1 『十戒』と黒い女
「そうそう、仄香さんに一つ、忠告を」
「忠告、ですか?」
仄香の過去話が一段落したところで、曽田は表情を改めた。薄く笑顔を浮かべているのは相変わらずだが、年下の少女の人生相談を受けていた時とは明らかに雰囲気が変わった。
仄香の耳に、レストランに流れるクラシック音楽が聞こえてくる。それによって、自分が自分の内面に深く集中していた事に気付いた仄香は、居住まいを正した。実際はずっと音楽が流れていたのだろうが、どうやらそれにも気付かないくらい、集中していたらしい。
曽田はコーヒーカップを置いて、両手をテーブルの上で組む。
「黒い女には、気を付けてください」
「……黒い、女?」
そう言われて、仄香は反射的に馥山佳苗の事を思い浮かべた。最初に会った夜から、彼女は一貫して黒い服を着て仄香たちの前に姿を現している。
「ええ。昔から、『十戒』にまつわる不幸な出来事には、必ず黒い女の影がちらついているんです」
「不幸って……」
「ウチの職員が自分の目を抉ったという先日の話や、さっき仄香さんから聞いた、学校のウサギが惨たらしく殺された事件。他にも、『十戒』が我々の業界で話題に上るたび、人が大ケガをしたり、死んでしまうような不幸な事件や事故が起こっているんです」
曽田は極めて真面目に話しているのだが、そのせいか声が少し大きくなっている。曽田の背後でコース料理を楽しんでいた年配の女性が、あからさまに不愉快な視線をこちらに向けてきていた。
だが、曽田の話を遮るわけにもいかず、仄香は背後の女性に気付かない振りをして話を聞き続けた。
「『十戒』にそんな悪い噂があるんだったら、誰かが捨てようとしてもおかしくはないと思うんですけど」
「悪い噂よりも欲の方が勝っていたのでしょうね。それに、それを邪魔していたのが、黒い女と言われています。『十戒』が日本で最初に確認されたのは明治時代ですけど、その頃から黒い女がたびたび目撃されているんです」
「それは……、さすがに同一人物じゃありませんよね?」
「普通に考えれば、そうなんでしょうが……」
「普通じゃ、ない?」
「例えば、『十戒』には不老不死をもたらすような、何か別の力がある、とか……」
「さすがにそれは、荒唐無稽じゃないですか?」
仄香は反射的にそう言ったものの、それ以上言葉を紡ぐ事が出来なかった。何故なら、『十戒』の持つ魔香としての力以外の存在意義を、その黒い女に教えられているからである。
それに、あの女も言っていたではないか。自分は四百歳以上だと。
仄香は、馥山佳苗の言う事をすべて信じているわけではない。だが、完全に否定する事も出来ない。そして、魔法や魔術とは無縁なはずの曽田から、そのようなオカルト染みた推測が出てきた意味を考えざるを得なかった。
『十戒』とはもしかしたら、本当に悪魔を呼び出して、願いを叶える事が出来るアイテムではないのか……。
「まあ、『十戒』が実際に妖しい力を持った香水であるのなら、それを組織立って追う連中がいてもおかしくはありません。それに、神話を民俗学の見地から解き明かせば、集団を一個人として表現するといったような話も珍しくありませんしね」
「たかが香水に、随分と話が大きくなりましたね。郁と、ちょっとした謎解きをしていただけのつもりだったのに……」
そう、たかが香水のはずであった。
祖母にも出来なかった、謎の香水の秘密を解き明かす事。それによって、祖母の居た高みに近付ける。そういう少女の持つ他愛の無い夢の話だったはずなのだ。
だが、現実は生臭くドロドロとしていて、およそ少女の求めた芳しい香水には相応しくない世界が広がっている。
早く、この事態を終わらせたい。
今の仄香の望みはその一点に尽きた。
そうすれば、大好きな幼馴染みの事だけを考えている事が出来る。
会いたい。
郁に会いたい。
仄香は今、無性に大好きな幼馴染みに会いたいと思った。
告白するとか、気持ちを伝えるとか、そういう区切りみたいな事をしたいのではなく、とにかく郁の傍に居たかった。それで自然と良い雰囲気になって、そしてそのまま……などという事になれば言う事は無いが、今更そんな展開になる事など無いのは分かっている。
