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【完結】フェロモンの十戒  作者: 紫陽花
第八章 フェロモンの十戒
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5 招魔フェロモン

 通常、フェロモンは同族にしか効かない。植物が受粉の為に虫を誘ったり、虫害を避ける為にフェロモン様物質を分泌したりする事もあるが、基本的にハチはハチの、アリはアリのフェロモンしか効かないのである。

 フェロモンは生理活性物質であり、基本的に無味無臭で無色である。他の生物にとっては意味が無く、その存在すら認識出来ないものだ。

 つまり、悪魔には悪魔のフェロモンしか効かない。


「……そうか! 悪徳が儀式の一部なのは、こういう事だったんだよ、仄香! 儀式を行なう者を悪魔にして、そいつが本命の悪魔を呼び出す為のフェロモンを分泌させるんだ!」

「じゃあ……、『十戒』で悪魔を呼び出すんじゃなくって、アイツが悪魔を呼んでるって事?!」


 馥山佳苗の話では、『十戒』による悪魔召喚にはフェロモンが使われているという。つまり、儀式の過程で悪魔を呼び出す為の道標フェロモン――招魔フェロモンが生み出されるという事ではなく、儀式を行なう術者自身が悪魔を誘う為の呼び水となっているようである。


「はっははは! 早く来い! 早く来て、オレの願いを叶えろ!」


 舞台の向こうに現れた虚空に向かって叫ぶ今の潤一には、女子生徒に人気のあった優男の面影は欠片も無い。『戒めの五』によってその身を悪魔と変じた少年は、“同類”を呼び出す為の道標フェロモンを吹き出している。

 フェロモンは本来、無味無臭で無色である。微量な生理活性物質が言語に拠らない命令(コマンド)として、同胞や、敵にとっての天敵を呼び寄せるのに伝えられる。

 だが、潤一から吹き出している招魔フェロモンは、灰色の混じった紫色だ。

 不協和音が聞き手を不愉快にさせるように、招魔フェロモンの色彩は仄香や郁に激しい嫌悪感を抱かせていた。そして、嫌悪感は色彩だけでなく、匂いも同じであった。


「う……、げええっ。なんて匂いだ!」

「これが、招魔フェロモン……」

「あいつは……、なんでこんな匂いが平気なんだ!」

「簡単よ! あいつ自身が匂いの元なんだから! 自分のワキガで卒倒する人はいないでしょ!」

「確かにその通りだけど……、仄香の例えも大概だな!」


 異界と繋がってしまった舞台では、邪神像の前で招魔フェロモンを吹き出し続けている少年がいる。彼はかつて潤一と呼ばれていたが、今では鋭い鉤爪を生やし、口は耳元まで裂け、開いた口には大きく伸びた牙が禍々しく光っている。そして、ブレザーの背中からは槍の穂先のような尻尾が伸びていた。

 その姿は、伝説に語られる悪魔そのものであった。

 もはや疑う余地は無い。このままでは招魔フェロモンによって、本当に悪魔が現れてしまう。


「と……止めなきゃ……。どうするの? どうしたらいいの、郁?!」

「それは……」


 既に始まってしまった悪魔召喚の儀式を、どうすれば止められるというのだろうか。悪魔と化した潤一を殴り飛ばし、邪神像を壊せばいいのだろうか。

 そんな単純な事であれば、馥山佳苗が手の込んだ形で仄香と郁をこの場に導いたりはしないだろう。

 何か、仄香と郁にしか出来ない事があるはずである。


「仄香……、カギとなるのは、多分フェロモンだ……。何か……、何か分からないかい? 薫子さんの資料に、何か残ってなかった?」

「それは……」


 焦りを含んだ幼馴染みの問いに、仄香は必死に考える。

 仄香の脳裏に、さっき見つけた祖母のメモが思い出された。いくつかの断片的な単語と、関連性の不明な言葉。そこから直感で導き出された、白いイメージ。

 ブラン。

 パフューム・ド・ブラン。


「でも……、無理。無理なのよ……」

「無理? ……なんで?! 何か見つけたたんだね。ちゃんと説明してよ、仄香。説明してくれれば、ボクがやり方を考えるから! 何とかするから!」


 幼馴染みの頼もしい言葉に心を震わせながら、仄香の心には黒い絶望が広がっていた。

 実は、仄香の中で、とうに答えは出ていたのである。

 招魔フェロモン――それは、悪魔を呼び出す為の道標フェロモン。

 退魔フェロモン――それは、白い香り。愛のフェロモン。

 悪魔が嫌うもの、悪魔にとっての警報フェロモン。それは、愛し合う者同士によってもたらされる愛のフェロモン。

 だけど、この場には愛し合う者たちはいない。

 仄香と郁は、恋人同士では無いのである。


「郁…、アタシ……、アタシは……」


 仄香の中に、激しい後悔の嵐が吹き荒れていた。なぜ、自分と郁は恋人同士ではないのだろうか。なぜ、もっと早く自分の心に従わなかったのだろうか。

 三年前の失敗があるのは確かである。だが今夜、曽田に後押しされただけで、仄香は郁に向って一歩を踏み出す気になったのだ。だったら、もっと早くその気になっても良かったはずである。それこそ、郁に拒絶された直後にでも。

