1 退魔フェロモン
「な、なんだ……?」
おそらく潤一は、勝利を確信していたのだろう。だから、背後から迫る不愉快な光に驚きの声を上げた。悪魔と化した今の潤一にとって、清涼なその光は疎ましく、おぞましく、決して受け入れることは出来ないに違いない。
「なんなんだ! くそっ! おい! あいつらを殺せ! あの忌々しい光を消し去るんだ!」
憎悪に歪んだ顔で、潤一は邪神像に命令した。
だが、悪魔はまだ完全には降臨していない。それどころか、像を包んでいた妖しい光が段々と薄くなっていく。
「お、おい! ふざけんな! 待て! 戻れ!」
仄香は、自分たちから広がる薄桃色の光を不思議な気分で見ていた。周囲に漂う芳しい香りは、仄香を幸せな気分にしてくれる。だから、この光景が本当のものなのか、鋭い嗅覚によって視界に紛れ込んだものなのか、はっきりとは分からない。
だが、これが舞台の向こうに遠く見える世界から彷徨い出てこようとしていた何かを、ギリギリのところで押し留めているのは分かった。
その証拠に、潤一から噴き出していた不快な招魔フェロモンも薄く淡くなっていく。
と、何か硬いものが裂けるような、ミシミシという不吉な音が聞こえてきた。真冬の家鳴りを何倍にもしたような、不安を煽る音である。
だが、激昂した潤一は、それに気付いた様子はない。その代わり、悪魔召喚を邪魔した仄香と郁に、憎悪に塗れた視線を向ける。
「くそおっ! 臭い匂い撒き散らす香水女! お前かっ! お前のせいか!」
「な……なによ! 臭いのはアンタの方でしょ! とても人間の出す臭いじゃないわ!」
流石の仄香も、それだけを言い返すので精いっぱいだった。悪魔そのものの姿で睨みつけられて、仄香の背筋に怖気が走る。本物の悪魔は追い返す事が出来たようだが、舞台の上に立つ少年は、未だに悪魔そのものの容貌をしているのだ。
「クソがっ!」
そして潤一は一声叫ぶと、足元に転がっていたナイフを掴み、舞台上から飛び降りて仄香たちに向かってきた。
とっさに郁が間に割って入る。両手を広げ、恋人になったばかりの少女を守るように。
だが、次の瞬間、落雷のような破裂音が体育館に鳴り響いた。あまりの音に、驚いた仄香は舞台の上に目をやる。すると、光っていた邪神像が斧で断ち割ったかのように真っ二つになっていた。
「ぐ、ぎゃあああああっ!」
同時に、潤一はこの世の物とは思えない断末魔の叫び声を上げた。両手で頭を抱え、天を仰いで彫像のように一瞬固まってしまう。その直後、操り人形の糸が切れたみたいに、潤一は膝から崩れ落ちた。そしてそのまま、仄香たちに向かって俯せに倒れ伏す。
倒れる勢いで潤一は頭部を強かに打ち付けたが、起き出す気配は無かった。
「な……何が起こったの? 死んじゃった……の?」
「潤一は多分、あの邪神像と何か繋がってたんじゃないかな……。いや大丈夫。死んではいないみたいだ」
郁が潤一の身体を指差すと、悪魔のような容貌と化していた少年は、段々と元の姿に戻っていった。それに伴い、苦し気な呻き声を上げている。
「そう、残念。死ねば良かったのにって、本気で思うわ」
「ああ、まあ……、そうだね」
悪魔を呼び出せるような悪徳を成したのなら、死をもって償うというのは、決して行き過ぎた感覚ではないであろう。
「見てよ、仄香! 舞台が……」
郁に言われた仄香が、視線を潤一から舞台に向けると、壁の向こうに広がっていた謎の空間が遠く薄くなっていた。異界、魔界、異世界、地獄──正確な呼び方は分からないが、それはやがて、舞台の壁の向こうに消えていってしまった。天井の照明も舞台の壁も、元通りの姿を取り戻している。
静けさに耳が痛い。
さっきまでの荒ぶる空気がウソのように掻き消えている。
空気はいささか湿っぽいが、それを除けば普段の体育館と変わりない、いつも通りの光景だ。
いつもと違うのは、舞台に残った邪神像の残骸と、体育館の床にうつ伏せで横たわる潤一だけである。
耳鳴りすら聞こえるような静寂の中、思い出したかのように郁は呟いた。
「『十戒』の匂いが、薄くなっているね」
「ホントだ……。これも、退魔フェロモンの効果……なのかしら」
