14 俺にできること
藍川の淋しそうな顔が頭から離れない。
やっぱり見間違いかも知れないと思いながら、まるで観察するように彼女を見てしまう。
そして、気付いた。
彼女は縞田先輩のことが好きなんじゃないかと思う。
彼女が縞田先輩のことを昔の呼び名で呼んだのは、あの再会した日だけだ。
マネージャーとして来るようになってからは、俺たちと同じように「縞田先輩」と呼んでいる。
先輩に対して馴れ馴れしい態度は決してとらない。
それに、先輩の彼女である箱崎とも仲良く話しているところをよく見かける。
だけど。
縞田先輩に呼ばれたり、何かを頼まれたりすると、とても嬉しそうに返事をする。
話を聞くときは、緊張しながらも、信頼と尊敬のまなざしを向ける。
練習中にふと手を止めて、縞田先輩を見ていることがある。
そんな様子のあとに一瞬見せる淋しそうな表情や、小さなため息とか、決意に満ちた強い瞳とか。
そんな彼女を見ると、俺も淋しいような、なんとも言えない気分になってしまう。
彼女は、縞田先輩に決まった相手がいることはちゃんと分かっている。
分かっていても、たぶん、自分の気持ちを消し去ることができないでいるのだ。
そしてせめてマネージャーとして、先輩の役に立とうと決心しているんだろう。
そう思いながら彼女を見ていると、何となく胸が痛む。
1年生に優しくする姿に。
重たいネットポールを一人で運ぼうとする姿に。
玉拾いでボールを追いかけている姿に。
だから俺は、彼女を楽しませてあげたいと思う。
頑張っている彼女が楽しめる時間を ――― 先輩のことを忘れていられる時間を、少しでも作ってあげたいと思う。
でも……。
本当に楽しませてもらっているのは、俺の方かも知れない。
「これ、何ですか?」
体育倉庫の中で、彼女に尋ねられた。
彼女が手に持っているのは、ボールに空気を入れるポンプ。
30センチくらいの注射器みたいな形で、先にやわらかい管と5センチくらいの針がついている。
(こんなものも珍しいのか…。)
本当に、彼女にとっては初めてのものばかりらしい。
「空気入れだよ。ボールの。」
答えると、彼女は目を丸くした。
「あのボールって、空気入れられるんですか!?」
それを聞いて、逆に驚いた。
普通の生徒って、みんなそう思っているんだろうか?
「だって、空気が抜けてきたら弾まなくなるし。」
「ギリギリまで使って、捨てるしかないのかと思ってた……。」
(ああ、なるほど……。)
「そんなことしてたら、お金がいくらあっても足りないよ。」
「そうなんですか……。」
俺の話を聞きながら、彼女は空気入れの取っ手を押して空気が出るのを確かめたりしている。
小声で「おお!」なんて感心しながら。
「やってみる?」
「あ、ホントに?」
嬉しそうな顔。
これくらいで嬉しいなら喜んで!
「簡単だから。」
ボールカゴを押してコートの横まで移動して、空気の足りないボールを選ぶ。
両手でボールを押して硬さを確認している俺の手元を、彼女は興味津津の様子で見ている。
(本当に珍しいんだなあ。)
こんなことでさえも楽しそうだ。
「ほら、ここに刺すんだよ。」
選んだボールに針を刺し、ポンプの使い方を教える。
「どうぞ。」
空気入れごとボールを渡すと、彼女は床に座って空気を入れようとした。
でも、その手元は少し覚束ないし、力も足りないらしい。なかなか回数をこなすことができない。
それでも諦めずに彼女は挑戦する。
ムキになりながら、膝立ちになって空気入れを押す彼女の様子がなんだか子どもっぽくて……。
「ふ……。」
悪いと思ったけど、笑ってしまった。
それに気付いて、彼女が顔を上げた。
「………。」
無言で見つめる目が、「笑うなんてひどい。」と言っている。
「ごめん。……俺がやろうか?」
そう言うと、彼女はため息をついて、「お願いします。」と頭を下げた。
少しの間、彼女はしょんぼりしていた。
でも、俺が手早く空気入れを押してみせると、たちまち笑顔になった。
「上手ですね。」
「そう? 誰でもできるけど……。」
バレー部ならできて当然のことだ。
でも、そんな当然のことを褒められて、こんなに嬉しいなんて。
空気を入れ終わったボールを渡すと、何度も床にバウンドさせたり叩いたりして確認していた。
それからにっこりと俺に笑いかけた。
こんなことがそんなに楽しいのなら、毎日でもやってみせてあげるのに。
その日、二人一組でパスの練習をしているとき、彼女が何かを後ろに隠しながらやって来たのが見えた。
そのままチラチラと俺たちを窺いながらボールカゴのところまで行くと、床から空気入れを拾い上げて隅っこまで行った。
座り込んだ彼女が持っていたのは、一目で古いと分かるボールだった。
(どこで見付けて来たんだ?)
