3 過去
その少女は、遠い異国の地から奴隷として連れられてきた。
当時、開発されたばかりの最新兵器である銃。
商人たちは、それを東の果ての国へ売り込みに行ったのだが、数年前に二挺だけ売ったはずのその国では、いつの間にかヨーロッパを超える数の銃が生産されていた。
想像を超える事態に度肝を抜かれた商人たちであったが、別のところに商機はあった。日ノ本と呼ばれていた東の果ての国では、火薬の原料となる硝石が希少であったという。いくら銃があっても、火薬が無ければただの棒である。そこで商人たちは硝石を輸出する事にしたのだが、対価として求めたのが現地の人的資源、つまり奴隷であった。
当時の世界は大航海時代の真っ只中であり、中でも奴隷貿易は盛んに行なわれていた。主人の言う事をきく便利な動物。それが当時の奴隷の扱いであった。その点、日本人は忍耐強く「商品価値」が高かったと言われている。
すべての日本人奴隷が硝石と取引されていたわけではないが、いずれにしても貧困や敗戦から奴隷として日本人が遠くヨーロッパの地に売られていったのは歴史的事実である。豊臣秀吉が伴天連追放令を出したのも、この外道な商売を禁止する為であったと言われている。
ヨーロッパに運ばれた多くの日本人奴隷の中で、お馥と呼ばれた少女はプラハの片隅で妖しい学問に勤しむ男に買われた。
おそらく、お馥の境遇は奴隷としては恵まれたものであったのであろう。錬金術という少女にとっては妖術とも見える学問に没頭する男は、生活能力が皆無である事を自覚しており、その為にお馥を買ったのである。
男に言われるまま男の生活を助け、身の回りの世話をするうちに、いつしか少女は男とベッドを共にするようになった。
少女が錬金術を覚えていったのも、その頃である。生活の補助だけでなく、錬金術の手伝いをするうちに自然と身についていったのだが、少女の物覚えの良さに気を良くした錬金術師がどんどん知識を授けていったのも大きい。二人は生活の中で、錬金術の事ばかりを語るようになった。昼と夜とを問わずに議論を重ね、ベッドでの睦事の際にも愛の語らいと錬金術の話題が半々という有様であった。事の最中にアイデアがひらめき、二人で裸のまま実験台に向かった事も一再ならずあった。
「領主様の呼び出し、ですか?」
そんなある日、錬金術師が領主に呼び出されたという。
「ああ! ようやく僕の技が認められたらしい。この『十戒』は良い。悪魔を誘う為に香りを使うという君のアイデアが無ければ、完成しなかったろう」
二つのケースを脇に抱えながら、錬金術師は興奮気味にお馥に語った。
日本にいた頃、お馥は農家の娘であった。とある木々を燻す事によって虫除けとしたり、農業の妨げとなる害獣をおびき寄せるのに匂いを発する団子を作ったりという知識があった。
錬金術師がテーマとしていたのは、使い魔となる悪魔の召喚である。究極の目的は賢者の石の生成であるが、その過程で悪魔の力を借りるというアイデアを思い付き、今ではそれがメインテーマになっていた。
錬金術師にとって、悪魔召喚自体は難しい事ではない。だがそれでも、『十戒』というアイテムを使って誰でも悪魔を呼び出せるというのは、門外漢の領主にとって興味深いのであろう。
キリスト教の影響が大きいヨーロッパにおいて、本来の十戒と真逆の行為を堂々と行うのは難しい。しかし、『羨望』や『偽証』など、日常的な生活の規範を破る程度の事であれば誰でも隠れて出来る。実際、錬金術師が積んだ悪徳はささやかなもので、呼び出した使い魔もせいぜいが家畜と変わらない使い方しか出来ないモノばかりであった。
そんな力でも、領主が興味を覚えたというのであれば披露しないという選択肢は無い。むしろこれを機に領主から支援を受けられれば、錬金術師の研究は飛躍的に進む。
お馥は、『十戒』を手に意気揚々と出かけていく主人を見送った。
*
それからしばらく、錬金術師は家を空ける事が多くなった。朝早くに領主の使用人と思しき男たちと出かけ、夜遅くに帰って来る日々が続いた。領主の使用人たちも様々で、屈強でガラの悪い男たちであったり、裕福そうな身なりの商人たちであったり、一様に装備を揃えた騎士たちであったりした。
錬金術師が外で何をやっているのか、あるいは何をやらされているのか、お馥には分からない。男女の仲になったとはいえ、二人の関係は主人と奴隷なのだ。立場を弁えているお馥は、あまり踏み込んでいくような事はしなかった。
「領主様の呼び出し……、またですか?」
しばらくすると、再び錬金術師が領主に呼ばれたらしい。しかも、今度はお馥と共に登城しろという。
「もうすぐ、『十戒』の儀式が整う。アイデアを出したお前も、儀式を共に見るという栄誉を授けたいんだそうだ。あれほど準備に時間をかけたんだ。どれほどの悪魔が呼び出されるのか、お前も見たいだろう?」
準備とやらがどれほどのものだったのか、お馥は知らない。だが、『十戒』の為の悪徳は、人としてやってはいけない事のはずである。それを、時間をかけてじっくりと行なったという。
お馥は、目の前の男が急に怖くなってしまった。熱に浮かされたように、これから行われる儀式について呟いている。
だが、お馥に拒否する事は出来なかった。お馥は、錬金術師の奴隷なのだから。
