3 忘却
曽田の脇を通り抜け、数歩進んでから、佳苗は後ろを振り返った。
曽田は、一瞬前まで佳苗が立っていた空間をじっと見つめている。彼自身も、そこには既に佳苗がいない事は承知しているはずだ。それでも、懐かしい高校時代を思い返しているのか、曽田がその場から離れる気配は無い。
佳苗は、自分の身と周囲に漂わせている香りに意識を向けた。曽田を操るためだけに組んだ香水で、名前は無い。だが、かつてのクラスメイトの後ろ姿を見た佳苗は、ふと思い付いて、この香水に名前をつけた。
『望郷』
意図したわけではないが、曽田に渡した香水『忘却』と韻を踏んだような名前に、黒い姿をした妖しい少女は自嘲の笑みを浮かべた。
迷いを振り払うように踵を返し、佳苗は曽田を背にして歩み始める。
「さて、後は生贄たちと、あの可愛らしい坊やね。彼のおかげで終わりが見えたのだから、感謝しなくちゃ」
人気のない公園で、佳苗は独りごちる。
「本当に、あと一息」
*
天井から下がる裸電球が、工房の中を照らしている。
工房の真ん中に置かれた安楽椅子に身体を沈めている仄香は、読みかけの本を閉じて脇のサイドテーブルに置いた。アロマポットに灯されたキャンドルの火が揺れる。
曽田との夕食から戻ってきた仄香は母親に一声かけると、いつものように調香工房へと籠った。
無数の香料を揃え、貴重な素材も珍しくない工房であるが、ここに納められているのは香料だけではない。香水に関する様々な書籍や稀覯本が薫子によって集められており、その蔵書は香水に特化した図書館とも言えるほどである。
その中で、仄香がいま読んでいたのは、フェロモンに関する書物だった。
今でも多くの人が誤解しているが、フェロモンと香水は別物である。
いずれも鼻で吸い込むので誤解も仕方の無い事だが、フェロモンの受容器官は鼻腔の奥にある鋤鼻器と呼ばれるものであり、香りの感覚器官とは異なる。鋤鼻器はヤコブソン器官とも呼ばれており、フェロモンを個体同士のコミュニケーションに用いている四足歩行の哺乳類は、特にこれが発達している。
一方人間は、コミュニケーションに言葉を発達させた為、現在では鋤鼻器は退化している……と、思われていた。
だが、近年ではヒトの鋤鼻器もわずかながら機能を残している事が分かっており、ヒトフェロモンの研究も細々とだが行なわれている。もっとも、プラシーボ効果との境目も曖昧なので、研究は遅々として進んでいないのが現状である。
それとは別に、フェロモンという単語とイメージを利用しているのが香水業界である。
実際、言語を持たないヒト以外の生物にとって、フェロモンは種の繁殖に欠かせないものである。警報や攻撃を目的としたフェロモンは言うに及ばず、誘引フェロモンなどは最も生物の本能に根差したものと言えるだろう。
フェロモンの主要な機能の一つである誘引フェロモンは、またの名を性フェロモンと言う。世間一般でイメージされるフェロモンとは、これの事を指している。それゆえ、フェロモンという単語は、異性を惹きつけたいという生物本来の願望を、キャッチコピーのように分かりやすいものにしていると言える。
一時期は「フェロモン香水」なるものも流行ったが、実際には「フェロモン+香水」であり、香りにフェロモンのような効果があるわけではない。それは、芳しい香りにフェロモンとなる生理活性物質が付与されているものなのである。
従来の香水とは関係なく、ヒトにも効くフェロモンが存在する。
香水に携わる者として一通りの知識を祖母から授かっていた仄香は、改めてフェロモンの事を調べ直していた。何しろ、悪事に使われていたのだ。純粋な香水とは別物と思っていても、仄香にとって無視する事は出来なかった。
さらに言えば、黒い女――馥山佳苗によれば、『十戒』によって生み出されるフェロモンは、悪魔を呼び出す事が出来るという。
悪魔。
想像やお伽噺の存在。
魔香というものの存在を知り、その魔法染みた効果を自分の身で体験した今となっても、それは信じ難い話である。
