2 どうぞよろしく。
「はい……?」
彼女 ――― 藍川葵は、おずおずと後ろを向いた。
そのまま体を横向きにずらして、両手を膝の上にそっと重ねて。
ふんわりと額に下ろした前髪の下で、丸い大きな目が不安そうに揺れている。
「もしかして、転校生?」
少し小さめの声で尋ねると、不安そうだった目が大きく見開かれた。
同時に開いた口を片手の指先で隠す仕種がいかにも女の子らしい。
そんなふうに驚いたあと、すぐにまた手を膝に戻すと、彼女は恐る恐る言った。
「あの……分かりますか?」
少し身を乗り出した彼女はおとなしそうなひとだった。
ふっくらした頬は、ふわふわした髪と一緒に少し幼い雰囲気を醸し出している。
声は落ち着いた木管楽器を思い出させた。
「うん。その席。」
俺が彼女の椅子を指差すと、彼女は首を傾げた。
「席……?」
「そう。俺、ずっと一番だと思ってたから。」
彼女は自分の机と椅子をちらっと見てから、また指先を口元に当てて「あ。」と言った。
「あの。」
それから慌てたように椅子の背をつかんで後ろに体をひねると、真剣に、心から申し訳なさそうな顔で
「ごめんなさい。1番がよかったですか?」
と言った。
「え? ふぷ………。」
今度は俺が口を押さえる番。
彼女のように上品にではないけど。
「あ、いや、そうなじゃいよ。」
(面白い子だな。)
あんなに真剣な顔で訊いてくるなんて。
高校生にもなって、1番じゃなくちゃ嫌だとか言うヤツがいると、本気で思ってるのだろうか?
漏れそうになる笑いをこらえながらちらりと前を見ると、彼女は困った様子で、膝の上に置いた手を見ていた。
その姿に急に罪悪感が湧く
「ごめん。……そうじゃなくて、逆。俺、1番が嫌だったから。」
「そうなんですか……?」
彼女はまだしょんぼりしたまま、上目づかいに俺を見た。
「うん。俺、小学校からずっと出席番号1番でさ。」
こう言うと、彼女はすっと顔を上げ、真剣な顔でこっくりと頷いた。
五十音順にすると俺よりも早い順番になる彼女には、もちろん、俺と同じ経験があるのだ。
「日直でも、給食当番でも、何でも最初だろ? だから去年、この学校に入学したときに、俺よりも早いヤツがいるかと思って名簿を何度も見たってわけ。だけど結局、俺が全体でも一番早い名前で…。」
俺の話を聞きながら、彼女は何度も同意の頷きを返してくれた。
それに勢いを得て、俺の舌はなめらかになる。
「諦めていたのに、今年は二番目だろ? 驚いたよ。今は解放感いっぱいで、『やった!!』って感じ♪」
浮かれてそこまで言ったとき、彼女が恨めしそうな顔をしていることに気付いた。
彼女は来年も1番は決定ということだ。
「ええと……、つまり、ありがとうございます。」
急に申し訳なくなって頭を下げると、彼女は力なく笑った。
「いいえ。仕方ないですよね。もう慣れました。」
諦めの混じった笑顔は、最初の印象よりも大人っぽかった。
もしかしたら、彼女の声と丁寧な話し方でそう見えるのかも知れない。
紺のセーラー服と白いスカーフが、そんな彼女によく似合っていると思った。
気持ちが共有できることにほっとして、初対面の彼女に親近感が湧く。
リラックスして机に肘を付き、手にあごを乗せて話を続けた。
「慣れたって、やっぱり不公平な気がするよなあ? 1番って逃げられないじゃん?」
「そうですよね。」
相変わらず行儀よく膝に手を重ねたまま、彼女が大きく頷く。
「『出席番号順』って言われても、最後まで行き着かないときだってあるんだぜ。」
「はい。ええ、そうですね。」
「出席を取るときだってさあ、最初と最後は1分以上差があるんだ。1分あったら何メートル走れると思う?」
「さあ……。」
「まあ、だいたい10秒で50メートルだとするだろ? 1分だと300メートルだ。」
「ちょっと、具体的にどのくらいの感じなのか……。」
「え? そう言われると、俺にもよくわからないけど……。」
適当に見積もった話に真面目に首を傾げられて、一瞬思考が止まった。
でもすぐに、自分が言いたかったことを思い出す。
「とにかく、同時に門を入っても、俺は間に合わないのに、名前によっては間に合うヤツもいるってこと。中学のときに、本当にあった話だぜ。」
「ああ。」
彼女が納得したように頷く。
その直後、彼女の背後が暗くなった。
教室に入って来た大きな黒い学生服姿は、同じバレー部の藁谷行矢だった。
「よう。」
一瞬立ち止まって教室を見回した藁谷に声をかける。
藁谷がこちらを見ると同時に、後ろから女子が廊下に向かってしゃべりながら入って来て、藁谷にぶつかった。
「わ。」
「あ、悪い。」
(あれ? 季坂も?)
そう言えば、自分が2番になったことが嬉しくて、名簿をじっくり見なかった。
そんなことを思っている間に、二人が俺の方にやって来る。藍川葵のことをちらちらと気にしながら。
「一緒なんだな。」
二人を順番に見ながら言うと、意味が通じた。
顔を見合わせて、季坂は満面の笑顔で「ねー。」と言い、藁谷は無表情に「まあな。」と言った。
この二人は彼氏と彼女の間柄なのだ。
季坂菜月は俺と同じ中学の出身で、男子バスケ部のマネージャーをやっている。
物怖じしない性格の元気な女子だ。
去年、部活の合間によく俺のところに来て話していたので、気の強い季坂でも、さすがに一年生の間は部の中で遠慮があるのかと思っていた。
でも、そうじゃなかった。
藁谷が目当てだったのだ。
二人が一緒にいるのは俺には見慣れた光景だし、どちらとも遠慮のない仲だから特に気にならない。
でも、藍川は……。
視線を彼女に戻すと、不安そうな顔で遠慮がちに二人を見上げていた。
たぶん、自分がこの場にいてもいいのかどうか迷っているのだろう。
俺の視線を追った季坂が彼女に気付いて、名簿を見ながら一歩近付いた。
「ええと……、藍川さん?」
「あ、はい。」
背筋を伸ばして両手を膝に置いて季坂を見上げる彼女の顔は、ほっとしたようでもあり、緊張したようでもあり…。
「わたし、季坂菜月。席、お隣だから、よろしくね。」
「あの、はい。藍川葵です。よろしくお願いします。」
堅苦しくあいさつをする藍川を見て、季坂が笑った。
「やだ。そんなに丁寧にしなくていいんだよ。同い年なんだから。」
「でも、初対面なので……。」
「え、でも。」
困っている二人の姿はちょっと面白かったけど、藍川が気の毒になって一言。
「転校生なんだって。」
「え、そうなの?」
「はい。」
頷いた藍川に、季坂は「そうなんだー。」と安心させるように微笑んだ。
それから、自分の席に座ると彼女と話し始めた。
藍川の表情もあっという間に明るくなって、笑い声も聞こえる。
「今日も練習出るだろ?」
藁谷の低い声。
「もちろん。ちゃんと弁当持って来たよ。」
藁谷と部活の話をしながら、藍川のために、季坂がいてよかったな、と思った。
(それにしても。)
字が違っても、発音が同じ「アイカワ」というのは、ものすごく呼びにくい!