郁の言う通り、『十戒』の香りは仄香たちの周囲から驚くほど急速に薄くなっていった。そのおかげで、黒に染まっていた仄香の視界がすっきりと晴れていく。照明の当たっていた舞台以外は果てしない闇のように感じられた体育館だったが、今はもう、ただの広くて薄暗い空間へと戻っていた。
ふと気付くと、自分たちから発せられていた薄桃色の光も見えなくなっている。
夜である事を除けば普段と変わらない光景に、仄香は、さっきまでの出来事が何もかも夢だったように思えてきた。
「……これで終わり……なのかしら?」
「そうみたいだね……。これ以上はもう、何も起きてほしくないんだけど……」
ここに至るまでに犯人の特定は出来なかったが、佳苗の示唆で儀式の場に辿り着く事が出来た。
『十戒』の儀式は発動してしまったが、悪魔の降臨は阻止する事が出来た。
完璧ではないにしろ、最悪の結果は免れたのだから、良しとするべきかもしれない。
仄香と郁は、お互いに顔を見合わせて安堵の笑みを浮かべた。
「行こう、仄香。後始末だ」
「うん」
郁に手を引かれ、仄香は想い人と一緒に舞台の前に立った。足元には、呻き声を上げたままの潤一が倒れている。
「邪神像……、『十戒』でいう偶像かな。真っ二つに壊れてる。潤一も元の姿に戻ったし、悪魔召喚の儀式は、完全に止められたみたいだね」
「そうね。『十戒』のケースも元通りみたいだし」
手を繋いだままの仄香は、今の自分の立ち位置に不思議な感覚がした。いつもは自分の隣か後ろにいる幼馴染みが、力強く自分の手を引いている。
「う……」
うつ伏せで倒れている潤一が、苦しげに藻掻いている。どうやら生きているのは間違いないようだ。
悪魔を召喚するために悪徳を重ね、一時的とはいえ『十戒』でその身を悪魔と化した少年に、仄香は情けをかけるつもりはない。
「で、どうする、コイツ?」
「今なら誰にも見られてないのよね。いっその事……」
「おいおい……」
「冗談よ。さすがに自分で止めを刺す気はないわね。でも、瑞希にしたコトを、アタシは絶対に許さないんだから……。コイツには、相応の報いをくれてやるわ」
仄香はいつものポーチから、アトマイザーを何本も収納した布製のケースを取り出した。それをバラリと開くと、一番端にある黒いアトマイザーを取り出す。そして、うつ伏せで呻く潤一の頭の前で片膝を突くと、少年の髪を掴んで無造作に持ち上げた。
「うう……」
呻き声を上げるものの、力無く横たわる潤一は、気を失ったままである。
香水は普通、首もとや手の甲へ霧状に吹きかける。身体にまとう事によって、自分や周囲の人間に官能的な香りを振り撒くのだ。
だから、相手に直接吹き付ける事はないし、自分で香りを嗅ぐ場合にも、直接香料に鼻を近付けるのではなく、手で扇いで香りを鼻に納める。
だが、仄香は携帯用のアトマイザーを凶器のように握りしめると、潤一の鼻に直接吹きかけた。そして、自分がその香りを嗅いでしまわないように、飛ぶようにして離れる。
掴まれた髪の毛が解放され、重力に引かれた頭が鈍い音を立てて舞台の床に落ちた。
そのまま仄香は、流れるような仕草で別のアトマイザーを持ち替えると、自分と郁の胸元に新たな香水を吹きかける。
「潤一には、いったい何を吹きかけたんだい?」
「おばあさまの最低傑作の一つ、『フルール・ド・フルーレ』」
「フルーレって、あれかな? フェンシングなんかに使われてる、刺突剣のことだよね」
「郁ってば、ホントに色々知ってるわね。その通りよ」
「でも、最低って?」
「……楽しませるためじゃなく、人を傷つける為の香り。だから、黒い香りの中でも最低の作品なの。これはその中の一つ。『フルール・ド・フルーレ』」
「効果は?」
「それは……」
「がああああっ!」
そのとき、苦しげに呻いていただけの潤一が、両目をカッと見開くと、弾けるように叫び声を上げた。その光景は、以前に教室で見たのと似ていたが、苦鳴と絶叫が段違いだ。鼻と後頭部を自分で潰さんばかりに押さえつけ、体育館の床を壊れたオモチャのようにのたうちまわっている。
「ぐ、が、おああっ!」