だが、郁の言う通り、実際はどうであれ、それを信じて悪事を重ねる者がいる。仄香の元から『十戒』を盗んだ犯人は、佳苗の言う悪魔召喚の儀式を着々と進めているのだ。
まず大前提として、フェロモンはほぼ同族にしか効かない。アリのフェロモンはアリに、ハチのフェロモンはハチに、といった具合である。
そもそも一口にフェロモンと言っても、実際にはいくつかの種類がある。
仲間に危機を知らせたり、攻撃行動を促したりする警報フェロモン。
仲間にエサの在処を示す道標フェロモン。
雌雄、成体、幼体を問わず、仲間を一点に集める集合フェロモン。
そして、種の繁殖のために異性を惹きつける誘因フェロモン、いわゆる性フェロモンである。
中でも警報フェロモンの効果として有名なものに、ミツバチの「熱殺蜂球」がある。まるで少年マンガの必殺技のような名前であるが、れっきとした学術用語である。
ミツバチの天敵として存在するオオスズメバチ。肉食のスズメバチは幼体のミツバチを捕食する為、ミツバチの巣を発見すると、仲間を呼び寄せる為の道標フェロモンを発する。このスズメバチの道標フェロモンが、ミツバチにとっての警報フェロモンとなる。
斥候のスズメバチが発する道標フェロモンを感知したミツバチたちはスズメバチを巣の中におびき寄せると、集団で襲い掛かってスズメバチの身体を覆いつくす。この時、最初に襲い掛かるミツバチたちはスズメバチに食い殺されてしまうが、後から続くミツバチの集団は絶えることなく、やがてスズメバチは数百匹ものミツバチたちに覆われてしまう。そしてミツバチたちは胸の筋肉を震わせると、五十度もの熱を発するようになる。スズメバチの致死温度は約四十五度。熱殺蜂球に覆われたスズメバチに逃れる術はなく、蒸し焼きにされて殺される。まさに、ミツバチの必殺技なのである。
この必殺技の苛烈な点は、先に述べたように前衛のミツバチたちは食い殺される事。そして、熱殺蜂球を実行した個体は、寿命が約四分の一に縮むという事実である。さらに、寿命の縮んだ個体は、次の熱殺蜂球の際に率先して食い殺される役割に向かうという。
道標フェロモンを発する斥候のスズメバチを逃せば、巣は壊滅の危機を迎えてしまう。それゆえ、個を持たない群体としての社会を営むミツバチは、フェロモンによって自動的に必死の行動を採るのである。
「悪魔を呼び出すっていうのなら、道標フェロモンかしら。警報フェロモンだと逆効果だし、集合フェロモンだと際限なく来ちゃう。せ……誘因フェロモンは、違うわよね」
『十戒』はフェロモンを利用した魔香であり、悪魔を呼び出すアイテムである。
仄香の脳裏に黒いイメージをもたらす馥山佳苗は、そう言った。
そして現実的に、『十戒』という香水は、仄香の周囲で血生臭い事件を起こしている。おそらくは、悪魔を呼び出す為の儀式として。
だが、悪魔を呼び出すなどという事が本当に出来るのだろうか。
魔香の持つ不思議な力は、仄香自身で体験した。
それでも、悪魔召喚という荒唐無稽な話は、今でも信じがたい。
「……ふう。そうよ。悪魔なんているワケない。あの女が魔香とか言ってても、ちゃんと調べれば、その正体が分かるはずだわ。どっかのバカが、アホな事をしているだけなのよ」
祖母の薫子は、魔法使いの異名を持つ調香師であった。しかし、祖母がどのように呼ばれていようと、あるいは薫子の振るう技がどれほど魔法じみていようとも、調香というものは何処まで行っても科学的なものである。解明されていない香りがあるとしても、それは単に未解明というだけであって、いずれは効能もレシピも解き明かされるであろう。
もちろん、キチンと調べるにはそれなりの設備が必要である。完璧にコントロールされた環境。純度の高い試料。ガスクロマトグラフィーのような高度な分析機器。そして、数百数千もの香りを嗅ぎ分けられる研究者。