 たられば。

 後悔。

 ああすれば良かった、こうすれば良かった。

 同じような言葉が、仄香の頭の中で繰り返しぐるぐると回っている。


「来たっ! はっははは! いいぞ、来い! 来い! 来い!」


 潤一だったモノの声に、仄香は虚空へ視線を向ける。

 仄香には見えないが、邪神像の向こうの虚空から悪魔が近付いてきているのだろうか。


「邪神像が……、邪神像も光ってる……。あれが依り代なのか?」


 意識が邪神像と、その向こうに見える虚空に向いた時、解決策を求めて仄香の手は無意識に真紅のポーチに触れていた。そして、電流のような感覚が脳天から全身に走る。


 ――郁と……今すぐ恋人同士になる……。


 仄香は、真紅のポーチの底から、メッキの擦り切れた古いアトマイザーを取り出した。携帯用の噴霧器の中には、薄紅色の液体が揺れている。


 ──これを……、これを使えば、郁はアタシを……、アタシのことを……。


 大切な幼馴染み。

 大好きな男の子。

 自分と同じように、彼にも自分を好きになってもらいたい。

 そして作った、魔法の香水。

 今、仄香の手にあるのは、少女のささやかな願いを叶える魔法の薬だった。

 この魔法の薬は必ず効く。そう、“本人の意思とは無関係”に。

 その名は『蠱惑』。

 祖母の薫子直伝の、黒い方法で作られた香水である。


 ──でも、これを使ったら、今度こそ郁はアタシを許さない……。おばあさま!


 アトマイザーを握りしめ、仄香は声にならない叫びを上げた。

 だが、もう時間が無い。

 郁の言う通り、邪神像が不気味に輝いている。潤一の発する招魔フェロモンに誘われて、正真正銘の悪魔が降臨しようとしているのだ。

 大きく息を吸い込み、仄香は意を決してアトマイザーを握りしめた。


「郁!」


 想い人の名前。

 愛しい人の名前。

 大好きな人の名前。

 仄香の呼び声に振り向いた幼馴染みに、少女はアトマイザーを向ける。

 だが、香水を郁に吹きかけることは出来なかった。

 仄香の手は、郁の手でアトマイザーごと握られていたのだ。


「まだ持ってたんだ、こんなの」

「だ、だって……、だって!」


 郁は仄香の手からアトマイザーをもぎ取ると、明後日の方へ投げ捨てた。そして、仄香と一瞬目を合わせると、半泣きになっている幼馴染みを抱きしめた。


「……!」


 仄香の身長は、クラスでも背の低い郁より拳一つ分高い。

 郁は爪先を伸ばし、伸び上がるようにして幼馴染みの首にかじりついた。


「ようやく分かったよ。悪魔を追い返す方法が。招魔フェロモンの逆、退魔のフェロモンが何なのか」


 郁は、仄香をひときわ強く抱き締めた。


「仄香は、気付いてたんだ?」

「……うん」

「そっか……。ゴメンね、仄香。ずっと、仄香の気持ちをほったらかしにして……」

「ううん……、ううん、アタシの方こそゴメン……。郁の……気持ちも考えないで……」

「ボクは難しく考えすぎだって、香山さんに言われたよ」

「瑞希に?」

「だから、素直に言うよ」


 郁は仄香から離れ、半歩退いた。

 小柄な幼馴染みは、軽く見上げて少女に告げる。


「好きだ、仄香。ずっと前から好きだった。あの時も、仄香があれを使う前から好きだった」

「アタシも……、郁が好き! 今でも好き! これからも、ずっとずっと郁が好き!」


 舞台の上では邪神像が輝き、悪魔と化した少年が哄笑を上げていた。周囲には灰紫色の不快な招魔フェロモンが漂っている。間もなく邪神像に悪魔が降臨し、悪徳を重ねた少年に魔の力を授けるだろう。対価はすでに支払われている。

 だが、二人の目にそれらは映っていなかった。

 今、この時、この瞬間だけは、二人の世界だった。お互いの目には共に想い人だけが映り、お互いの耳には相手の声だけしか聞こえない。二人はお互いの手を握り、身体を重ね合わせた。

 仄香と郁は、静かに唇を重ね合わせた。


「ん……」


 その瞬間、二人の間から薄桃色の光が爆発的に広がった。その光は薄く、甘く、柔らかく二人を包み込んでいる。

 初めは仄かに感じられた香りは、やがて馥郁たる芳醇な香りとなって広がっていった。

 灰紫の不快な色彩とは決して混ざらず、薄桃色の甘く華やかな香りは悪徳のフェロモンを駆逐していく。


 世界が、愛に満たされていく。

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