百夜参り
何かを、忘れている気がする。
三十歳サラリーマンの俺、深山草太はそんな違和感を長いこと抱えていた。
それがなんだったのか、全く思い出せない。
大事な物なのか、そうではないのかさえも。
「……ま、みーやーま!」
自分を呼ぶ声がした。
最初は遠かった声が、だんだん近づいてくる。
ああ、うるさい。
「るっさ……」
「あーもう、昼休憩終わるよ!」
「んあ……?」
休憩が終わる。
その一言で、反射的に起きなければ、と目が覚めてしまう。
まだ寝てたいのに、と思いながらのそのそと起き上がると、そこはよく見慣れた自室ではなかった。
ここは、そう。
職場の仮眠室。
「…………いま何時!?」
「十二時五十四分。まったく、五十分には起こせって自分で言ったんだから、さっさと起きなよ」
紺色のスーツに青と水色のストライプのネクタイを爽やかに着こなすイケメン、俺の同期の九重は事態を把握して慌て出した俺にため息をついた。
「わり、寝過ぎた……」
「シャンとしなよ。午後からも仕事あるんだから」
「わかってる。あー、ねむ……」
「今日やけにぼーっとしてるねぇ。なにかあったのかい?」
衣服を整えて廊下に出ると、後ろから着いてきた九重が顔を覗き込んできた。
「今日っつか、だいぶ前からなんだけど、なんか忘れてる気がするんだよな……」
「忘れ物でもした? でも君、もう昼飯は食っただろう。弁当忘れて娘に持ってきてもらうなんてシチュエーションは所詮夢物語だよ。諦めな、独身」
「わかってるよ……もう俺も三十路だしな。今更身を固めるより、仕事に生きる方がよっぽど楽だ」
「リアルが充実してれば、恋愛なんてしなくてもリア充ってね」
俺の周りの同世代はもうほとんどが家庭を持ち、子供がいる奴も多い。そんな奴らに置いていかれる、なんて考えるよりは、自分には自分に合った生き方があると考えたほうがよほど楽だ。仕事のやりがいを感じられるようになってきて、立ち回りも上手くなって、仕事の楽しみはこれからなのだから。決して、家庭持ちどもを妬んで言っている訳では無い。そう、決してだ。
午後も仕事を頑張るか、と改めて意気込んで自分のデスクにつくと、あ、と隣に座った九重が声を発した。
「どうした? 仕事よりやりがいがあることでも思い出したか?」
「うーん、あってもここじゃ言わないねぇ。そうじゃなくてさ」
そう言いながらぐい、と俺の耳元に近づくイケメンに少し驚きながら、何かを言おうとしているのだと気づいて俺も少し九重に近づいた。
「『百夜参り』って、知ってるかい?」
「百夜参り? なんか、似たような名前は聞いたことある気が……動物の名前みたいな……」
「それは丑の刻参りだろうね」
首を捻る俺に、呆れたように九重が返した。別に、一般常識とかじゃないだろうに、何故そんなに俺を馬鹿にしたような顔をするのか。しかし、そんな顔も様になるのだからイケメン様と言うのは全く凄いものだ。
イケメン様に関心半分諦め半分の感情を抱く俺に気づいないのか、気づいているが意にも介していないのか、九重は表情を変えずに話を続けた。
「丑の刻……昔の時間の言い回しで、だいたい午前一時から午前三時くらいだね。その時間に神社の御神木に憎い相手に見立てた藁人形を釘で打ち付ける儀式のこと。連夜この詣でをおこない、七日目で満願となって呪う相手が死ぬって、聞いたことない?」
「ああ、怪談とかでよくあるやつな」
「『百夜参り』は丑の刻参りが語源だって言われてる噂だけど、呪いとかじゃないんだ」
そのまま話を続けようとした俺たちの背筋に、冷たい視線が突き刺さる。視線の方向を探ると、その先にいたのは課長だった。
「さっさと仕事をしろ」
目がそう物語っている。
この話は後にしよう。
俺たちはそう目配せをして、目の前の資料の山に取り組んだ。
「で、本当に何なんだよ!」