かつて薫子は香料会社の大手フレグランス・アンド・フレーバー・ディストリビューション・カンパニーに勤めており、通称FFDCはその全てを備えていた。現在FFDCには薫子の弟子である曽田が在籍しており、仄香は曽田に『十戒』の科学的な分析を頼んでいた。
だが、曽田の研究室で『十戒』による流血沙汰が起きてしまった。『戒めの十:汝、隣人の物を欲するなかれ』の逆、『汝、隣人の物を欲せよ』によって、視力を羨ましがられた女性研究員が同僚に自分の目玉を抉って渡したのだ。
悪魔など信じられないと思いつつも、科学の最先端の場でオカルト染みた事件が起こってしまった事に、仄香は不安な心を止められない。
まるで、日常が黒いモノに侵食されているような感覚だ。
そして黒は、仄香が『十戒』に持つイメージでもある。
こんな時、隣に郁がいればと思うのだが、先日のような盗みに入られたという緊急事態ならまだしも、不安というだけで夜も更けた時間に呼び出すわけにもいかない。
「魔香……、フェロモンか……」
あの黒い女――馥山佳苗の話では、魔香とは魔術とフェロモンを用いて人の心を操るものだという。
仄香には、魔術がどういうものかは分からない。話を聞いていた郁は理解していたようだが、仄香にしてみれば、魔法と魔術の区別もつかないのだ。
だが、フェロモンなら知識はある。
仄香はふと思いついて、オルガンの上にある書棚から祖母のノートを手に取った。それは暗い薔薇色の装丁をされた手書きのノートで、魔法使いと言われた薫子の黒い技のレシピが書かれている。祖母が生きていた頃は一人で読む事を禁じられていたが、この工房の主となった今では仄香のものとして受け継いでいる。とはいえ、黒い香りを乱用した事は無く、実際に使った事は二度しかない。
一度目は、この工房を守る為、伯父に対して『蠱惑』を使った。
そして二度目は、自分の心を守る為、大好きな幼馴染みに対して同じ『蠱惑』を使ってしまったのだ。
その事を思い出して、仄香はノートを掴む手に力を込めてしまう。ハードカバーの背表紙が歪む。
「……ふう」
軽く深呼吸して、仄香は落ち着きを取り戻した。
いつまでも自分の過去を引きずっていてはいけない。そうと思いつつ、仄香は郁に対して中々歩みを踏み出せないでいた。だが、今夜の曽田との会話を経て、仄香は一歩を踏み出そうという気になっていた。その為には、やはり『十戒』をなんとかしなければと思う。
自分の過去と『十戒』には直接の関りはないが、香水を利用した悪事という共通点がある。
あの時の事を、まるで時間を切り取って無かったかのようにしてくれている郁には感謝しかない。だけど、それに甘えたままではいけないと思う。
ちゃんと謝って、好きと言おう。
もう一度、深呼吸して、仄香は祖母のノートのページをめくっていった。
「……あれ?」
手書きのノートであるだけに全てのページが薫子のメモで埋められているわけではなく、残り三分の一以降は空白のページが続いている。以前に読んだ時も空白ページ以降には何も書かれていないと思い、仄香は最後まで読む事はしていなかった。
だが、パラパラとめくっていった最後のページが、硬い裏表紙から剥がれかけていた。どうやら、最後のページは裏表紙に糊付けされており、その粘着力が失われているようである。
ノートは最後まで使われていないという思い込みで、今まで気付かなかったのだ。
「何か……書いてある?」
剥がれかけたページをノートの上から覗き込むと、祖母の流麗な字が見えた。
祖母からこの工房を受け継いだ時、仄香は全てに目を通した。香料や素材は言うに及ばず、蔵書には目録を作り、薫子の手書きのノートは一字一句残さない勢いで読み尽くしたのである。それは、愛する祖母を亡くした喪失感から逃れる為であったのだが、薫子の全てを受け継ごうという覚悟の表れでもあった。
それが、未だ目にした事のない祖母の遺産が不意に見つかった。
からくり時計に隠されていた『十戒』を見つけた時と同じ興奮を覚えた仄香は、慌てて破かないよう慎重にノートの糊を剥がしていった。