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【完結】フェロモンの十戒  作者: 紫陽花
第七章 招魔の儀式
41/52

4 ハニートラップ

 魔香

 フェロモン

 黒い娘──馥澤沙苗の話、その真偽

 十戒、モーセ、意味とその概念

 悪魔を呼び出す

 契約と対価

 動物性の香料

 人(神)徳と悪徳

 儀式

 道標と警報フェロモン

 悪魔の嫌うもの

 悪魔にとっての警報フェロモンとは?

 沙苗の願い

 愛 死

 香水とは別のアプローチ?

 ヒトフェロモン

 悪魔のフェロモン


 それは、本当にメモ書きであった。

 達筆な文字で綴られているものの、取り留めのない内容は祖母の書いたものとは思えない。筆跡は間違いなく薫子のものではあるのだけれど。

 それだけに、逆に祖母の心情が垣間見えて、懐かしさと同時に恐れも感じられた。

 常に泰然として慌てたところなど見た事はなく、いつも優雅な微笑みを湛えていた祖母。黒い香りを教えてくれた時も、無礼な訪問者に対して流血を伴うような容赦の無い対応をした時も、薫子は何者にも動じない雰囲気を身にまとっていた。

 だが、このメモからは祖母が混乱している様子が見てとれる。

 内容は、確かに混乱に値するものではある。調香という科学の最先端の一部を担う祖母が、悪魔だの愛だの死だのと書き殴っているのだ。

 その中で、特に気になる名前が書かれていた。


「馥澤……ふくざわ、さなえ? あの黒いセンパイ……じゃ、ない?」


 他人と言うには似過ぎな名前である。曽田の言っていた黒い女の事だろうか。『十戒』にまつわる不幸の陰にいる女。あるいは、女たち。


「それに、このメモの書き方だと、おばあさまは『十戒』が悪魔召喚のアイテムだって、信じているみたい。やっぱり、本物なのかな……」


 郁の話では、『十戒』を盗んだ犯人は本物だと信じて行動している。そして、『十戒』の持つ魔香としての効果は確かに本物だ。何しろ、仄香は自分自身で体験してしまったのだから、疑う余地は無い。

 それに、祖母のメモ。『十戒』のケースに挟まっていたメモと合わせて、薫子も『十戒』が本物だと感じているようである。

 やはり、郁の言う通り、本物だという前提で行動した方が良いのだろう。

 ならば、やはり阻止するのは悪魔召喚の儀式である。


「またしてもフェロモン、か……」


 祖母の薫子も、馥山佳苗も、『十戒』の正体はフェロモンだと認識しているようである。そして、悪魔を「呼び出す」という事であれば、おそらくは道標フェロモンであろう。

 アリが餌場から巣まで一直線に並ぶのも、群れが斥候アリによって分泌された道標フェロモンに従っているからである。

 『十戒』の儀式を整えた者に向かって、どこか遠い所からやってくる悪魔。

 そんなイメージを浮かべた仄香は、ぶるりと身体を震わせた。香料の品質を守る為、十分以上に効かせている冷房のせいではあるまい。


「でも、だとしたら、悪魔にとっての警報フェロモンを撒けば、来てしまうのを阻止……出来る?」


 受粉の助けとする為に、フェロモン様物質を分泌して虫を誘導する植物がある。本来、フェロモンは同族同士でしか効かないが、フェロモンが生物にとってプログラムされた命令のように機能する点を利用する植物もいるのだ。

 ミツバチが熱殺蜂球でスズメバチを殺すのも、スズメバチの道標フェロモンを警報フェロモンとして認識している為である。


「うん、悪魔にとっての警報フェロモンを作ればいいんだ。……どうやって?」


 この場に郁がいれば、すぐに良い考えを導き出してくれるだろう。だが、薫子のメモを見ていない今は無理な話だ。子供の身では、こんな時間に呼び出すのも会いに行くのも親の目があって怒られてしまう。

