表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
彼女の瞳に映るのは  作者: 虹色
第一章 二人のアイカワ
15/97

15  同じ名前


「じゃあ、アイカワ。」


もうすぐゴールデンウィークというある日。

数学の授業で先生が指名したあと、ふと気付く。


(あれ?)


返事がない。


顔を上げてみると、目の前の彼女は黙って先生の顔を見ている。

クラスメイトの何人かが、チラチラと俺たちの方を見る。


(もうダメか……。)


がっかりする俺の耳に先生の声が聞こえた。


「あ? ああ、ええと、今日は晶紀の方。」


「……はい。」


(仕方ない。やっぱりずるいもんな……。)


彼女の横を通って黒板に向かうとき、彼女は下を向いていた。

その肩が少し揺れている。


(笑ってるよ……。)


これで俺の作戦もおしまいだ。



実は、授業のときに、俺はちょっとずるをしていた。

先生が「アイカワ」と指名したときには返事をしないことにしていたのだ。


最初のいくつかの授業で指されたときに、律儀な彼女がいつもきちんと返事をすることに気付いた。

俺はそれまで、返事はしたりしなかったりだった。

先生は、二人の返事が聞こえれば、「じゃあ、○○の方。」と指名し直す。

でも、一人の返事しか聞こえなければ、たいていは何も言わない。 …ということは、返事をした方が答えるということになる。


もちろん、どうしても俺を指したい先生は、藍川の返事に「ああ、男の方。」なんて言う。

指すときにフルネームで言う先生もいる。

でも、たぶん間違いなく、俺は得をしていたと思う。


彼女は何度か、自分で答えたあとにそっと後ろを向いて、恨めしそうに俺を見ることがあった。

俺の魂胆には気付いていたのだ。


そして今日、彼女は対抗手段に出たというわけだ。

名字だけを呼ばれたときは返事をするのをやめる、という方法で。



黒板から戻るとき、彼女と目が合った。

その顔があまりに楽しそうなので、ちょっとしかめっ面をしてみせる。


(なんだよ。)


胸の中で言った言葉は、どうやら彼女に通じたらしい。


(どうかしました?)


彼女が得意気な視線で返してきた。


席に着きながら、妙に楽しい気分になっている。

たった今見た彼女の顔が頭から離れない。


(まったく……。あんな顔しちゃって。)


俺が指されたことがそんなに嬉しいんだろうか?

きっと、仕返しできたと思っているのかも知れないけど……。


(って言ったって、まあ、もともと俺がずるかったんだし。)


それにしても。


(なんで俺は、こんなに楽しいんだ?)


彼女の顔を思い出すと、何度でも笑いそうになってしまう。

今の顔だけじゃなく、前に見た恨めしげな顔も。


(たぶん、教室だから、かな。)


クラスの中では、彼女は最初の日と同じように、自分からはあまり話しかけて来ない。特に男には。

そういう彼女と、こんなふうに無言のコミュニケーションを取れたら、嬉しいのは当然だろう。

自分たちしか分からないやり取りというのは、少し特別な気がする。


(また、次の何かを考えよう。)


恨めしそうな顔をされても、こっそり笑われても、やっぱり楽しいもんな。





「相河くん、ちょっとジャージを見せてもらえますか?」


その日の放課後、ランニングに行こうとした俺に、彼女が駆け寄って来た。

脱いで持っていた上着を渡すと、両手で広げて背中を見ている。


「どうした?」


「やっぱり “アイカワ” だけですよね……。」


(名前のこと?)


ジャージにはローマ字で名前が入っている。

上は背中に、下は左脚に。


「そうだけど……?」


去年注文するときに、先輩から「名字で」って言われたし。


「これから一年生のジャージとバッグの注文を出すところなんです。」


「ああ、そうなんだ?」


「で、縞田先輩が、わたしも注文していいって言ってくれたんですけど……。」


(縞田先輩……。)


彼女からその名前が出るのを聞いたら、少し動揺してしまった。

何も、俺が慌てることなんかないはずなのに。


「相河くんと同じになってしまうと、見分けがつかなくなるんじゃないかと思って。」


「大きさが違うから、いくらなんでも分かるだろ?」


どう見たって、彼女は一番小さいサイズだ。

俺は一番大きいサイズを着ている。

手に持ったときの重さやかさばり具合で分かると思う。


「そうかな?」


ふとしたときに出る親しい口調。

たったこれだけの一言でも彼女は表情が豊かで、見ていると楽しい。


「そうだよ。間違えたとしても、着たときに絶対気付く。」


「うーん……。でも、わたしは着れちゃうけど……。」


「いや、大き過ぎて気が付くだろう? ちょっと着てみろよ。」


「そう?」と言って、彼女は俺のジャージに袖を通した。

すでに着ている学校のジャージの上から着てもまだブカブカだ。

丈がかなりあるし、袖を引っ張ってやっと出した手が、下に下ろすとまた袖の中に入ってしまう。

考えながら、その手元見ている彼女は……。


(なんだよ。可愛いじゃん……。)


赤い色も、彼女にはよく似合っている。


と、彼女が目を上げた。


「やっぱり、着たら分かりますね。」


(うっ?)


笑顔が胸に突き刺さった。

俺のジャージを脱ぐために下を向いてくれたことにほっとする。


(なんで……急に……。)


鼓動が速い。

焦っているせいか、冷や汗も出てきた気がする。


「どうしようかなあ……。」


彼女はまたジャージを広げて背中を見ていた。

ジャージが二人の間にあることに感謝しつつ、呼吸を整える。


「ああ……、下の名前にしたら?」


「下の名前?」


「うん、ほら、あ… “葵” って……。」


初めて口に出すファーストネームは、簡単には唇を通り抜けられなかった。


「うーん、でもね。」


(あ。俺のジャージ……。)


彼女が広げていたジャージを持ち直す。

まるで両手で抱き締めるように。


「それだと、三文字しかないんです。なんとなく淋しいし、 “A” と “O” と “I” って、何かの略称みたいに見えるから……。」


「え、あ、ああ、そう…かな?」


なぜか会話に集中できない。

服を抱えられたくらいでこんな状態になるなんて、絶対に変だ!


「どうしよう? こんなに大きさが違うから、間違えないのは確かだし……。」


彼女が視線を逸らして考え込んでいる間に、どうにか落ち着く。

ほっとしたところで、彼女がまたこっちを向いた。


「お揃いになっちゃっても、嫌じゃないですか?」


(お揃いって……言うのか?)


そもそも全員が同じものを着ているのに。

まあ、確かにネームまで一緒っていうのは彼女だけになるけど。


「うん。俺はべつに構わないけど。」


(今度は笑いたくなってきた……。)


なんだか楽しい。

尾野の悔しがる声が聞こえてくるようだ。


「じゃあ、そうしようかな。」


と、彼女が微笑む。

でも、すぐにまた心配そうな顔に。


「男性用なんだけど、わたしが着ても大丈夫なのかなあ?」


(心配ばっかりしてるんだなあ。)


ちょっとからかってやろうと思った。

彼女が驚いたり慌てたりするところが見たい。

俺、少し浮かれてるのか?


「ああ。男用だとズボンにファスナーが ――― 」


(あ。)


「え?」


途中で気付いて止めたけど遅かった。

すでに彼女の視線は下に……。


(言わなきゃよかった! 後ろを向きたい!!)


「え、ええと……。」


「なっ、ないみたいですねっ。」


どこか横の方を見ながら彼女は言って、持っていたジャージを俺に押し付けると急いで行ってしまった。


(これからは、もう少し考えてから物を言おう……。)


心からそう思った。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