だが、きっかけが欲しいとは思った。曽田が後押しをしてくれたのも嬉しい。しかし、幼さの残る少女にとって、三年という時間は決して短くはない。このままで良いと、今の状況を受け入れてしまった事に対する後ろめたさもある。
それでも。
一歩。
そう、一歩だけでも踏み出してみよう。
話を流されてもいい。気の無い返事をされても構わない。好きだと、言葉に出して言い続けてみよう。
その為にも、仄香は周囲にまとわりつく黒い香りを吹き払わなければならないと思った。
仄香の持つ『十戒』のイメージは黒。
妖しい女、馥山佳苗も黒。
そして、仄香や佳苗が操る香りも黒。
そんな、何もかもが黒くなってしまった世界で、郁だけは違う香りを漂わせていた。
それは、薄桃色の香り。
以前、大好きな幼馴染みから、彼の匂いとはどのようなものかと聞かれた事がある。仄香はそれを言葉にする事は出来なかったが、色だけはハッキリとしていた。
薄桃色。
薄く、淡く、ほんのりと暖かい色。そして、ほんのちょっぴり美味しそうな色。
郁の匂いを思い返しながら、仄香は決然として曽田に向き直った。
「忠告、ありがとうございます。でも、私は『十戒』を追う事はやめませんから」
「……止めても無駄なんでしょうね。あなたは魔法使いの孫なんですから、頑固なところも同じなんでしょう」
「頑固……。おばあさまって、頑固だったんですか? アタシにはそんなイメージは無いんですけど……」
仄香にとっての祖母は、いつでも優しく微笑んでいる素敵な女性である。自分も、ああいう風に年を取りたいと思っていた。
「頑固というと少し言葉が悪かったかもしれません。一途、と言った方が良いですね。こと香水に関しては、立ち止まる事をしない方でした」
「……ああ」
一途という言葉で、仄香は納得した。自分に置き換えてみても、その一言はしっくりと来る。
「とにかく、黒い女には気を付けてください。妖怪とか都市伝説みたいな話ですけど、見たらすぐに逃げ出した方がいいかもしれません」
冗談のような話なのに、曽田の表情は冗談を言っているようには見えなかった。
「分かりました。郁にも言っておきますね。黒い女には関わらないようにって」
*
駅前のロータリーで魔法使いの孫と別れてから、曽田はタクシーを捕まえようと幹線道路へと向かった。
女子高生と夕食を共にするには遅すぎない時刻である。駅前の繁華街はそれなりの賑わいを見せており、人込みの苦手な曽田は大通りへ向かって公園をショートカットする事にした。曽田は迷う事無く、人気のない公園へ足を踏み入れる。
と、曽田は何やら懐かしい匂いを嗅いだ気がして足を止めた。匂いの源を探そうと、周囲を見回す。
公園には敷地の中央に大きな池があり、周囲を遊歩道と木々が取り囲んでいる。ところどころ街灯があるものの、駅の喧騒と比較して裏寂しい印象だ。
匂いの源となるようなものは見えない。
いや、そもそも、公園をショートカットしようとしたのは、この匂いを嗅いだからではないだろうか。
普段から香水を扱っている曽田は、反射的に匂いの分析を始めた。
――ウッド系、グリーン・ノート、ほんのりとスモーキーでスパイシー……フランキンセンス? いや、もう少し野暮ったい、幼い雰囲気……というより、ノスタルジーかな? L11、A3、H9、X1、Q4……。
曽田は脳裏に、自分の勤める研究室のオルガンを思い浮かべた。半円形の棚が何段も連なり、全ての試料瓶が手の届く位置にあるオルガンと呼ばれる作業台。それぞれの試料瓶には番号が振られており、曽田はその番号を唱えながら、今感じている匂いのレシピを頭の中で組み立てていった。
「久しぶりね、曽田くん」
と、背後からいきなり自分を呼ぶ声を聴いた曽田は、身体をビクリとさせて振り返った。だが、見える範囲には誰も見えない。何やら幽霊染みた体験をしてしまったのかと思ったが、街灯の光の届かない辺りの闇から滲み出てくるように一人の女性が現れた。いや、女性というより少女といった方が良いのかもしれない。仄香よりは少しだけ年上に見える少女は、夏の夜の暑さにも関わらず、シックな黒の長袖ワンピースを身にまとっていた。