あのときは、仄香が瑞希を助けるために痴漢撃退用の香りを使ったのだが、今の潤一の様子はそれを上回る凄惨さを見せていた。少年は耳を覆いたくなるような悲鳴を上げて口許を押さえていたが、やがて手指の間から、先日とは比べ物にならないほど夥しい鼻血が溢れてきた。
「あが……、がぼっ!」
『フルーレ』の香りが耐えがたいのか、潤一は鼻を手で押さえたが、そのせいで次々と吹き出す鼻血が口内に溜まり、絶叫を上げる口からも血が溢れ出てきた。
そんな潤一を、冷ややかな目で見つめる仄香。
「ね、ねえ、仄香、大丈夫なの?」
「大丈夫でしょ。多分」
「多分、って……。大体、その『フルーレ』って、どんな香水なの?」
「淡い香りの花をベースに、刺激性のある香りを集めて抽出、調香したものよ。淡いけど確かな香りは鼻腔を広げ、より多くの香りを求めるようになる。そこへ研ぎ澄まされた鋭い香りが鼻を突き、嗅覚を破壊する。すなわち剣の花よ」
「なるほどね。フルーレってのは、女性向けに軽量化された刺突剣で、練習には先端に花を付けていていたのが語源らしいよ。薫子さんらしいネーミングセンスだね。ところで、匂いが無くなるって、どうなんだろうね?」
「あらゆる料理が死ぬほど不味くなるわ」
「……は?」
「香りっていうのは、私たちが調香するのとは別に、食べ物に含まれるフレーバーというものがあるのよ。でも、それが無くなっちゃうの」
「それって、そんなに大変な事?」
「前に教えたわよね。かき氷シロップの話」
「ああ、うん」
「それが無くなるのよ。あれだけじゃない。食べ物から得られる香りって、ものによっては味よりも重要だったりするの。みんな味覚が嗅覚に騙されてるのね」
「そういうものか」
「匂いが無くなった事がないと分からないでしょうね。……でも、ふふ、これから先、アイツは永遠に美味しい料理を食べられない。それは何も高級料理ばかりの話じゃないわ。ガムはゴムみたいに、チョコは苦いだけの板切れに。ラーメンなんて、噛み切れる糸を食べてるようなモノになるでしょうね。……一生よ。ふふふふ……」
「お、まえら……、何を、したんだ……」
「あら、正気に戻った?」
絶叫を上げ、鼻血を撒き散らし、殺虫剤を浴びた虫のように身体をくねらせていた潤一が、憎悪に満ちた視線を仄香に向けて立ち上がった。その手には、邪神像を彫り上げた大ぶりなナイフが握られている。
それを見た郁は自然な動きで仄香の前に立ち、潤一のナイフから恋人となった少女を守る盾になる。
「悪徳の報いよ。香りの無い世界で後悔しなさい」
「べっ! 匂いが無いからって、なんなんだ……」
「いまに分かるわ。世界がどれほど香りに満ちていたのか。香りの無い世界が、どれほど寂しく、味気無いのか」
「覚えてろよ……、お前たちを……」
「当たり前よ、絶対に忘れないわ。あなたを見るたびに、アタシはあなたを傷つける。アタシの武器は、この『フルーレ』だけじゃない。あなたを死なないように痛めつける方法なんていくらでもある。でも、あなたがアタシたちの前に姿を表さないのなら、アタシの方からは何もしないわ。だから……」
自分を守る郁の肩に手を乗せて脇にどいてもらうと、一歩踏み出した仄香はアトマイザーを潤一に向けた。
それは、吸血鬼に向ける十字架のようにギラリと輝いた。
「失せろっ! このゲス野郎っ!」
「……ッ!」
さっきまで鼻腔を刺激し続けた感覚が甦ったのか、鼻を押さえた潤一は、呪いを込めた視線を仄香に向けていた。ナイフを仄香たちに向けつつも、自分から近付く事が出来ない様子だ。
だが、これ以上は自分の方が不利だと悟ったのか、潤一は周囲をキョロキョロと見回した。そして、舞台の上に残された『十戒』に目を止める。
「……あっ! 仄香っ! 『十戒』だ! アイツが持って逃げたら、また同じ事をするつもりだ!」
せっかく悪魔召喚の儀式を阻止したのに、潤一に再び『十戒』を使わせては元の木阿弥である。
ナイフを持って舞台に飛び上がった潤一は、割れた邪神像の前に置いたままの『十戒』へ駆け寄る。だが、『十戒』の二つのケースに触れる事は出来なかった。潤一の前に、黒い影が立ち塞がったからである。
「残念だけど、あなたに『十戒』を使わせるのは、一度きりよ」




