2 血まみれの後始末
「お前……、馥山佳苗!」
「“先輩”を付けなさいよ。一応は年上なんだから」
慌てて潤一を追おうとした仄香が舞台に目を向けると、そこには闇から滲みだしたような黒い女が立っていた。
いつの間に現れたのか、邪神像のあった舞台中央に立つ佳苗はシックな黒のワンピースを身にまとい、市松人形のように整った美貌を三人に向けている。悪魔が降臨しようとした場に不釣り合いなほど、普段と変わらない雰囲気であった。
そして、相変わらず、黒い。
「……センパイッ!」
「いつの間に舞台にいたんだ……」
仄香が舞台から潤一に視線を移したのは、それほど長い時間ではない。その一瞬で、舞台袖から中央まで来るのは、全速力で走っても不可能であろう。そしてその答えは、すぐに佳苗からもたらされた。
「最初からいたわよ。あなたたちが来る前から、ずっとこの舞台にね。あなたたちが気付かなかっただけ」
そう言って、潤一に先んじて、佳苗は割れた邪神像の前に置かれていた『十戒』の二つのケースを拾い上げた。
「『孤独』……」
「薫子先生の黒い香りは、そう呼ばれていたわね」
それは、喫茶店で黒い女が仄香たちの前から消えた理由である。他者の認識を阻害し、目には見えているのに脳が存在を拒否してしまう香り。
突然の佳苗の出現に驚いた仄香と郁であったが、二人も潤一を追って舞台に上がった。
仄香と郁、馥山佳苗、協和潤一。
立場も見た目も異様に異なる三すくみが出来上がる。
「郁はもう気付いていると思うけど、この『十戒』は元々私のモノなのよ。だから、返してもらうわ」
「ふざけんな! オレの好きにしていいんじゃなかったのか?!」
「好きにしたんでしょう? この『十戒』を使って。でないと、悪魔なんて呼び出せないものね。それに……」
佳苗は仄香の方をちらりと見た。
「仄香さんの香水を破る方法も、教えてあげたじゃない」
「……やっぱり、センパイがっ! センパイのせいで、瑞希が……っ!」
「ごめんなさいね。どうしても必要だったのよ。彼が悪魔を呼び出す為には」
「ワケ分かんないわよ! なんでそんな事がしたかったの?! 悪魔を呼びたかったの? 追い返したかったの? どっちなのよ?!」
仄香は、佳苗の行動に感じていた理不尽をそのまま言葉にしてぶつけた。
事ここに至っても、佳苗の目的が分からない。
だが、それに答えたのは隣にいる郁であった。彼は、いつでも仄香の期待に応えてくれる。
「……悪魔を呼び出す必要があった。そして、悪魔を追い返す必要があった。……つまり、センパイが見たかったのは、……退魔フェロモン?」
「正解。いいわね。頭の良い子って好きよ」
「なんで……なんで、そんな事を……?!」
「仄香さんなら知っているでしょう? 黒い香りには必要なもの。でも昔、私の主人が『十戒』を作った時、そんな事は考えもしなかった」
「それって……対抗手段……」
仄香は思わず、自分と郁の胸元に目をやった。さっき潤一に対しして使った剣の花=フルール・ド・フルーレ、それを自分たちにまで影響が出ないように、仄香は自分と郁に対抗手段としてフルール・ド・フルーレを無効化する香水を吹きかけたのだ。
「でも、『十戒』を作ったのが、センパイの旦那さん……? 『十戒』は、ずっと昔に作られたモノじゃないの?」
「何言ってるんだ。最初に気付いたのは仄香じゃないか。センパイが見た目通りの歳じゃないって。最初に話をした喫茶店で、センパイは自分が何歳だって言ってた?」
「で、でも! いくらなんでも四百歳なんて……。それじゃ、曽田さんの言ってた、黒い女って本当なの? 馥澤沙苗っていうのも、あなたの事?」
「あら、懐かしい名前が出てきたわね。先生に聞いた事があったの?」
「おばあさまのノートに名前があったわ。フェロモンとか、魔香とかの走り書きの中に」
「先生に魔香の事を相談したのは三十年ほど前だったかしらね。私には、どうしても『十戒』の対抗手段が必要だったのよ」
