記憶をほどく頁
その古本屋は、路地裏の、さらに陽の当たらない凹みにひっそりと佇んでいた。看板にはかすれた文字で『落葉堂』とだけ書かれている。
店主の槙野は、白髪の混じった髪を無造作に揺らしながら、古い文庫本の背表紙を静かに拭いていた。時刻は午後五時。薄暗い店内に、珈琲の苦い香りと、湿った紙の匂いが満ちている。
カラン、とドアの鈴が鳴った。
入ってきたのは、仕立てのいい、しかしどこか草臥れた外套を着た青年だった。青年は帽子を目深に被り、店内をそわそわと見回したあと、槙野のいる帳場へと真っ直ぐ歩いてきた。
「あの……」
「いらっしゃい。何かお探しですか」
槙野が眼鏡の奥の目を細めると、青年は懐から一冊の古びた手帳を取り出した。革の表紙は擦り切れ、紐で固く縛られている。
「これを、引き取っていただきたいんです。ただ、普通に売るのではなく……僕の『記憶』と一緒に」
槙野は手を止め、青年を見つめた。落葉堂には時折、こういう奇妙な客が来る。物そのものではなく、そこに染みついた「過去」を置いていきたがる人間が。
「記憶、ですか」
「はい。僕は近いうち、この街を離れます。すべてを忘れて、新しい人生を始めるために。でも、この手帳に書かれたことだけは、誰にも読まれずに、けれど確かにこの世に存在した証として、ここに眠らせておきたいんです」
青年は帽子を脱いだ。その瞳は、ひどく澄んでいると同時に、底知れない孤独を湛えていた。
「僕は、五年前の列車事故で記憶を失いました。でも、この手帳だけが僕のポケットに残っていた。ここには、僕が失ったはずの『誰か』との約束が、僕の知らない文字でびっしりと書かれているんです」
「自分で読まないのですか?」
槙野の問いに、青年は小さく首を振った。
「怖かったんです。読んでしまえば、今の僕が消えてしまう気がして。でも、持ったままでは前に進めない。だから、この街で一番古い本が集まる場所に、そっと紛れ込ませてしまおうと」
槙野は静かに手帳を受け取った。ずっしりと重い。それは紙の重さではなく、青年が五年という歳月、抱え続けてきた葛藤の重さだった。
「分かりました。この本は私が預かります。棚の奥、誰の目にも触れない場所に置いておきましょう。あなたがいつか、もう一度読みたくなったその時まで」
「……ありがとうございます。もう、戻ることはないと思いますが」
青年は寂しげに微笑み、一礼して店を出て行った。カラン、という鈴の音が、秋の夜気の中に消えていく。
槙野は手帳を縛っていた紐を解いた。約束を破るつもりはなかったが、本を預かる者として、その「重さ」の正体を知っておく必要があった。
頁をめくる。そこには、歪な、しかし必死に書かれた文字で、何度も同じ言葉が並んでいた。
『忘れてもいい。君が生きていてくれれば、それでいい』
それは、過去の青年が、未来の――記憶を失うかもしれない自分に向けて放った、最後の祈りだったのだ。
槙野はそっと手帳を閉じ、胸ポケットから万年筆を抜いた。そして、店の奥にある鍵付きの書棚へ向かう。
「いい小説になりそうだ」
槙野は独りごちた。落葉堂の店主には、もう一つの顔がある。ここに集まる人々の記憶を、物語として夜毎に紡ぎ直す、無名の作家という顔が。
外では、乾いた秋の風が、街路樹の葉をカサカサと鳴らしながら通り過ぎていった。




