夏の終り
初めてキスをしたのは、その年最初の台風であちこちにゴミや流木が流れ着いていた海岸で、僕らは浜辺に点在する見知らぬ漂着物をひとつづつ踏みしめながら歩いていた。ほとんどはコンビニやスーパーのビニール袋で、それらは浜辺に打ち上げられたクラゲの大群のように見えた。中には海流の影響でやって来た韓国の生活ゴミも混じっていて、ハングル文字でデザインされた食器用洗剤のピンク色のプラスチックを見つけると、僕らはそこに書かれている文字の意味を想像して、対岸にある果てしなく遠い国のことを少しだけ考えた。「パワフル酵素」とか「白さが違う」とかそんなコピーをひとつづ想像すると、僕らはなんとなくおかしくなって、その国と一緒に自分たちの間も少し近くなったような気がした。
砂浜は思った以上に体力を消耗させる。僕らはフジツボだらけの流木を見つけると、そこに腰を下ろして、鉛筆で引いたような水平線を眺めながら信じられないくらい長い時間唇を重ねた。
時々、海側に座っていた彼女の髪が僕の顔をさらさらとなでていき、僕は彼女の中に取り込まれているような不思議な気分になる。それはとてもいい感じだ。潮風の中に時折混じる彼女の甘い匂いが、全体的にもの悲しくて、いとおしいような気にさせた。
海岸沿いに建ち並んだ旅館やホテルからは、いつの間にかぽつりぽつりとオレンジ色の明かりが灯り、太陽の光に満たされていたはずの浜辺には、藍色をした闇が押し寄せていた。
当時、僕は海の近くの国立病院へ週に一度通い、医療器具を売る営業の仕事をしていた。注文を受けると、次の週には車に品物を積んで病院に行く、そしてまた注文をもらうの繰り返しだ。時には何百万もするような医療機器を売ることもあったが、そんなことは一年に一度あるかないかで、ほとんどは消耗品の販売が僕の仕事だった。
僕が売ったものは誰かの腕に刺され、使い終わると産廃業者に面倒くさいゴミとして渡され、どこか知らない場所で処理される。何かのニュースで、大量の産業廃棄物が不法投棄されていた事件をやっていて、画面に映った黒い土の中から使い古しの注射器がいくつも出てくると、なんだか胸が痛いような気がした。そんな風に思うことで、僕は自分の中に残っている良心を確認する。僕は大切な20代のはじめにそんな仕事をしていて、それはまずまずの給料がもらえる仕事だったが、大学生のころに夢見ていたような自分ではないような気がした。
彼女はその病院で事務員をしていた。真面目な性格で、長くて黒い髪がきれいでとても印象的だった。僕が商品を届けるとハンコを押して、検品してくれるのが彼女の役目だ。僕らは週末ごとにドライブをして、防風林が並ぶ海岸道路をひたすら走り続けた。その道路は地元ではちょっとしたデートコースで、すれ違う車の中にはたいがいカップルの姿があった。僕らは気に入った浜辺を見つけると、車から降り、波打ち際まで歩いて風に吹かれた。風に吹かれる間僕たちは何も話さずに、ただ側にいてその音を聞いていた。話すことすらはばかれるような強い風だったのだ。
つき合いだしてしばらくたったころ、僕らは彼女の飼っていたタロウというミニ柴をデートに連れてくるようになった。
車の後部座席にタロウを乗せて走ると、窓ガラスに鼻をぺったり押しつけて、目の前を流れていく誰もいない海の家とか、無理にアメリカ風にしたファーストフード店とかを飽きもせずに眺めていた。
浜辺でタロウはひたすら歩き続けた。恐がりなので決して波打ち際には寄りつかないが、同じテンポでしっかり足を運ぶ様子は、どこか決まった目的地に向かって歩いているように見える。僕と彼女はときどきタロウの綱を持ち変えて、まるで冒険心旺盛な子供を連れている夫婦のように、へとへとになるまで歩き続けた。
一度だけ、タロウの綱をはずしてやったことがあった。最初はそのことに気づかないかのようにいつもの調子でトコトコと歩き出し、しばらく行くと一度だけ僕たちの方を振り返って意を決したように突然走り出した。砂浜の途中にある小さな窪みや小山の陰に何度か隠れて、僕たちのいる場所からまったく見えなくなると、タロウが帰ってこないのではないかという不安な心持ちがして全速力で追いかけた。タロウは明らかに僕らのことをバカにしていて、近づくと急に走り出すということを何度も繰り返した。それでも2キロほど先で、底引き網の残骸と格闘しているところをやっと捕まえることができた。そのときヤツに随分噛まれて、右手を3針縫う大怪我をした。噛まれたその部分はだんだん熱くなって、ステアリングを握るたびに激痛が走った。彼女の膝の上にはタロウがかしこまって座っていて、そのやさしい手は僕の肩にではなく、タロウの腹の上で左右に揺れていた。