「アタシがおばあさまから黒い香りを習ったとき、必ずそれを無効化する方法も教わったわ。香りは揮発性が高いから、強い効果のある香りが際限なく広まったら困るもの。黒い香り自体も、何段階も手順を踏んで効果を発揮するものもあるし、すぐに効果を打ち消さないといけない場合もあるしね」
「……ああ、潤一に使った痴漢撃退のやつもそうだったね」
学校の教室でクラスメイトの香山瑞希に言い寄ってきた潤一を、仄香は鼻血を伴った嗅覚麻痺で追い払った。仄香はその時、使ったハンカチに別の香料を吹き付けていた。あれが、黒い香りを無効化する対抗手段という事なのである。
「仄香さんの言う通り、黒い香りや魔香には必ず対抗手段が用意されているわ。毒を使う人が必ず毒消しを持っているようなものね」
「毒蛇が、自分の毒では死なないようなものですね」
毒蛇は牙の根元から毒を分泌するが、それで自分が死ぬ事はない。毒蛇自身が体内に毒の抗体を持っているからである。
「クソっ! お前ら! さっきから何の話をしてるんだ! お前らグルだったのかっ?!」
「ふふ、残念だけど、その通りね。でも、悪く思わないでちょうだい。あなたも良い思いが出来たんだし。これでチャラよ。お互い、利用し合う関係だったのは、最初からそうだったでしょう? でも、あなたに『十戒』を使わせるのはこれっきり。あなたにはもう用がないの。だから、とっととお帰りなさいな」
仄香は、佳苗の言い様に違和感を覚えた。緊張感のある場面ではあるが、激高している潤一を無駄に煽っているように見える。
「ふざけるな! この魔女め! そいつを寄越せ!」
思った通り、悪魔化していた時の興奮が残っているのか、ナイフを腰だめに構えた潤一は佳苗に向って襲い掛かった。
黒い香りか、それとも魔香か。仄香の剣の花のように、佳苗には潤一をあしらう手段があるのだと仄香は思った。
だが、『十戒』の二つのケースを片手に持った佳苗は動かない。そしてそのまま、潤一の凶刃は佳苗の腹部にめり込んだ。
「……………………え?」
黒い女が刺された。その光景を、仄香はすぐに理解する事が出来なかった。佳苗は、何もすることなく大人しく刺されてしまったのだ。
「ざまあみろ……。オレを利用しようとした罰だ」
「ふふ、本当に期待通りの事しかしないわね。頭の悪い子ってキライよ。ぐふ……」
そう言って、口から血の塊を吐き出した佳苗は、しかし身体を微動だにさせず、潤一にアトマイザーを向けた。そして躊躇なく香水を吹きかける。
「ぶわっ……。なんだっ?!」
「これで……満足したでしょう? とっとと帰って、寝てしまいなさい。そして……目が覚めたら……、『十戒』の事を、忘れ……なさい」
「……ああ、分かった」
そう言って、潤一はケロッとした表情で佳苗の身体に突き刺さったナイフを引き抜き、身を翻して舞台袖の闇に消えていった。
残された仄香と郁は、意味の分からない二人のやり取りに呆然としてしまう。あまりにもあっさりとした潤一の退場に、理解が追い付かない。
「瑞希さんの事は……、ごめんなさいね。これで……許してもらえる……かしら……?」
そう言って、佳苗は口からさらに血を吐き出すと、バタリと倒れた。
「な、何してんですかっ! センパイっ!」
ようやく金縛りから解けたように、仄香と郁は倒れた佳苗に駆け寄った。
仰向けに倒れた佳苗は口元から血を流し、刺された腹部からはジワジワと血が噴き出している。
仄香は真紅のポーチから持ってきただけのハンカチを掴み出し、刺された痕に押し当てる。だが、何枚ものハンカチはあっという間に血で染まってしまう。
「なんで……ワケ分かんないですよ! センパイ!」
「ここまできて秘密は無しですよ。ボクたちは、図らずもセンパイに協力する形になってしまったみたいだ。でもそろそろ、センパイの本当の目的を教えてほしいんですけど」
「郁はもう……、気付いているんじゃ、ないかしら?」
「ええ、多分。でも、それはあくまで推測でしかない」
「臆病な……あなたらしいわね。いいわ、昔話をしましょう。……本当に、すごく、昔の話を」
ほんの少し自嘲を込めた視線を遠くに向けて、佳苗は薄く笑った。
「昔々、ヨーロッパのとある小さな国に、錬金術師と女の子の奴隷がいました……」