 仄香は、ますます郁に会いたくなった。


「……明日は土曜日か。久しぶりに郁と一日一緒にいよう。そうしよう」


 それは、他人から見れば恋人同士の付き合い方である。だが、仄香はそれと意識する事無く、明日の予定を決めた。クラスメイトの瑞希が聞けば、なんでそれで恋人じゃないのかと詰め寄られそうな話である。


「郁は今、何してるのかな?」


   *


「センパイは、いったい何が目的なんです? ボクは今でも、センパイが『十戒』を盗んだと思っています。正確には、盗みに加担していると疑っています。もしそうなら、さっさと『十戒』の悪徳を積んで、悪魔でも何でも呼び出したらいい」


 郁の目の前に座っている黒い女は、妖しい微笑みを浮かべたまま答えない。

 時計の針が二本とも天頂を指すような時間に、郁は佳苗に呼び出された。なぜ自分の電話番号を知っているのか疑問に思ったが、魔香を使って人の心を操るような女である事を考えると、逆に手段はいくらでもあるように思われた。

 時刻は真夜中。子供が独り歩きするような時間ではないが、幸い今夜は母親が夜勤で家にいない。

 この間の話の続きをしましょうという佳苗の誘いに、郁は断る事など出来なかった。学校で散々探し回って会う事の出来なかった佳苗だが、向こうから接触してきたのである。出来れば仄香も同席させたかったが、夜中に女の子を連れだすわけにはいかない。

 仄香の母親の継美には信頼されているとは思うが、それによりかかるのも違うと思う郁である。父親が家庭を放り出して自分の仕事兼趣味に邁進しているのを反面教師にしている郁は、極めて常識的な感性を持っていた。

 佳苗の指定した幹線通り沿いのファミリーレストランに入ると、郁は店内を見回した。真夜中だというのに、客の入りは意外に多く、三割ほどのテーブルが埋まっている。

 ふと奥の方へ眼をやると、黒い人影が手を振っていた。

 誘われるまま席に着き、そして開口一番、郁は佳苗の目的を訪ねたのである。そして、ずっと疑問に思っていた事を口にした。


「でも、センパイはそうしない。それどころか、ボクたちに『十戒』の秘密を教えてくれた。センパイがいなければ、あれの由来を調べるのも大変だったはずです」

「随分と自信家ね。調べるのが不可能、とは言わないのね」

「それに、ボクたちの目の前で『魔香』を使って消えた。あれが無ければ、ボクらは『魔香』の存在を信じはしなかった」

「ちょっと、サービスが過ぎたかしらね。確かに私が使ったのは魔香だけど、同じ事は先生も出来るのよ? つまり、仄香さんにも可能なんじゃないかしら? 黒い目的で作られた香水……。先生のは、そうねえ……、言ってみれば『邪香』、かしら?」

「ジャコウ? 麝香ムスク、ですか?」

「いいえ。『邪悪な目的で作られた香水』で、『邪香じゃこう』」

よこしまな、香り……」

「そう。普通の香水は、自分や周りの人を楽しませるものね。でも、『邪香』は違うの。人を傷つけ、人を操り、人の心に爪を立てる。黒魔術になぞらえて、NP、ノワール・パフュームと呼ぶ人もいるわ」