無事定時で仕事を終え、九重と帰宅している途中、あと三百メートルで我が家に着くというところで九重は脇道の路地に逸れてしまった。慌ててついて行きながら問いただすも、答える気がないらしく九重はフラフラと路地へと歩みを進める。
余談だが、俺と九重は現在シェアハウスをしている。理由はたしか、料理が全くできない俺がコンビニ飯を食い続けた結果体調を崩し、見かねた九重がシェアハウスを提案してくれたはずだ。たった二年前のはずなのに、朧月のように曖昧な記憶に思わず自嘲の笑みを浮かべてしまう。ついに俺もボケてきたのだろうか。
「怒ったり笑ったり、ついに頭がおかしくなったのかい?」
「人おちょくるのもいい加減にしとけよ。さっさと帰って飯食って風呂入って寝てぇ」
「その食事を作るのは僕なんだから、君が帰ったところで僕が家に帰らなければ君は食事にありつけないよ」
「だから今説得してるんだろうが!」
「どれだけ説得されても無駄だけどね」
空腹が限界を迎えて叫ぶ俺の声も全く意に介さずにずんずんと突き進む九重に、仕方なく着いていく。俺は食事、風呂、睡眠の順番を崩せない人間なので、先に家に帰って風呂に入ったり寝ることができないのだ。
「今日話しただろう。『百夜参り』の噂」
「あー、なんか言ってたな」
「あれの語源となったのは、丑の刻参りともう一つあってね。百夜通いって、知らない?」
「知らない」
「だろうと思った」
クスクスと笑いながら立ち止まり、路地の壁に背を着いてこちらを一瞥してから今まで歩いてきた道の先へと視線を向ける。
そこにあったのは、真っ赤な鳥居だった。
二メートルの人物がギリギリ潜れるくらいの鳥居の先には、よくある神社の参道の石畳と拝殿が見える。
「ここは……?」
「神社だよ。ここには、小野小町がよく参拝しに来ていたって逸話があるんだ。まあ所詮は諸説のうちの一つなんだけどね」
「小野小町?」
昔実在したとんでもない美人、という程度の認識は持ち合わせているが、何故そのような人物が突然話に出てきたのか全くわからない。首を傾げて説明を促すと、九重は呆れたように肩を竦めた。俺を馬鹿だと言いたいのかお前。一般人の認識大抵こんなもんだろ。
「さっき話しただろう。百夜通いという能の作品に出てくるのが小野小町だよ」
百夜通い。能作者たちが創った小野小町の伝説で、深草の少将という人物が小野小町にたいそう惚れ込んだが小町は少将を鬱陶しく思い自分を諦めさせるために「私のもとへ百夜通ったなら、あなたの意のままになろう」と彼に告げる。それを真に受けた少将はそれから小町の邸宅へ毎晩通うが、思いを遂げられないまま百日目の雪の夜に息絶えてしまった。
「この百夜通いと丑の刻参りが語源となったと言われている噂が『百夜参り』だ。」
「で? その『百夜参り』とやらは何をさせるんだよ」
「こちらへ来てごらん」
そう言うと、九重はずんずんと鳥居の先へと突き進んだ。俺はとりあえず鳥居の前で会釈だけして九重について行った。
「へえ」
俺がついて来たことに気がついた九重は、こちらを振り返ると少し驚いたように目を見開いた。
「なんだよ」
「いや、意外だなと思って」
「何が?」
「深山は神とか信じなさそうなのに、神社での礼儀がしっかりしてるんだね」
「神社での礼儀?」
「……いや、何でもないよ」
前に向き直りまたずんずんと進んでしまった九重にその言葉の意図を問い続けることができず、仕方なく俺も再び九重について行った。
「『百夜参り』は、その名の通り丑の刻にこの神社を参り、参った証として本坪鈴を三度鳴らす。それを百夜続けると、百日目に鈴を鳴らし終えた時、悩みが叶うんだ」
「悩みを叶えるためだけに随分めんどくさいことやらせるんだな」
たかだか、何かを忘れた気がするというだけで百日もそんなことをしなければならないなんて、面倒臭いことこの上ない。そんなことをするくらいならさっさと家に帰って仕事の疲れもろとも全てを酒で流してしまった方が楽だ。
