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【完結】フェロモンの十戒  作者: 紫陽花
第八章 フェロモンの十戒
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1 デート前の夜

 ベッドに横たわりながら、仄香は机の上のデジタル時計を漫然と眺めていた。

 時刻は、間もなく深夜の一時である。

 明日――より正確には今日であるが、土曜日は一日、郁と過ごそう。仄香はそう考えていた。

 『十戒』の謎を解き明かす。それが今の仄香の目標であるが、調べは遅々として進まず、手がかりすらほとんど無い状況である。

 確かに焦る気持ちはあるが、だからこそ気分転換をしなければと仄香は思った。調香の作業でも、鼻を休める為に適度なインターバルを取ってリフレッシュしなくてはならない。何事も、煮詰まった時にはリフレッシュが必要なのである。

 明日の事について、郁とは特に約束をしているわけではない。しかし、昔から気の置けない関係であった仄香と郁は、いきなり電話をして相手を買い物に誘ったり、居る事を確認もせずに相手の家に遊びに行ったりしていた。相手が不在であっても、お互いの親も承知している為、何も問題は無かったのである。

 仄香は横になったまま壁に目をやると、制服などを吊っている壁掛けのハンガーが目に入った。そこには、普段の仄香からはあまり想像の出来ない、可愛らしいピンクのワンピースが掛けられていた。肩口は濃い目のピンクで、スカート部分の白に向かってグラデーションがかかっている。イメージはシクラメンであろうか。スカートの太腿に当たる部分にはダリアの花が大きく刺繍されており、人目を引くデザインとなっている。

 活動的な仄香はめったに着ないが、これは祖母にもらったお気に入りである。親戚の結婚式や親族が集まっての食事会など、よそ行きの時には必ず袖を通していた。この可愛らしいワンピースを着た仄香を、薫子は目を細めて褒めてくれたのだ。それが、嬉しかった。

 仄香はこれを、明日、郁と出かける時の為に用意した。

 休日、二人で出かける事は珍しい事ではないし、どこにも出かけずに二人で過ごす事も良くある事である。だが、こういうよそ行きの格好をして出かけた事はほとんど無い。

 これを着ていったとき、郁はどんな反応をするであろうか。


「多分、何も言わないんだろうな。でも、チラチラとこっちの方を見てきそう……」


 そんな素直でない幼馴染みの様子が想像できて、仄香の頬は自然と緩んでくるのであった。

 クラスメイトの瑞希は、そんな二人の行動は恋人同士のそれにしか見えないと言っていた。しかし、仄香にしてみれば、郁との付き合いは恋人というより家族といった気分であった。

 それを、変えようと思う。

 今さらとは思わなくもないが、三年前のあの日に止まってしまった二人の時計の針を、少しでも進めようと決めたのである。背中を押してくれた曽田には感謝しないといけない。

 明日のデートを楽しみにしながら、仄香は工房で調べた『十戒』の事について思い返していた。




 曽田との夕食から帰宅した仄香は、調香工房でフェロモンの事を調べていた。

 香りに関する祖母の蔵書は、並の研究機関に匹敵する数を備えている。その中にはフェロモンについての専門書もいくつかあったので、仄香は何かヒントがないかと思ったのである。

 しかし、安楽椅子のサイドテーブルにはフェロモンに関連した本が何冊も積まれているが、一般的な書籍の中からは、『十戒』に対して有意義な情報は得られなかった。

 もっともそれは、当然かもしれない。「魔術を用いて作られたフェロモン香水」などというものに、ハッキリとした情報などあるわけがない。また、調べるにしても、魔術なのか、フェロモンなのか、香水なのか、『十戒』はそのどれもが曖昧なのである。

 馥山佳苗は、『十戒』の正体はフェロモンなのではないかと予想していた。そして、新たに見つけた祖母の覚書メモにも、それに類する事が書かれていた。

 もしもフェロモンであるのなら、『十戒』の儀式によって生み出されるのは、おそらく道標フェロモンであろう。それに対抗する手段として、警報フェロモンを用いるのが有効なのだというのは分かる。

 悪魔は、『十戒』の儀式によって生み出されたフェロモンに導かれて現れる。ならば、その悪魔が警戒するものとは、いったい何なのであろうか。

 普通に考えれば、悪魔の天敵として神か天使という事になる。そう考えると、祖母のメモにも愛だの死だの悪魔だのと書かれた事の辻褄が合う。つまり、悪徳で悪魔を呼び出せるのなら、愛の行ないで天使が呼び出せる。


「……って事なんだろうけど、……本当に?」


 仄香は、自分の考えに対して落ち着かない気分になってしまった。考えるのも恥ずかしいのであるが、愛の行ないとは、具体的にどんな行為なのか想像もつかない。

 そこで仄香は、祖母のメモをいったん無視して、『十戒』の正しい徳を行なえばどうなるのか考えてみた。

 前半はそのまま、神と父母への敬いだ。郁の話では、多くの一神教に見られる神と先祖への感謝が、そのまま条文になったものらしい。

 問題は後半である。『十戒』を、従来の宗教的規範として守るのであれば問題は無い。後半の条文に書かれた事を()()()()()いいのだ。だが、何もしないという事が正解とは思えない。何もしなければ、何も起こらないのである。となると、『十戒』を正しく行なうという考えは、やはり違うのだろう。