「ノワール……黒い香り」


 郁は唾をごくりと飲み込んだ。

 郁は、それを知っていた。数年前、一度だけ嗅いだことがある。他でもない、仄香の手によって。


「その反応で十分よ。仄香さんも『邪香』を使えるのね」

「……!」

「別に秘密にする事じゃないわよ。むしろ魔法使いの弟子なら、黒い香りが使える事を自慢してもいいくらいだわ」

「……ダメだ。アレは誰にも言っちゃいけないワザですよ。ボクにだって、仄香は秘密にしてるんだから」

「ふうん。仄香さんの秘密を、アナタは知ってるんだ。でも、先生が郁に話したとは思えないわね。つまり……使われちゃったんだ、『邪香』?」

「……」


 郁は佳苗を無言で睨み返した。


「まあ、怖い。でも、良いわ。アナタと仄香さんの関係には非常に興味があるけれど、今は『魔香』の事ね」


 そう言って、佳苗は一息つくように冷えた水の入ったグラスを口に付けた。


「さて、『魔香』はその生成過程において魔術を使うわ。でも、『邪香』は純粋に化学と生理学によって生み出されるもの。そして、決して表には出てこない、秘密の香り。そういう意味では、『魔香』も『邪香』も同じものだけれどね。ちなみに『邪香』……ノワールの、この世界における第一人者が、誰あろう薫子先生よ。魔法使いの異名の本当の意味、分かったかしら?」

「薫子さんが……」


 疑えば切りは無いが、しかし佳苗の言葉に郁は納得した。納得するだけのものを、薫子は持っていたからだ。


「使われているのは、本当に科学的な手段だけなんですか?」

「ええ、そうよ。ふふ、信じられない?」

「信じられません」


 即答する郁に、佳苗は嬉しそうに微笑んだ。


「良いわね。正直で、見栄を張らない。郁のそういうところ、好きよ」

「正直ついでに、もう一度聞きますけど、センパイの目的は何なんです?」

「知りたい?」

「ぜひ。そうでないと、『十戒』の扱いに迷いが出る」

「迷い?」

「解き明かすか、隠すか、それとも捨てるか……。製法を公表して拡散させるというのもありますね」

「あなたがそんな事、するはずが無いでしょう?」

「それは買い被りですよ。ボクは自分が興味を持った事は、とにかく調べずにはいられないんです。そういった意味で、『魔香』はボクにとっても非常に興味深い存在だ。悪魔召喚が本当に出来るのなら、自分の手でやってみたいという思いもある」

「……へえ。あなた、本当に面白いわね」


 佳苗の表情が、ほんの少し真面目なものになった。これまではどこか、姉が不出来な弟を見るような雰囲気であったが、そういう侮りを含んだ表情が消えた。市松人形のように整った顔立ちから感じるのは、興味あるモノを値踏みする射貫くような視線だ。

 コーヒーが運ばれてきた。店員が二人の前にカップを並べる間、会話が中断する。


「……恋人の前では随分と猫を被っていたようね」

「違いますよ」

「あら、じゃあ本当は、年上のお姉さん相手に強がっているだけとか?」

「そうじゃなくて、ボクと仄香は恋人同士じゃありません」

「ああ、そっち。……って、えええっ? でも、郁はあの娘の事が好きなんでしょう?」

「ええ」

「ふーん、随分ハッキリというのね。それに、仄香さんもあなたの事が好きなんでしょう?」

「ええ」

「それも即答。それじゃ、なんであなたたちは恋人同士じゃないの?」


 話がどんどんズレていっているのだが、佳苗は軌道修正をしなかった。香水の話をしていたはずなのに、佳苗は郁との会話そのものを楽しんでいるように見える。


「企業秘密です」

「ぷっ。それじゃスパイをしないといけないわね。さて、どうしよう。ハニートラップでも仕掛けようかしら?」

「……本人を前にしてそれを言ったら、意味無いんじゃないですか?」

「そんなことないわよ。男がなんでハニートラップに引っ掛かると思うの? 男女が逆のパターンもあるけれど」

「引っ掛かったヤツがバカなのでは?」

「ふふん、その辺はまだまだ子供ね。お姉さん、ちょっと安心したわ。教えてあげる。ハニートラップの真髄はね、相手を安心させる事にあるの。つまりは信頼を得る事」

「え……? 信頼を得られないから、脅迫する為に罠を仕掛けるんじゃないんですか?」

「それは三流。ネタを無理やり作って脅迫なんて、そんなもの誰でも出来るでしょう?」

「それじゃ、一流のハニートラップというのは?」

「そうねえ……。二流で良ければ、今すぐ出来るわよ」

「……どんな事です?」


 仕掛けられるのが自分である事を理解している郁は、妖しい笑みを浮かべる黒い女に対して身構えた。郁も年頃の男の子であるから、年齢相応の性的知識はある。正直に言えば、幼馴染みに対して「そういう」感情を抱いた事も無くはない。だが、クラスメイトの瑞希に言われたように、郁は考えすぎてしまう傾向がある。常に情動よりも理性が勝っているのだ。