「お酒は体に悪いよ。ここなら家からさほど離れていないし、散歩にちょうどいいんじゃないかな」
俺の思考を読んだかのように話す九重に、思わず顔を顰める。最近の酒の飲み過ぎにより少しメタボになっていたのを気にしていたし、人間ドッグでも注意されたばかりだった。
それに比べて九重は、俺よりも酒に強く二人で飲むときは俺が一杯飲んでる間に三杯飲んでいるほどだ。そのくせ常に健康体で、体型も細っこいまま変わらない。これだからイケメン様は、と何度思ったことだろう。
しかし、実際に健康を気にしなければと思っていたところだ。確かに家からはせいぜい五百メートルほどの距離で、散歩にはちょうどいい。目的も無く歩くことが向いてない俺にウォーキングは無理だと思っていたが、これはその目的にするにもぴったりだ。何と無く思い出せないだけとはいえモヤモヤしていたし、所詮は根拠のない噂とはいえ気を紛らわすくらいにはなるだろう。指定時間は遅いが、十九時に帰宅して二十二時に寝て二時に起きて三時にまた寝て七時に起きれば、合計八時間は寝ることができる。
「あーもう、わかったよ! この神社に来て鈴鳴らすだけなんだな!?」
「丑の刻にね。午前一時から午前三時だよ」
「はいはい。起き損ねたら起こせよな!」
「いいよ。じゃあ早速今夜からね」
俺の投げやりな返答にも満足したように、九重は笑顔できた道を引き返す。
俺も、神社までの道を忘れないように確認しながら、九重の後を追いかけた。
こうして始めた百夜参りだったが、時が経つのは早く、ついに百日目の夜が来た。
寒い寒いと言いながらかろうじて外に出られる格好をして、上にダウンジャケットを羽織る。手袋と帽子も忘れずに着けてたら準備万端だ。そして、冷たいドアノブを捻り外へと一歩踏み出した。
時間は午前二時十七分。最初は九重に叩き起こされて走って神社まで向かうなんてこともあったが、百回目ともなればもう一人で二時に起きてまだ暗い風景を楽しみながら散歩をする余裕もできていた。
灯りの消えた住宅街を、大きな満月が照らす。そういえば、今朝のニュースで今夜はスーパームーンだと言っていた。眩しい月明かりを放つそれは太陽と見紛うほどで、真っ黒な夜空さえ爽やかな青空ではないかと錯覚してしまう。
今夜は、何か起こるかもしれない。
そんな期待を胸に、少し早歩きで神社へと続く路地を行く。
路地の先にある鳥居も、神社も明るく照らされていた。
今まで九十九回続けていたように、鳥居の前で会釈をしてまず手水舎に向かう。右手で柄杓を持って水を汲み、左手に汲んだうちの三割ほどをかける。次に柄杓を左手に持ち替えて、右手に先ほどと同じ量の水をかける。その後再び右手に柄杓を持ち替え、一割ほど柄杓に残して左手に水を注いで、それで口をすすぐ。最後に柄杓を立て、柄に水を伝わせて、自分が持っていた柄の部分まで水を流し、柄杓を元通りに置く。
昔から、神社では礼儀を大切にしなさいと口うるさく言われていたため、こういう一つ一つのやり方が身体に染みついていた。
そして整えられた参道を進み、拝殿に辿り着く。
そして、鈴を鳴らす。神様に聞こえるように。通常ならばこの後礼二拍手一礼をして願いを念じるのだが、百夜参りにはそれが必要とされていない。その代わり、毎回鈴を鳴らしている間に悩みごとを念じる。
忘れていることを、思い出せますように。
左右前後に揺れる鈴を見つめながら、念じ続ける。
俺が忘れている何か。
それは、一体何なのだろう。
ある程度鳴らし続けるも、一向に何も変化は訪れない。
やはり、所詮は噂だったか。鈴を鳴らす手を止め、脱力したように肩を落とす。しかし良いウォーキングの機会だった。おかげで気になっていたメタボも改善され、酒も飲まなくなって医者から褒められた。これからは何を理由にウォーキングしようか。
