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【完結】フェロモンの十戒  作者: 紫陽花
第八章 フェロモンの十戒
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3 姦淫

 以前と同じように塀を乗り越え、仄香と郁は夜中の学校に忍び込んだ。

 昇降口のドアは当然ながらカギがかかっていたが、郁は仄香を校舎裏手に誘うと、カギのかかっていない理科準備室の窓から校舎の中に侵入した。

 郁はどこで知ったのか、その窓は学校内に忘れ物などをした生徒が、こっそりと忍び込む為のルートだという。

 真夜中とはいえ、泊まり込みの用務員か教師が巡回してくるかもしれない。理科準備室から静かに引き戸を開けて、仄香と郁は廊下に出た。


「何よ……これ……っ!」


 その瞬間、仄香の嗅覚に重い香りが感じられた。

 その香りは、黒。

 視覚に紛れ込んだ嗅覚によって、仄香の目には廊下に『十戒』の黒い香りが蔓延しているのが視えた。警察犬などと意気込む必要も無いくらい、仄香の鼻にはハッキリと感じられる。


「薔薇の香り……? あと、麝香ムスクかな? 確かに『十戒』の香りをうっすらと感じるけど……。仄香にはどう視えてるんだい?」


 隣にいる幼馴染みには、『十戒』の香りは、ほんのりと感じられる程度らしい。だが、鋭すぎる嗅覚を持つ仄香には、「視える」と錯覚するほど『十戒』の香りが感じられた。


「……黒よ! 真っ黒! ウサギ小屋の比じゃないわ!」


 犯人が何の為に『十戒』の香りを学校の中に蔓延させているのか分からない。あるいはこれは、『十戒』を使った結果生じただけの状況なのかもしれない。だが、定期テストのときに感じられた『窃盗』は、仄香であっても、ほんのりと感じられる程度であったのだから、やはりこの状態は異常だ。


「誰かが『十戒』を使っているのは間違いないって事か……。で、どっち?」

「こっち!」


 学校のそこかしこから漂う『十戒』の香り。それは黒いイメージとなって仄香には視えている。視覚に紛れ込んだ黒を追って、仄香は廊下を駆けた。そして二人が辿り着いたのは、校舎の一階にある保健室であった。


「……ここかい? でも、悪魔召喚なんて大それた儀式を行うようなところとは思えないんだけど」


 仄香は自分が辿ってきたルートと保健室を見比べた。『十戒』の香りは廊下のさらに奥にも続いているが、この保健室から漏れてくる香りがひときわ濃く感じられる。


「でも、ここの香りが一番濃いのよね」

「分かった、開けるよ。仄香は少し下がって」


 そう言って、郁は仄香の前に身体を入れると、幼馴染みを庇うような立ち位置で保健室の引き戸に手をかけた。郁のその行動に、仄香はほんの少しドキリとする。

 幼馴染みを背中に庇いながら、郁は保健室の引き戸をゆっくりと開いた。鍵はかかっていなかったようである。

 と、仄香の耳に、すすり泣く女の声が聞こえてきた。夜中の学校と言えば怪談の舞台になるものだが、悪魔の次は幽霊でも出てくるのであろうか。

 ホラーが苦手な仄香は、思わず前に立つ郁の腕をがっしと掴んだ。

 だが、扉を開けた郁も、さすがに夜の学校に聞こえるはずのない哀しげな声を聞いて、保健室に踏み込めないでいるようである。

 と、仄香の鼻に『十戒』ではない、覚えのある香りが感じられた。それは他でもない、仄香自身が調えた香りで、クラスメイトの瑞希に護身用として渡したものだ。他の香りと組み合わせて、不埒者を近寄らせない効果のある香りである。迂闊に近付こうものなら、鼻血塗れになってのたうち回るという代物だ。

 それが感じられたという事は……。


「瑞希!」


 保健室の入口で立ち止まっていた郁を押し退けて、仄香は保健室に飛び込んだ。そして、香りの源を探して部屋を見回す。

 普通、保健室は白いものである。ベッドやカーテン、壁や薬品棚など、清潔感のある白や明るい色が使われる。

 実際、仄香の目に映る保健室の全ては、白く清潔感のあるもので満たされていた。

 だが、それらを覆い隠すように、仄香の視界が黒く染まる。消毒薬の匂いに混じって漂う黒い靄のようなものが、本当に視えていると思えるほど感じられるのだ。

 目に映る光景と鼻に感じる香りが齟齬を起こした仄香は、頭がクラクラする思いがした。

 だが、その中に自分が整えた香りを嗅ぎ分けて、仄香は叫ぶ。


「瑞希! 大丈夫、瑞希?!」


 仄香は香りを辿り、ベッドを隠すカーテンを勢いよく開けた。

 寒冷地の吹雪などで、視界が白一色になって何も見えなくなる現象をホワイトアウトと言う。カーテンを開いた仄香の視た光景は、さながらブラックアウトとでも言うべきものであった。

