5 安息日
「ところで、今はもう土曜日ね」
「……は? ええ、まあ確かに土曜日ですね」
郁は一瞬、自分の心を読まれたのかと思った。それとも、もしかしたら、佳苗が何か香水の力を使って本当に心を読んだのかもしれない。心の警戒レベルを上げた郁は、黒い女に対して少し身構える。
そんな郁の表情を読み取ったのか、あるいは本当に心を読んだのか、佳苗は何かに気付いたかのように話を止めた。そして、郁に向って視線を真っ直ぐに向ける。
「あの……、センパイ?」
「別に、『共感』を使ったワケじゃないわよ?」
「キョウカン?」
「相手の心をダダ洩れにさせる魔香」
郁は反射的に口に手を当てた。心を読まれるというのなら口をふさいでも意味は無いのだが、それでもなにか、守るような行為をしたくなってしまったのだ。
「まさか、本当に……?」
「だから、大丈夫よ。私は人より長く生きているから、人の表情や仕草を読むのが少し上手くなっているだけ。訓練すれば、誰でも出来るようになるわ」
ノンバーバル・コミュニケーションというものがある。非言語コミュニケーションとも言い、ジェスチャーや姿勢、目線、表情など、言語に寄らないコミュニケーション手法である。これは意識的なものと無意識的なものがあり、相手に見せる表情や身振り手振りなどは意識的なものである。一方、無意識的なものは、視線の向きやちょっとした仕草、身体の傾き、脚運びなどに現れる。心理学に長けた者であれば、本人ですら気付かないような心の動きを読み取る事が出来るのである。
「ああ、そういえば、センパイは四百十八歳のおばあちゃん、でしたっけ」
「あら、覚えててくれたの? お姉さん、嬉しいわぁ」
郁の目の前に座る黒い女は、どう見ても同年代か、少し年上という程度である。とても人知を超えた長寿の存在には見えない。そもそも、本当にそんな長生きなのかどうかも定かではないし、むしろ、こっちをからかっているだけという可能性の方が高いのだ。
「それで、土曜日がどうかしたんですか?」
「『十戒』の内、『戒めの四:汝、安息日を聖なる日とせよ』……」
聖書において神は六日で世界を創り、七日目には休息を取ったという。七曜の始まりを示すものだが、日曜日が安息日として休日となっているのは、これに由来する。つまり、キリスト教において日曜日は聖なる日。そして、『十戒』の悪徳を行なうのなら、『戒めの四』の逆、『汝、安息日を邪なる日とせよ』となる。
「それがなんの……? ……まさかっ! 儀式は次の日曜日……。明日の、夜中に行われるんですか?!」
「正解、と言いたいところだけど、惜しいわね」
「惜しい? 違うんですか?」
佳苗の誘導に乗るのは癪ではあるが、郁はそれに乗って正しい解答に辿り着いたと思った。だが、その答えは間違っているという。
「キリスト教の安息日は日曜日ですよね? でも、それは違うって。いったいどういう……」
――『十戒』。十の戒め。魔香の『十戒』は、モーゼがシナイ山で神より授かった二枚の石板にちなんで作られた。それは、悪魔を呼び出す為の魔法のアイテム。仄香の工房で見たケースの表面には、『十戒』の条文がヘブライ語で書かれていてよな……。そう、ヘブライ語で……。
「そうか! ユダヤ教か! 日曜日じゃない! つまり、安息日は土曜日、という事なんですね、センパイ。……という事は、つまり……儀式は今夜、行われる……いや、すでに始まっている?」
自分の導き出した答えに、郁は鳥肌が立つ思いがした。
郁の言葉には答えず、黒い女は最初と変わらない笑みを浮かべている。佳苗は、否定も肯定もしない。だが、郁は正解を口にしたと確信した。
「なんで、こんなタイミングで……。本当に、センパイの目的は何なんですか?! 『十戒』で、悪魔を呼びたいんですか? それとも、それを阻止したいんですか?!」
思わず、郁は立ち上がって声を荒げてしまった。深夜とはいえ、週末のせいか郁たち以外にもレストランの客は多い。周囲の視線を集めてしまった事に気付いた郁は、イヤな汗をかきながら再び座席に腰かけた。
だが、ざわつく心が収まらない。
人を誘っておきながら、のらりくらりと韜晦する佳苗に苛立ちを覚えていたという事もある。だが、それ以上に、『十戒』にまつわる事件の解決が上手くいかず、どんどん悪い方へ向かっていってる事に対する焦りは大きかった。
郁は、仄香の前では努めて余裕の表情を見せていたが、それは自分を信頼している幼馴染みを不安な気持ちにさせない為である。ただでさえ、オカルト染みた不可解な出来事が起こっているのだ。郁の持つ多くの知識が通用しなかったとしても、自信を持った顔を見せておきたいと思っていた。それが、たとえ虚勢であったとしても。
さほど長くない人生とはいえ、これまで郁は仄香の願いを叶えられなかった事が、たったの一度しかない。仄香の願いはささやかなものばかりだったわけではないが、仄香の母親の継美が言った通り、郁は大抵の無茶振りでも聞いてきた。幼い歳で薫子の工房を守った事も、その一つである。
大切な幼馴染み。
大好きな仄香。
彼女の願いを叶える事は、郁にとって当たり前の事である。
だから、これまでの仄香の願いに比べて格段に困難な『十戒』の件も、多少は時間がかかっても解決するつもりでいた。
それが、いきなりタイムリミットを突き付けられた。佳苗がこの場にいるという事は、儀式はまだ始まっていないのだろう。だが、ユダヤ教の安息日は金曜日の日没から土曜日の日没まで。そして、神イコール天に背いた悪魔を呼び出すのなら、陽の光の及ばない真夜中に行われるに違いない。