そんなことを考えながら、来た道を戻ろうと振り返ったその時。
ガララ。
自分の背後から発せられた音に、反射的に振り向く。
先ほどの音、それは拝殿の戸が開く音だった。
拝殿の中から、人影が現れる。
少しずつ、月明かりで顕になるその姿。
腰まである長い黒髪、痩せた身に纏う白い着物、病的なほど青白い肌、そして、切れ長の目に穏やかな微笑み。
美しい。
誰もがそんな感想を抱くだろう。
しかし、俺は違った。
俺は、彼女を知っている。
俺と彼女――雪村小町の出会いは、大学だった。
一年の時、楽しそうだと思った講義をとりあえず取ったら、たまたま彼女と多くの講義が被っていて、必然的に彼女と仲良くなった。
趣味が合い、話が合う。
一緒にいることが楽しくて、気づけば彼女を目で追っていた。
しかしこんな美貌を持つ女性は、きっと誰からも愛されるのだろう。気さくで誰とでも仲良くなれるし、芯があるが常に冷静で最善を選ぶ強かさがある。自分より仲が良い人だってきっといるだろう。
だから、告白なんてしたところで無理だろうと諦めていた。
しかし、大学二年の冬、彼女と遊びに出かけた時。
彼女を駅まで送り届けると、彼女は去り際に穏やかな笑みを浮かべながら俺に振り返った。
「私、好きな人には告白されたい方なんだ。だから、待ってるね」
俺は一瞬呆然とするも、そのまま改札を通ろうとする彼女にそんな時間は与えられていないことに気づき、慌てて追いかけて抱きしめた。
「好きです! 俺じゃ釣り合わないだろうけど、付き合ってください!」
彼女は俺の腕の中でくるりと振り向いて、俺の首に腕を回してくれた。
「待ちくたびれたよ。……こちらこそ、よろしくお願いします」
そして彼女との付き合いは続き、たまに喧嘩をしながらもお互いに唯一無二のパートナーであることを認め、二年前、俺はプロポーズをした。粋なことなんて柄じゃないと思っている俺が百八本の薔薇の花束を持ち帰ったら、彼女は「よくできました」と泣きながら受け取ってくれて、思わず俺も泣いてしまった。あんなに強かな彼女が俺だけに見せてくれた涙は、頬を飾る真珠のようにとても美しかった。
しかし、翌日仕事帰りに婚姻届を持ち帰ると、家を照らすのは暖かな光ではなく、おぞましい業火だった。
既に消防車も到着していて消化活動を行なっていたが、俺たちのマイホームである一軒家の全域に火が燃え広がり、焼き尽くしていた。
「小町、こまち……!」
必死に名前を叫び、轟々と燃える家に駆け寄る俺を消防隊員が阻む。それでも何とか近づこうと手を伸ばした時、伸ばした手が持っていた婚姻届がふわりと風に飛ばされ、家に届く前に燃えて灰となった。
消化活動は、それからおよそ二時間ほどかかった。完全に鎮火した後、消防隊員が一人の焼死体を発見し、採取されたDNAからそれが雪村小町で間違いないと判断された。その焼死体の近くには、炭化した薔薇がいくつかあったらしい。
俺は彼女の無惨な姿を目にした時に倒れ、次に目を覚ますと彼女に関する全てを忘れてしまった。
「あ、ああ……こまち、小町……!」
「久しぶり、草太」
「なんで、おれ……こまち、なんでっ……俺が、忘れて……」
蘇った記憶の量と、大切なものを忘れてしまっていた恐怖に混乱したまま、よたよたと小町に近づいた。
どうして、こんなに大切な人を忘れていたのだろう。
どうして、彼女を一人で死なせて、俺は彼女の全てを忘れてのうのうと生きていられたのだろう。
「すまない、小町……おれ、おれはっ……!」
「いいんだよ。人は、心を守るために記憶を失うんだ。草太が心を壊してしまうくらいなら、記憶を失ってでもちゃんと生きてほしかったから」
「やだ、嫌だ……小町を忘れて生きるなんてっ……」
泣きながら、彼女を抱きしめようと伸ばした腕は、その華奢な肩をすり抜けてしまった。
抱きしめたい、温もりを感じたい。しかしそれは、二年も前に奪われてしまったもの。
