4 願い事
「つまり、領主の代わりに、なぜか私が不老不死になってしまっていたというワケ。笑っちゃうわよね」
「いや、全然、笑えないんですけど」
「それで、ようやく『十戒』を揃えて、儀式を行なうところまで来たという事なんだけど……、信じられないという顔ね」
「ええ、本当に」
「信じられないわ……。不老不死なんて……」
「まあ、実例が目の前にいるしね。そろそろいいんじゃないですか、センパイ」
「郁……?」
「センパイの話を聞いてたよね? センパイは、剣で刺されようが斬られようが、死なないんだ。だから……」
そう言って、郁は血塗れのハンカチを仄香の手から取り上げた。
潤一によって刺された佳苗の腹部を仄香がハンカチで押さえた時、そこにはパックリと傷口が開いていた。だが、ナイフによって開いた黒い衣装の穴からは傷口が見えず、ツルリとした綺麗な肌が見えているだけであった。
よくよく思い出せば、佳苗の口調は刺されたときは苦しげだったのだが、昔語りをしているうちに元に戻っていた。
佳苗が刺された事を示すのは、腹部に開いたワンピースの穴と、血塗れのハンカチだけである。
佳苗が無事と分かって安堵した仄香であったが、今度はふつふつと怒りが湧いてきた。そして、その怒りのまま、佳苗の頬を叩いてしまう。
「いたっ!」
「何よ! 死なないし傷も残らないんなら、罪滅ぼしになるわけないじゃないの!」
「待ちなよ、仄香。確かにセンパイは死なないけどさ、痛くないわけじゃないと思うよ?」
「あ……、ご、ごめんなさい……」
「謝る事無いわよ。私の目的の為にあなたの友達を犠牲にしたのは確かなんだから」
そう言って、佳苗は何事も無かったかのように立ち上がった。黒いワンピースは穴が開いて血塗れだが、それ以外はこれまでと変わらない様子である。
「だから、これもお詫び」
仄香は、佳苗の取り出した小さな香水瓶を受け取った。
「これは?」
「それは『忘却』の魔香よ」
「……ふん、今さら……。『忘却』なら私も持っているわ。おばあさまの黒い香りがあるもの。瑞希の記憶から、今回の件は綺麗に忘れさせてあげる」
「そうね。先生の『忘却』はとても強いわ。でも、その効果は個人にしか及ばない。でも、これは魔香なの」
「それって、どんな違いがあるんですか?」
薫子の使う『忘却』の事は、郁も知っている。それを使われた人間は、まるで魔法のように特定の記憶を失うのだ。使い方を誤れば逆行性健忘症、いわゆる記憶喪失と呼ばれる状態にまで陥らせることが出来る。
「基本的な効果は先生の『忘却』と同じ。それに加えて、因果も含めて忘れさせる事が出来るわ」
「因果……、ってまさか! 周囲の人間にまで影響が?」
「どういう事なの、郁?」
「薫子さんの『忘却』は本人が忘れるだけだけど、センパイのそれは、周囲の人間も同じ記憶を忘れてしまう……らしいんだけど……」
「それじゃあ、私たちまで忘れちゃうじゃない!」
「それは大丈夫よ。仄香さんのクラスメイトに忘れてもらうのは、さっきの彼に『十戒』を使われたイヤな記憶。そこに限定すれば、その娘にとって彼との出来事は無かった事になる。それに、『十戒』が関わっているけれど、あなたたちと『十戒』の因果の方が遥かに強いから、あなたたちが忘れる事は無いでしょうね」
「本人たちに記憶がなければ、それは無かった事と同じ、というわけですか」
「そう。過去は変えられないけれど、これから先、その娘が思い悩む事は無いでしょうね」
「……瑞希の事は分かったわ。センパイを許すわけじゃないけど、これは受け取ってあげる。あと、センパイの過去は分かったけど、目的をまだ教えてもらってないんだけど? 退魔フェロモンが見たかっただけじゃないんでしょ?」