そのころ僕は、彼女の携帯にかかってくる大学時代の恋人の電話に悩まされていた。学生時代、関西のプロ野球チームでマスコットガールをしていた彼女は、そこで知り合った大学生とつきあっていた。卒業すると同時にそれぞれが地元に帰り、いつの間にか自然消滅していたはずだった。それが、2カ月ほど前から突然電話がかかってくるようになったのだ。それは運転中だろうが、食事をしていようがおかまいなしにかかってきて、そのたびに僕らは会話を中断しなければならなかった。後には何とも言えない重い空気が漂っていて、幸せであるはずのその日がすべて台無しになったように感じた。僕は僕の彼女がほかの男と笑いながら話しているところとか、心配している様子とか、そんなものを目の前で見せられて平然としているほど大人ではなくて、彼女との関係にも、まだそれを乗り越えるだけの自信を持てずにいた。
僕らが湿ったシーツの上で愛し合った後でさえも携帯は容赦なく鳴った。彼女は男と短く会話した後、後ろを向いていた僕の背中を抱きしめて、「今はあなただけだからね」と言って、右の耳に頬をおしつけた。安っぽくて下品な装飾が施されたラブホテルの部屋の中で僕らは無様に抱き合っていて、天井の鏡に映った僕の顔は何とも複雑な顔をしていた。
ある日、いつものように病院へ医療器具を届けに行くと、彼女の姿はなくて、以前からよく知っている経理の女の子がひとりでパソコンに向かっていた。その子は彼女と特に仲が良くて、僕の知らないような彼女の秘密も知っている。
その日僕は、タロウという名前は彼女が昔つき合っていた彼氏の名前だとその子に聞かされた。
その週の日曜日、僕らは車にタロウを乗せて、いつものように海へ向かった。バックミラーを覗くと、後ろのシートに上がり込んだタロウが放心したように外の景色を眺めている。広い道路をすれ違う車はほとんどなく、去年できたばかりなのにもう閉店してしまったコンビニが、タロウの視界を静かに過ぎていく。
海岸に着くと、「ノドが渇いた」と言って彼女にコーラを買ってくるように頼んだ。そしてバッグを預かると、駐車場の反対側にある自動販売機へ歩いていく彼女の姿を、もう二度と会えない人を見つめるようにじっと眺めていた。海からは小さな砂つぶの混じった強い風が吹き付けていて、秋がそこまで来ていることを知らせていた。
足元で同じように彼女を見送っていたタロウが目を細めて僕を見上げたので、綱を強く引いて誰もいない浜辺へ全速力で駆け出した。前日雨が降ったばかりの海岸は砂地が固められ、思いのほか走りやすく、僕らは初めてひとつになったように駈けた。速く走れば走るほど、砂地から開放され自由になっていく。
波打ち際までもう少しというところだった。ふいにバッグの中で彼女の携帯が点滅して着信音が流れだした。2カ月前に流行ったヒット曲が物悲しい感じで浜辺に広がって、『タロウ』という発信者の文字が白いバックライトに浮かび上がっていた。僕はそこで立ち止まり、その曲のサビの部分がどんな歌詞だったろうかと思い出そうとして、2ヶ月前のことでさえ完全に「過去」で、忘れ去ることができるんだと確信して、そう思うことで何かが心の中ではじけ飛ぶような気がして、親指で着信ボタンを押すと、「ワン!」と携帯に向かって叫んで、その夏のすべてを終わりした。
いろいろなことが積み重なっていた。20代は最悪だ。どうしようもなくうまくいかないことが多すぎて、僕はこの数年のことを間違っても楽しかったなんて、誰かに語ることができないでいる。タロウはそんなことは知らずにオシッコのことだけ考えていて、僕をどんどん遠くへ引っ張ろうとしている。
風は今日も強く、言葉などいらないと言っているように聴こえる。湿った砂を掴んで手のひらを開くと、じゃりじゃりいう音と一緒に温かいものをその場所から奪って松林の方に消えていった。
彼女の声がその中から聴こえたような気がして振り返ると、染めたばかりの茶色い髪が林の中で揺れるのが見えた。それに何の感傷も喜びも感じないまま、握りしめていた綱をそっと放して、タロウが遠くへ走り去るのをじっと見つめた。