「他に、キリスト教で神様や天使が関係するイベント……か。クリスマス? ……は違うわね。あれって元は北欧の冬至のお祭りだって郁が言ってたっけ。儀式……式……葬式、じゃなくて、……結婚式?」


 仄香の脳裏に、悪魔召喚の儀式をしている隣で、白いタキシードにウェディングドレスを着たカップルが結婚式をしているイメージが浮かんだ。


「なんかすごくカオスなんだけど、でも、惜しい……気がする」


 確かに混沌としたイメージではあるが、悪魔召喚の儀式に対して結婚式というのは、それほど的外れではないように思える。相容れないという意味では、まさに真逆の儀式である。


「そうか、祝福……か。悪魔が持つイメージの逆ね」


 香水の命名には、コピーライターのような才能が必要である。

 香水の持つイメージを言葉にするのは、実は非常に難しい。味覚や聴覚には、それを表現する幾千幾万もの単語があるのだが、嗅覚に関しては驚くほど少ないからである。だからこそ、有名な香水でもブランド名に番号だけといったシンプルなものが多いのだ。

 仄香はそこから連想して、悪魔を退ける警報フェロモン、すなわち退魔フェロモンは、祝福に関係しているのではないかと思った。そして、祝福という言葉の持つイメージを手がかりにする。


「祝福される、愛のある行為。……結婚式で、キス、かな?」


 仄香の中で、不思議なイメージが広がった。

 真っ白なタキシードを着た新郎と、華やかなウェディングドレスを身にまとった新婦。今まさに幸せの絶頂にあるといった雰囲気の二人であるが、その周りには黒い皮膚に蝙蝠の翼と先の尖った尻尾を生やした悪魔が何匹も飛び交っていた。悪魔は二人の耳元に囁いて、悪の道へと誘っている。だが、新郎と新婦が誓いの口付けを交わすと、二人の間から白い何かが爆発的に広がり、幸せな二人に群がる悪魔を消し去ってしまった。


「……ブラン。パフューム・ド・ブラン。白い香り……。幸せのフェロモン……」


 普段の調香で行なうように、仄香は心の奥底から湧き上がるイメージに名前を付けた。

 何かのアイデアが浮かんだとき、「神様が降りてきた」と表現する事がある。もしも退魔フェロモンというものが存在するのなら、仄香はそれに「パフューム・ド・ブラン」という名前を付けようと思った。フェロモンは香水とは違うので、厳密にはパフュームとは言わない。だが、幸せの絶頂で愛し合う二人から生み出されるフェロモンは、ブラン=白の名前が相応しいと思ったのである。

 これが正しいのかどうかは分からない。実際のところ、連想から浮かび上がっただけの、ただの思い付きである。だが、悪魔召喚の儀式に対するものとして結婚式というのは、不思議と仄香の中でしっくりと来た。


「郁に会いたいな……」


 自分の今の思い付きを、郁に聞いてほしい。

 そう思ったとき、工房の柱時計が十一時の鐘の音を鳴らし始めた。焦りはあるものの、急いで『十戒』の謎を解き明かす事も無い。仄香は今日の調査を切り上げる事にした。


「一、二、三……」


 鐘の音を数えながら、仄香は本やアロマポットを片付けていく。柱時計に隠された『十戒』を見つけて以降、仄香は正時の鐘の音を数える癖がついてしまっていた。


「……十一」


 全てキチンと仕舞った事を確認して、仄香は工房のカギをかけた。


「おやすみなさい、おばあさま」


 いつもと同じ挨拶を今は亡き祖母にかけた仄香は、しかし、いつもとは違う一言を付け加えた。


「上手く行くよう、見守っててね」


 それは、幼馴染みとの事なのか、それとも妖しい謎の香水の事なのか。

 自分自身も不分明な気持ちを抱きながら、仄香は調香工房を後にした。




 入浴は、なんとなくだが、いつもよりも丁寧に身体を洗った。

 香水も用意した。学校に行く時に着けている普段使いの淡い香りではなく、ウッド系にグリーン・ノートを掛け合わせた、落ち着く為の香りである。陽の光の元、目を閉じれば深い森の(かいな)に抱かれているような、そんな香りである。

 自分の部屋に戻って明日の用意を整えた仄香は、全身の力を抜いてベッドに倒れ込んだ。そして、漫然と机の上のデジタル時計を眺めやる。

 時刻は間もなく深夜の一時。

 フェロモンの事、『十戒』の事、郁の事。

 寝入る直前の混然とした頭の感覚が襲ってきた瞬間、仄香の携帯電話がけたたましい電子音を鳴り響かせた。

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