「そうね。悪魔を呼び出すだけなら、さっきの粗忽者にも出来た事だもの。だからこそ、そんなお手軽な悪魔召喚のアイテムなんて、存在してはいけない。もしも戦争ができるような一国の指導者が『十戒』を手に入れたら、積まれる悪徳はどれほどのものになると思う?」
「それは……さすがに大袈裟でしょ……。ねえ、郁?」
「大袈裟かもしれないけど、それが可能だというのは見逃せないよ。確かに、日常の場で『戒めの六:汝、殺すなかれ』を犯す人間なんてそうはいない。でも、戦争となったら人死にが日常だ。他の悪徳だって簡単に積めるだろう」
「戦争なら、でしょう? 今の平和な日本で『十戒』の悪行を大規模にやろうとしたら、それこそ世間を騒がす大事件になるわ。ウサギ小屋の件だって、十分にニュースになってたじゃない」
「そこは確かに、私の計算違いね。キリスト教が布教に失敗するような国。そして、三大宗教のいずれにも染まらない国。だから、この国に帰って来るまで、今の日本人はみんな不信心者だと思っていたわ。『十戒』を使える人間なんて、いくらでもいると思ってた」
「それは、まあ残念でしたね。日本人の宗教観は、日本人自身でも意識しないところにありますから。お天道様や世間様が怖いんですよ。誰も見ていなくても、そうそう悪い事なんてしないんです」
「でも、全員が全員、そういうワケでもない」
「……潤一のような?」
「ええ、そう。無意識にでも神を貶めるような人間こそ、『十戒』を使う資格がある。魔香の一つ一つは使えても、『十戒』という儀式を成就させられる者は、そうそういないわ」
「その割に、潤一の呼び出そうとした悪魔は小物みたいでしたけど。センパイの目的には合わないんじゃないんですか?」
「郁は、センパイの目的を知ってるのね?」
なんとなく隣の仄香からチリチリする気配を感じながら、郁は答えた。
「……『十戒』をこの世から消し去る事。センパイ自身も含めてね」
「正解。……不老不死の人間を殺すのってね、とても難しいのよ。映画の吸血鬼みたいに弱点があるわけじゃない。何があっても死なない……、いいえ、死ねないのよ」
「センパイが何度、自殺を試したか知りませんけど、全部失敗したんですね?」
「郁の言う通りよ。成功してたら、ここにはいないものね」
自嘲の笑みを浮かべて、佳苗は困った顔を二人に向けた。
「だから、より強い悪魔を呼び出す必要があったの。その為に、際限なく悪徳を積むような、そんな人材が必要だった。まあ、生贄ね。彼にはこれからもたくさんの悪徳を積んでもらって、より強大な悪魔を呼び出してもらおうと、そう思っていたの。私が死ぬ為にね。手段は選ばないつもりだった。四百年は、ちょっと長すぎたのよ。さすがに疲れちゃった」
その瞬間、仄香の目に映る黒い女の、市松人形のように整った風貌が一気に色褪せて見えた。自分たちと同じ世代のように見えながら、祖母の薫子よりも遥かに年上のように見えてしまう。そしてそれは、実際にその通りであった。
「思っていた……。過去形なんですね?」
「ええ。この先、何人死のうと、どれだけの人が不幸になろうとも、私は自分の願いを叶えて死ぬつもりだった」
「そんな……、そんなの! 許される事じゃないわ! センパイひとりの願望の為に、たくさんの人を不幸に巻き込むなんて! センパイが死ねないなんて知らない! とっとと『十戒』を捨てて、どこかでミイラにでもなってればよかったじゃない!」
「今さらなのよ。この四百年の間、私が誰も死なせていなかったと思う? 『十戒』に絡んで、誰も死ななかったと思う? 仄香さんの友達は確かに不幸に巻き込まれたけれど、それは私がこれまで見てきた人死にと不幸の中の、ほんのひと欠片なの」
「この……、センパイは魔女よ!」
「ふふ、本当にその通りね。でも、この先、私は自分が死ぬ為に『十戒』を使うにしても、これ以上の悪徳を積む事は無いわ。あなたのおかげよ、郁」