「失ったものを取り戻した途端絶望する。これだから人間は興味深い」
後ろから、声がした。それは、俺がよく知る声。
振り返る俺の視界に映ったのは、整った男の顔。
いつものスーツや普段着とは違う高そうな着物を着ているが、間違いない。
それは、九重だった。
「九重、なんで……!」
「何故、か。それは、僕がこの神社の神様だからだよ」
「は……?」
突然意味のわからないことを言い出した同僚を睨みつける。そんな戯言に付き合っている暇は、こちらは無いのだ。
「ああ、信じていないのかい? なら彼女を決してしまえば、信じてもらえるかな」
九重がそう言った途端、小町の存在が少しずつ薄れていく。
また、会えなくなってしまう。消えて、俺を置いて行ってしまう。
「やめろ! わかった、信じるから……」
「それでいいよ。さて、感動の再会を邪魔してすまないが、こちらもやることがあってね」
九重はそう言いながら、元に戻った小町の隣に立ち俺をまっすぐに見つめた。その瞳は赤く、爛々と輝いていて、常人のそれではない。呑まれてしまいそうなほど美しく、引き込まれる瞳をしていた。
「最初にこの神社に来た時、君には百夜参りの語源は丑の刻参りと百夜通いだと話したね。あれは、本当は違うんだ」
「は……?」
「本当の語源は、御百度参りにある。祈願の方法の一つで、その名の通り同じ神社に百度参拝することだよ。つまり、君は願いを叶える権利がある。さあ、願いを聞かせてごらん」
九重のその言葉に、熱に浮かされたかのように俺は心にある願いを言葉に紡いでいく。
「殺して、くれ……俺を殺して、その代わりに、小町を生き返らせてくれ……!」
「なっ、だめだよ草太! 死なないで、生きて!」
「俺は小町を忘れてのうのうと生きていたんだ! こんなことは許されちゃいけない!」
「嫌だよ! お願いします、神様。草太を殺さないで……!」
俺の願いと小町の願い、平行線を辿るそれらが九重に向けられる。
「ああ、いいよ。深山草太くん、君の願いを叶えよう」
「そんな!」
小町の悲鳴が響く。
しかし、その時にはもう俺の視界は暗く閉ざされていた。
「草太、草太!」
小町の声だけが、聞こえる。
ありがとう、九重。いや、神様。
「しかし……一度に二つも願いを叶えるなんて、人間風情が贅沢が過ぎるというもの。叶える願いは、ただ一つ」
そんな神様の声を最後に、俺の意識は途切れた。
「……た、そーうーた!」
自分を呼ぶ声がした。
最初は遠かった声が、だんだん近づいてくる。
ああ、うるさい。
「るっさ……」
「あーもう、仕事遅れるよ!」
「んあ……?」
仕事に遅れる。
その一言で、反射的に起きなければ、と目が覚めてしまう。
まだ寝てたいのに、と思いながらのそのそと起き上がると、そこはよく見慣れたマイホームの自室だった。
二年前、小町と結婚した時に買ったマイホームの。
「…………いま何時!?」
「七時三十八分。まったく、七時半には起こせって自分で言ったんだから、ちゃんと起きてよ」
水色のワンピースの上にオレンジ色のエプロンがよく似合う、俺の最愛の妻の深山小町は事態を把握して慌て出した俺にため息をついた。
「わり、寝過ぎた……」
「シャンとしなさい。今日も仕事でしょ?」
「わかってる。あー、ねむ……」
寝ぼけた目を擦りながら朝食をかき込み、慌てて支度をして家を飛び出す。
「っと、やべえ。ここを右に行って……」
しかし、真っ直ぐ会社には向かわず、家を出てすぐのとこにある路地に入る。その先にあるのは、寂れた神社。
いつからかは覚えていないが、俺は毎朝ここに来て参拝をするのが日課になっていた。
いつも通り、小町に叩き込まれた作法に則って参拝を行う。
ガランガラン。
鈴が大きく揺れる音を聞きながら、二礼、二拍手、一礼。
「……あ、定期忘れた!」
突然頭に降ってきた重要事項に、俺は踵を返して神社を後にした。