッグを ――― 」
「俺も一緒に行くよ。帰り道だし。」
俺の言葉を遮るように尾野が言った。
それを聞いた葵がほっとしたように力を抜いたのが分かった。
(葵……?)
彼女の態度にいつもとは違う何かを感じる。
(そんなに緊張していたのか?)
ボールを買いに行くことに?
初めてのことかも知れないけど、俺が一緒に行くのに?
それとも……?
(まさか……、俺と一緒…だから……?)
ふと思い付いた内容に、胸が何かで塞がれたような気がする。
さっきの彼女の必死な様子。
あれは、恥ずかしいとか、ちょっと困っているという程度ではなかった。
まるで助けを求めるようだった。
(だけど、そんなこと……。)
俺と二人で行くのが嫌なのか?
でも、きのうまで、そんな様子はなかったのに。
朝だって、帰りだって、俺の顔を見てにこにこしていたのに。
今日の昼間だって普通に話したのに。
(見間違いかも知れない。)
俺の単なる勘違いかも。
「じゃあ行こうか〜。葵ちゃん、お金はちゃんと持った?」
「はい。大丈夫です。」
尾野に答える葵の声は、いつもと同じように楽しそうだった。
次の瞬間、こちらを向いた彼女と目が合って。
(あ……。)
どうしたらいいのか分からないでいるうちに、一瞬目を泳がせた彼女が、すぐに俺に視線を戻して微笑んだ。
「行きましょう。よろしくお願いします。」
(やっぱりいつもの彼女とは違う。)
わけの分からない不安で胸の重苦しさが消えない……。