遠くから見ても明らかに古いと分かる、灰色になっているボール。
(もしかして……。)
尾野と組んでいるパス練習から意識が逸れる。
彼女がこれからやることを見逃したくないという気持ちの方が強い。
(先輩に怒られちゃうよ……。)
そう思っても、彼女から目が離せない。
「相河。」
相手をしている尾野に注意された。
先輩に見つからないように、視線で彼女の方を示す。
尾野が振り向いたとき、彼女は空気入れの針を穴に刺しこもうと奮闘しているところだった。
針を刺すことさえ、彼女には簡単なことではないらしい。
それを見て、尾野が吹き出しかける。
(よそ見してたら叱られる!)
頷き合って、パス練習を再開。
でも、ちっとも身が入らない。
ようやく針が刺ささったらしく、彼女は投げ出した脚の間にボールを置いてポンプを押した。
一発目で上手く空気が入ったんだろう、彼女は満足気な顔をした。
(面白い……。)
普段から口数が少ない彼女は、意外に表情が豊かだ。
だから俺は、彼女の言いたいことが結構分かるんだけど……。
周囲の部員たちも、次第に彼女のやっていることに気付き始めた。
そして俺たちと同じように、手は動いているものの、あまり身は入らなくなっていた。縞田先輩でさえも。
彼女は見られていることには全く気付かない様子で、1回か2回ずつ空気を入れるたびにボールの硬さを確認していた。
そのうちにボールを押してみては首を傾げはじめた。床に置いて、両手で体重をかけてみたりもしている。
たぶん、どのくらい空気を入れたらいいのか、よく分からないんだ。
最後に彼女はボールを拳で叩き、あまり納得しない顔のまま、小さく床にバウンドさせた。
ボールに刺さったままの空気入れも一緒に床にぶつかっているのに、それは気にならないらしい。
(なんだか小さい子どもみたい……。)
そのあとも、ボールからなかなか針が抜けなかったり、抜けたと思ったらボールが転がって行ったりする。
(ボールに空気を入れるだけで、あれだけ遊べるなんて……。)
俺たちはなかなか練習に集中できなくて困ってしまった。
そのボールは、ボールカゴの中にちゃんと入っていた。
たぶん彼女は捨てるのはもったいないと思って、見付けたボールに空気を入れたのだと思う。
でもそれは、相当に古いボールだった。
表面の皮が毛羽立ってざらざらで、外の練習用にも、そこまで古いボールは使っていない。
そして、せっかく彼女が入れてくれた空気は、まだ足りなかった。
(捨てられちゃうかな……?)
俺には捨てられない。
彼女の気持ちが空気と一緒に詰め込まれている気がして。
結局、誰もそのボールを「捨てよう。」とは言わなかった。
みんな一度は触ってみて、またそっとカゴに戻した。
(やっぱりみんな同じ気持ちなんだ。)
彼女はこんなふうに、バレー部の一員として認められている。
それが彼女に伝わるといいと思う。
俺たちの大切な仲間だということが。