物々しい雰囲気の騎士たちに囲まれて、錬金術師とお馥は領主の用意した城の広間に案内された。そこには檻に閉じ込められた大型の犬がおり、檻の上部には教会や聖堂の雨樋などにみられるガーゴイルの像が置かれていた。あれが『戒めの二:汝、偶像を作るなかれ』に反する偶像だろうか。
檻の前には『十戒』のケースが二つ並んでいた。目を凝らしてみれば、ケースに刻まれた十個の条文がぼんやりと光っている。
そして、広間は『十戒』の香りで満たされていた。
『十戒』は十種類もの香水が使われているが、全ては同じ、薔薇と麝香をベースに調香されている。それらに魔術で意味を付与し、別の手段で呼び出した悪魔の身体から得た香料を足しているのだ。いずれも異なる香りでありながら、ベースは同じである為、匂いに混乱は無い。
これで、儀式とこの香りに惹かれた悪魔が誘われてくる。動物などと同じように、悪魔も同族の匂いに惹かれてくるらしい。
錬金術師が言うには、積み上げた悪徳の量によって呼び出される悪魔の格が変わるという。檻の中の大型犬は、悪魔の依り代なのだろう。錬金術師がネズミや虫を使ったり、人形を用意していた事を考えると、随分と強い力を持った悪魔を呼ぶ気らしい。
お馥は不安で震えが止まらなかった。そもそも、奴隷の身分で領主の城に招かれるのが異例なのだ。錬金術師の弟子とでも見られているのか、お馥の存在を咎める者はいなかった。しかし、広間へ来るまでに注がれた視線は、とても好意的なものとはいえなかった。
そして、錬金術師がお馥の知らないところで積んだ悪徳。それがどれほど人の道に外れていたのか、想像も出来ない。
お馥は震える身体を悟られないよう身を小さくして錬金術師の側にいたのだが、主人は奴隷の様子に気付かず、得意げに領主と話をしている。
やがて、領主の合図で儀式が始まった。
とはいえ、儀式の本番は『十戒』で悪徳を積む事。それが成っている今、あとは『十戒』のケースに向かって悪魔を呼び出すだけである。
ケースに向かって錬金術師が歩み始めた瞬間、お馥は背後から突き飛ばされた。あまりの衝撃に何が起こったのか分からず、振り返ろうとする。だが、何かがつっかえて身体が動かない。ふと下を向くと、自分の胸から何かが生えている。それが騎士の持っていた剣の先端だと気付いた瞬間、喉奥から血の塊がせりあがってきた。堪える事が出来ず、そのまま吐き出してしまう。
「う……あ……」
やがて、胸に生えた剣が消えた。同時に、自分を背後から押えていたものが無くなり、身体は自由になる。だが、手足に力は入らなかった。そのまま前のめりに倒れ、自分が吐き出した血の海に頭を落とす。
耳には領主に激しく詰め寄る錬金術師の声が聞こえるが、意味が分からない。
そのまま、お馥の意識は死の沼へ沈み込んでいった。
*
どれだけ時間が経ったのだろうか。
お馥が目を覚ました時、広間に人の気配はなかった。ただ、『十戒』とは別の、濃密な生臭い香りに満ちていた。それはかつて、故郷の東の果ての国で散々に嗅いだ匂いだ。戦場に漂う、血の匂い。
薄暗がりに慣れた目で広間を見回すと、そこかしこに死体が転がっていた。甲冑に身を固めた騎士、領主の脇に立っていた家臣と思しき男たち、そしてその領主。
主人の錬金術師を探したが、お馥にはそれが無駄だと分かっていた。消えゆく意識の最後に見た光景がそれを物語っている。錬金術師は悪魔を呼び出す為にその身を悪魔と変じたのち、領主の騎士たちに殺された。
つまりは……。
「口封じ……」
悪魔を呼び出して、不老不死を授かる。
それが領主の望みであったらしいのだが、同じ事を他の人間にもさせないためなのか、用済みとなった瞬間にお馥も錬金術師も殺されたらしい。
だが、自分が殺された前後の記憶が曖昧だ。
いや、そもそも、自分は騎士の剣に胸を刺し貫かれたはずなのに、なぜ生きているのだろうか。ふと胸に手を当てれば、背後から身体を貫かれたと思しき場所の服が裂けている。だが、その切れ目の隙間からは、傷一つない自分の柔肌が見えていた。
「私……殺されたんじゃ……」
何が起こったのかまるで分からないまま、お馥はこの場から逃げ出そうとした。
だが、広間の入り口まで来たところで、広間の異常に気付いたらしい騎士たちと鉢合わせてしまった。そして、広間の中と自分を何度か見比べた騎士に、何の躊躇いもなく斬り殺されてしまった。
肩口から脇腹まで、自分の身体を斜めに走る剣先。一瞬遅れて噴き出す血。
今度こそ死んだと思ったお馥の意識は、暗い闇の中へと落ちていった。
*
次にお馥が目を覚ました時、そこは死体の山の中であった。
人体というのはかなり重い。ましてや死体では、とても女の細腕で動かせるものではない。それでも、お馥は吐き気のするすえた匂いの中、わずかに見える光に向かって死体を掻き分けて進んだ。
やがて死体の山の中から這い出したお馥は、夕暮れの弱い陽の光の元で周囲を見回した。すぐ近くに高い城壁が見える。どうやらここは、城の裏手らしい。少し離れたところでは、身なりの汚らしい男たちが死体を燃え盛る火の中に次々と放り込んでいる。
このままでは燃やされてしまう。そう思ったお馥は、文字通り這う這うの体で死体の山から逃げ出した。
そして、失われた『十戒』を探す為の、四百年の彷徨が始まった。