 だから郁は、佳苗が郁に対して淫らなコトを言ってくるのではないかと思った。


「私が知っている『十戒』の情報全て。それから、私が『十戒』を求める理由。全部教えてあげるわ。その代わり……」

「その代わり……?」

「キス、してちょうだい」

「き、きす……。キスぅ! ボクが? するの? センパイと?」

「そうよ。してくれたら。全部教えてア・ゲ・ル」


 語尾にハートマークをいっぱいつけて、艶っぽくウインクまでかまして佳苗は微笑んだ。

 ハニートラップと言われて前のめりで警戒しながら聞いていた郁は、思わず姿勢を正してしまった。切り込もうとしていた体勢から、文字通り引いてしまったのだ。


「簡単でしょ? 郁の唇を私にくれるだけで、あなたの知りたいコト、全部教えてあげるのよ」


 意図せず郁は、自分の口元を押さえて仰け反った。さっきまでは挑むような視線でテーブルから黒い女に身を乗り出していたのだが、今は可愛らしく微笑む年上の女性から離れようとしてしまう。それでいて、佳苗の話には吸い込まれそうな魅力を感じてしまい、席を立つことも出来ない。


「フフ、大丈夫よ。あの娘には秘密にしておいてあげるわ。郁はキスが初めてかもしれないけど、私が脅してやらせてるんだから、これはノーカウント。私が黙っていれば、誰にも知られないわ。それに、キス一つであなたたちの知りたいコト、全部知ることが出来るのよ。だからこれは、全部仄香さんの為。あの娘の為にも、ね?」


 媚びるような笑みを向け、あざとく首をかしげて年下の男の子を見つめていた黒い女は、軽く顎を上げて目を閉じた。キスをされる気満々の、さあどうぞという態勢だ。


 ――ど、どうする? するべきか、せざるべきか……。確かに、馥山センパイの提案は魅力的だ。もし、仄香が隣にいたら、怒るかもしれないけど、見ない振りをしてくれるかもしれない……。だって、『十戒』の秘密を知る事が出来るんだから……。だからこれは、仄香の為……。仄香の……。仄香……。……? ……!


「うわっ!」


 それまで郁は、自分がほとんど息を止めて考えていた事に気が付いた。周りの目も気にせずに驚愕の声を上げた郁は、少し冷めたコーヒーをブラックのまま一気に飲み干す。


「あら、残念」


 今までの艶っぽさはどこへやら、いつもと同じ妖しい笑みを浮かべた黒い女は、今更ながら、温くなったコーヒーにゆっくりとクリームを落としていた。


「はあ……。確かに、想像していたのと違っていましたね。ハニートラップ。正直、引っ掛かるところでしたよ。ボクと仄香の関係を聞かれていただけのはずだったのに……」

「でも、あなたたちの関係に興味があるのは本当よ。郁さえよければ、そっちを対価にしてもいいわ」

「やめておきますよ。気付かずに別のトラップに引っ掛かってしまいそうだ。逃げた先に罠を仕掛けるのは常道ですからね」

「随分と慎重ね」

「気が小さいだけですよ。臆病なんです、ボクは」

「臆病……。なるほど、だから、あなたたちは恋人同士じゃないのね?」

「ええ、まあ……、理由の一つです」


 結局、何も聞かないうちから正鵠を射られてしまい、郁は話の接ぎ穂を失ってしまった。しかも、肝心な事は何一つ聞き出せていない。話はこれからなのだ。

 腕時計に目をやると、日付が変わって三十分が過ぎた頃である。

 明日――正確には今日は土曜だし、そもそも夏休みに入ったばかりである。今夜は時間を気にせず、佳苗から話を聞く事が出来る。

 長い夜になりそうであった。

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