「ボクの? ボク、この件でセンパイに何かした覚えは無いんですけど……。むしろ、一方的に秘密を教えてもらってばっかりですよ」
「いいえ、あなたはとても大事な示唆を与えてくれたわ」
「示唆?」
「本当なら、私が自分で気付くべきものだったのにね」
「いったい、何の話です?」
「概念よ」
「概念……、考え方?」
「ええ。『十戒』の悪徳は、概念上の行為でも積む事が出来る。最初にあなたたちと喫茶店で話した時、郁から聞いた言葉がヒントになったわ。そしてあの後、何度か試してみたのだけど……結果、『十戒』のケースは反応した。誰も、不幸にならなかったのよ」
憂いの無くなった晴れやかな顔で、佳苗は二人に微笑みかけた。
「それじゃあ! ますます悪魔召喚の儀式なんて、する必要は無かったじゃないですか!」
「必要が無いのはこれ以上の悪徳。でも、最初に言ったでしょう? 魔香には対抗手段が必要だって」
「それは……」
「『十戒』の対抗手段は、呼び出した悪魔を追い返す事。薫子先生は気付いていたみたいだし、仄香さんも先生の覚書から真実に辿り着いたんでしょう?」
そう言って、佳苗は悪戯っぽく微笑むと、人差し指を唇に当てた。そして、仄香と郁を交互に見る。
佳苗の視線の意味するところに気付いた仄香は、隣に立つ幼馴染みと一瞬目を合わせた。そして、お互いに頬を赤らめて目を逸らす。
「ふふ、良いわね。出来立ての番というものは。これを見る為に長生きしてきた気がするわ」
「なな何言ってるんですか、センパイ!」
流石にいたたまれなくなった仄香は、声を荒げて佳苗を指差した。
「このまま死ぬにしても、あなたたちの関係が心残りになったら、死ぬに死ねないものね」
「と、とっとと死……、うぐ……、あーもうっ! いなくなってよ!」
目の前の黒い女は、『十戒』に絡む事件の元凶である。親友が不幸な目にあったのも、彼女が原因の一端である。
だがそれでも、人に面と向かって「死ね」とは言う事は出来なかった。なにしろ、佳苗はこれから本当に死ぬつもりだからである。
「でも、対抗手段と言っても、『十戒』はもうセンパイと一緒に消えてなくなるんでしょう? やっぱり必要ないんじゃないですか?」
「確かに、この『十戒』は処分するわ。でも、いつか全く別の魔香、あるいは科学的な手段で悪魔を呼び出す事が出来るようになるかもしれない」
「いくらなんでもそれは……」
「郁なら知っているでしょう? 『十分に進んだ科学は、魔法のように見える』って言葉。いつか科学は、魔法と同じ事が出来るようになるかも。そんな時、あなたたちの確かめた対抗手段が役に立つ。技術として残っているのなら、四百年前の魔香が騒動を起こしたように、四百年後のあなたたちが騒動を納めるかもしれない。これはそういう話なのよ。だから、必要な事だった」
「はあ……。分かりました。せいぜい、そんな知識が役に立たない未来になるように祈りますよ」
「そうね。それが良いわね」
「センパイは、これから本当に死ぬつもりなの?」
「ええ、そうよ。上手く死ねるように、祈っててちょうだい」
「……」
「仄香?」
目を伏せて黙りこくっていた仄香であったが、決然として顔を上げた。
「アタシ! センパイの事はキライです! でも、調香の可能性を見せてくれた事には感謝してます!」
仄香の正直過ぎる別れの言葉に、佳苗を目を丸くして驚いていた。そして、可愛らしい孫を見るような顔で微笑む。
「……私はこれまで、散々不幸を振りまいてきたのだけど、最後に感謝されて死ぬのも悪くないわね」
そう言って、佳苗はポケットから取り出したアトマイザーで、自分に香水を吹きかけた。
「それじゃあ、さようなら。二人とも、末永くお幸せにね」
『十戒』を手に微笑む佳苗が、段々と意識から薄くなっていく。そして、ふと気付いたときには、黒い女の姿は無かった。喫茶店の時と同じ、二人の意識から消え失せてしまったのである。