 溢れる濃密な黒い香りが、仄香に向かって押し寄せる。


「こ……の……。瑞希!」


 ベッドから溢れるような『十戒』の香りを掻き分けて、仄香は半裸でベッドに蹲るクラスメイトに声をかけた。


「ほの……か……?」


 これまで仄香たちの周囲で使われた『十戒』の悪徳は、『偽証』『窃盗』『殺害』『羨望』である。

 儀式を行なう本人が悪徳を行なう必要があるのかは分からないが、残された『十戒』の悪徳は『姦淫』――すなわち、他人の妻や恋人を寝取ること。


「郁は来ちゃダメ! 廊下で待ってて!」

「うおっと……。分かったよ」


 郁もすぐに事態を把握したのだろう。仄香の後から保健室に入ってきた幼馴染みは、踵を返して出ていった。


「誰!」

「仄香……?」

「誰がやったの!」


 仄香は友人の両肩をつかみ、強い口調で聞いた。

 何があったとか、何をされたとか、具体的な事は聞かない。クラスメイトとはいえ、他の男子に聞かれたくは無いだろうし、瑞希も言いたくはないだろう。


「あたし、あたし……、仄香あああぁぁぁ、うええええぇええええぇぇん……」


 瑞希は仄香に抱きつき、辺りも構わずに泣き始めた。


「イヤだったの……。気持ち悪かったのよ……。でも、おかしいの。アイツが近付いてくるだけで、身体が熱くなってきて、変な気分になって……」

「アイツ? ……アイツがっ!」


 仄香の脳裏に、一人の同級生の姿が浮かび上がった。最後に見たのは、仄香の香水で鼻血塗れになっている姿である。


「もういいよ、瑞希。もういい。それ以上、言わなくていいから、今はちょっと、眠ってて」

「仄香……?」


 仄香は真紅のポーチから丸められた布製の束のようなものを取り出した。それを巻物よろしくバラリと広げる。ミリタリーオタクが見れば、機関銃の弾帯を連想したかもしれない。仄香が取り出したのは、細身のアトマイザーを何本もまとめて収納できる布製の香水入れであった。『十戒』のように装飾的なケースに精緻な彫刻の施された香水瓶ではなく、実用一辺倒の武骨な外見である。

 だが、それだけに扱いは簡便である。何本ものアトマイザーから迷う事無く一本を選んだ仄香は、手早くハンカチに香水を吹きかけた。そして、そのハンカチを、泣きはらしたクラスメイトの口元に充てる。

 鼻と口を押えられた瑞希は、見る間にぐったりとして力を落とす。


「ほの……か……」

「ごめんね。おばあさまの『忘却』なんて、さすがに今は用意していないの。でも、後で必ず忘れさせてあげる。だから今だけは、悪い夢に耐えて……」


 半裸のその姿を見れば、何があったのかは間違えようもない。力を落としたものの、眉間に苦し気な皺を寄せたまま気を失ったクラスメイトを横たえて、仄香は瑞希の崩れた着衣を整えて身綺麗にする。

 辛そうな顔で眠る少女に毛布を掛けた仄香は、決然として立ち上がった。

 黒。

 瑞希の身体から立ち上る真っ黒い香り。それは保健室を漂い、途切れることなく廊下の奥へと続いている。廊下の先には、いくつかの準備室と、そして体育館がある。

 紫村井学園は古い造りの学校であり、体育館は講堂も兼ねていた。講堂として使う為に舞台があり、そして舞台は、儀式の祭壇にはピッタリの場所だ。

 おそらく犯人は、体育館の舞台にいる。

 犯人が儀式の場にいるという事は、犯人は――協和潤一は『十戒』の悪徳を全て達成したに違いない。

 廊下に出た仄香は、保健室の入口で待っていた郁に問いかける。


「郁……、犯人は協和潤一だって気付いてた?」

「確信は無かったよ。あくまで候補の一人だった」

「いったい、どうやってアタシの香りを破ったのよ! これも『十戒』の力ってワケ?!」

「仄香の香護かごを破ったのは、多分だけど、あの黒いセンパイだよ。あるいは、『十戒』を使えば仄香の香りを破れるかもしれない。でも、それを潤一に教えたのは、やっぱりセンパイだろうね」

「あの……女……。それに、協和……潤一っ!」


 柳眉を逆立て、奥歯を怒りにバリバリと噛みしめて、仄香は無人の学校で腹の奥底から叫びを上げた。


「絶対に許さない!」

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