つまり、今まさに、この時に。
「私の目的の一つはね、『十戒』をこの世から消し去る事なのよ。その為に、私は四百年以上も探し続けてきたの」
「……は?」
佳苗の言葉に、郁の思考が一瞬停止した。自分の思考に沈んでいた郁に向って、唐突に語られた彼女の言葉。次々と佳苗からもたらされる情報に、郁の頭が追い付かない。
「でも、『十戒』は私の手元には無いから、それは無理」
「いや、でも! 『十戒』が一瞬でもセンパイの手元にあったんなら、なんですぐに処分しなかったんです!」
かろうじて、郁は佳苗の話のおかしい点を突く事が出来た。だが、あまり冷静とは言えない状態で放った言葉は、少し上ずっている。
「もう一つの目的の為に、『十戒』が必要だからよ」
「……『十戒』を持っていた事を認めましたね」
「あらやだ、やられたわね。ええ、そう。確かに私は、『十戒』を持っていたわ。元々持っていたのは、前半だけなのだけど」
「つまりセンパイは、誰かに『十戒』の前半を渡し、仄香の持っていた後半を盗ませて、悪魔召喚の儀式をさせているんですね。おそらくはウチの学校の生徒で、それも悪徳を行なう事に躊躇いの無い人間を。……そうとうゲスいヤツに」
郁は、ウサギ小屋のニュースを思い出していた。『偽証』や『羨望』なら大した事にはならないだろう。『窃盗』も、実際に誰かの何かが盗まれたわけではなく、定期テスト中のカンニングという概念的な行為で行なわれた。
だが、被害が人ではないとはえ、学校で飼育されているウサギを惨殺するような行為は、尋常な精神では行なえない。
そして、『殺害』の他に残る悪徳は『姦淫』。これを概念的な行為で行うのは困難だと思われる。そして、自分と同世代の人間が『姦淫』を行なうとなれば、むしろ実際に身体を使う方を選ぶだろう。健全な青少年なら、不健全な方を選ぶに決まっている。
学校で、そのような悪徳が行われる。そして、それによって不幸になるのは、もしかしたら自分の知っているクラスメイトかもしれない。もしかしたらそれは、仄香かもしれない……。
郁は、自分の拳をギリギリと握りしめた。
と、郁の鼻にふわりとした、柔らかな香りが感じられた。少しだけ刺激のある、それでいて抜けるように爽やかな香りだ。
――イランイランにベルガモット……ほんのりとカモミール……。
仄香ほどではないが、郁も香りの知識は多少ある。幼い頃からの仄香との付き合いで、自然と覚えたものだ。
鼻腔の奥に感じる心地好い香りを確かめて、それが鎮静効果のあるものだと理解した郁は、大きく息を吐きだした。
最初の喫茶店では隣には仄香がいて、黒い女に対する怒りを担当する形になっていた。思えば、それがあったから郁は佳苗と冷静に話が出来ていたのだろう。
それが今は、一対一で相対しなければならない。中々に疲れる状況だ。
「落ち着いたかしら? 凄い顔してたわよ。いつもの可愛らしい小動物みたいな雰囲気が台無し」
「……誰のせいだと思ってるんですか」
ふと郁が佳苗の手元を見ると、彼女はいつも持っているクラッチバッグにアトマイザーを仕舞うところであった。
もう一度、郁は大きく深呼吸した。何か別の香りが使われているかもしれないが、面と向かって話を聞かなければならない以上、郁にはどうしようもない。自分が正気でいる事を期待して、話を続けるしかない。
「それで? センパイの、もう一つの目的は何なんです? それとも、さらに他にも目的はあるんですか?」
「いいえ、それだけよ。でも、私の本当の目的は秘密。……そうね、事がすべて終わったら、教えてあげるわ」
「それまでは、センパイの良いように使われていろって事ですね」
「言い方は悪いけど、その通りね。あなたと仄香さんが、私の目的に必要なの」
「……ボクと、それに仄香も?」
「元々の目的とは違うのだけどね。あなたたちのおかげで、より良い形で目的が達せられそう。すべてが終わった後も、心を残さずに済みそうだわ。だから、お願い。儀式の場には必ず二人で来てね。あなたたちの存在が必要よ」
佳苗はそう言うと、その姿が薄く、淡く、儚くなっていく。
「ちょ……っ! 待って! まだ、何も聞いてない!」
「郁ならもう、儀式が行われる場所の検討はついているのでしょう……?」
「ボクらの学校!」
「正解よ。必ず二人で来てちょうだい……待ってるわ……
郁が我に返った時、目の前にいたはずの黒い女はすっかり姿を消していた。実際には、物理的に佳苗が消えたわけでは無いのだろう。だが、郁の意識から消えたのなら同じ事である。
「……まあ、そういう消え方をするんじゃないかと思ってたけどさ。くそっ! いくら何でも突然すぎるっ!」
佳苗に良いように使われているとしか思えないが、ここまで来たら迷ってはいられない。仄香に連絡して、学校に行かなくてはならないようである。
悪魔召喚を阻止するための方法は、未だ検討もつかない。フェロモンが絡んでいるようであるが、それは郁の専門ではない。仄香であれば、何かヒントを得ているかもしれないから、それに期待するしかないであろう。
普通であれば、夜中に女の子を呼び出すというのは、なかなかロマンティックなシチュエーションであると言える。だが、これから起こる事を考えると、それとは真逆の状況となるであろう。
郁は軽く深呼吸してから、仄香の携帯電話にコールした。