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【完結】フェロモンの十戒  作者: 紫陽花
第三章 盗人の残り香
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6 窃盗

 解答用紙の空欄に、ひねり出された答えが書き込まれる音だけが聞こえていた。教室には四十人の男女と教師が一人いるが、誰一人として口を聞く者はいない。

 学期末テスト。

 一クラス四十人の生徒たちが、一心不乱に問題文と格闘していた。

 『十戒』を盗んだ犯人は未だに不明だが、とりあえずの手がかりとして、仄香は『十戒』のことを詳しく知っているであろう人物と会う約束をしている。仄香も郁も、一時、正体不明の危険な香水のことを忘れ、今は学生の本分に集中していた。

 テストは初日の二時間目、世界史である。ササン朝ペルシアだのオリエント文明だのと、現代日本に住む自分たちには全く関わりの無いことねと思いつつ、仄香は解答欄を順調に埋めていった。関係無いとは思っているが、面白くないとは思っていない。むしろ、歴史は面白いと仄香は思っている。

 仄香が歴史に興味を持ったのは、やはり香水が関係しているからである。香水も、その元になっている香料にも、現在の香りになるまでには様々な歴史がある。“香りを理解するためには、その香りの生い立ちも理解しなければならない”とは薫子の言葉である。

 例えば、今では食卓にあるのが当たり前になっている胡椒コショウ。かつて胡椒は貴重な調味料であったのだが、どのくらい貴重かと問われれば、同じ重さの金と取引されていたと言えば実感できるであろう。十六から十七世紀のヨーロッパでは、胡椒を巡って戦争が起きたくらいである。

 胡椒に限らず香辛料全般に言えることだが、その呼び名が示すように、香辛料とは単に刺激的な辛味だけではなく、香りも重要なのである。

 そういった視点で年表を眺めながら勉強していた仄香は、歴史の様々な場面にかぐわしさを感じるようになっていた。

 暦を埋める香りを思い出しながら、仄香は順調に空欄を埋めていく。と、瞬間的に、仄香の視界が“黒く”なった。


 ――……え?


 黒くなったのは本当に一瞬で、すぐに仄香の視界には八割がた答えの埋まった答案用紙が広がったが、次の瞬間、仄香の脳裏に警報が響き渡った。もちろん、この警報は仄香にしか聞こえないので、周囲をキョロキョロと見回したくなる気持ちを必死になって抑えた。シャープペンシルを握りしめる指に力を込め、仄香は忍耐強く奥歯を噛みしめる。


 ――誰かが……『十戒』を使ってる?


 視界が一瞬“黒く”なったのは、仄香の鋭敏な嗅覚に『十戒』の香りが感じられたためだ。

 仄香が持つ『十戒』のイメージは『黒』である。これは、実際に黒いものが見えたわけではなく、嗅覚が視覚に及ぼした錯覚と言える。だが、特定の分野に優れた人間や、そういった人間の生み出したモノには、まれに感覚の交錯という現象が発生する。音に色彩を感じたり、絵画から熱を感じたりするのだ。マンガなどが分かりやすいであろう。ただの白黒の絵であるはずなのに、鮮やかな色彩や激しい熱を感じたり、場面によっては音楽ですら聞こえたりするときがある。

 試験時間は残り十分。

 解答欄を全て埋めた仄香は、目をつむって嗅覚に意識を集中した。

 いつもの席とは違い、試験のとき、生徒は出席番号順に並んで座っている。仄香の席は真ん中の列の後ろから三番目。ほぼ教室の中央である。


 ――教室の中……、じゃない……。廊下からだ……。


 少なくとも、クラスメイトの中に犯人はいないようである。

 仄香は黒板の上にある大きな時計を見上げた。残り時間はあと五分ほど。

 不得手な教科であれば、残り時間のギリギリまで解答を導き出すのに粘っていたであろうが、今は逆に、早く試験が終わってほしいと仄香は思った。

 いつもの半分くらいのスピードで進む秒針を凝視していた仄香の耳に、やがて試験終了を告げるチャイムが聞こえてきた。静寂に包まれていた教室が、一気に騒がしくなる。安堵とも諦観ともつかない溜息が何人もの口から漏れ出した。

 監督教師の指示に従い、後ろの生徒が前の生徒へ順に解答用紙を裏返して重ねていく。教師が全員分の解答用紙を束ね、教室から出ていくと同時に、仄香も教室から飛び出した。


「仄香?」


 後ろから幼馴染みの驚いた声が聞こえてきたが、今は無視した。廊下に出た仄香は、自身の嗅覚に従って『十戒』の香りを追う。

 だが、わずかに感じた黒い香りは、階段の辺りで途切れてしまった。階段を登ったのか降りたのか、それとも階段ホールの先の別の教室からだったのか。

 夏の暑さに教室や廊下の窓は開け放たれており、心地好い空気の流れが感じられる。そのせいで、『十戒』の香りは感じられなくなってしまったようである。


「仄香!」

「……郁」

「いったいどうしたの、テストが終わるなり飛び出して? あまりの結果に絶望した?」

「違うわよ、バカ! テストの最中に『十戒』の香りがしたのよ。誰かがあれを使っていたみたい。でも、もう感じないわ……」


 仄香は、背後から近づく郁の体香を嗅ぎ分けられるほど嗅覚が鋭い。彼女が『十戒』の香りを感じたというのなら、間違いないのだろう。

 盗んだ犯人は、この学校にいる。

 それもおそらくは、同じ学年だ。




「『戒めの八』?」

「そう。『汝、盗むなかれ』だよ」


 試験終了後、いつもと同じように郁は仄香と連れ立って帰宅の途についていた。バスを降り、停留所から調香工房のある仄香の家に向かっている。

 停留所に面した公園からは、噴水で水遊びをする子供の声や、セミの鳴き声が聞こえてきていた。夏の盛りである。


「今日の話で確信したよ。あの香水は『十戒』って名前だけど、逆なんだね」

「逆?」

「そ。『モーゼの十戒』とは逆に、戒律を守るんじゃなくて、破るんだ」

「えと、つまり、『汝、盗め』ってこと? でも、テスト中に何を盗むの?」

「もちろん、答えに決まってるでしょ」

「答え……、あ、カンニングか」

「そういうこと。『十戒』を破るって仮定すると、あのケースに書かれた条文が逆向きだったのも、一応は説明がつく」

「フタを開ける向きと、逆に書かれてたわね。アタシには読めなかったけど」

「あれは、多分、香水のマニュアルなんだ。普通の『十戒』の逆、戒律を守るのではなく破戒する。だから、上下逆に書かれてるんだ。仄香が馥山先輩にウソをついたのも、その一つになるね。『戒めの九:汝、偽証するなかれ』の反対、『汝、偽証せよ』。……その時、何か変な事は無かった?」

「……確かに、あの時、アタシはウソをついた。……うん、しかも、ウソがスラスラ出てきたわ。自分でもビックリするくらいに」

「他には?」

「黒い女が……馥山先輩が、ウソをあっさりと信じたみたい。でも、今考えると、それもおかしいわね。あんな夜中に突然現れて、“知らない”の一言ですぐに帰っちゃうなんて……」

「仄香は心理的にウソをつくことに抵抗が無かったし、相手もそのウソをあっさりと信じた……」

「FFDCの件はどうなの?」

「……『戒めの十:汝、隣人の物を欲するなかれ』、だね。『汝、隣人の物を欲せよ』……か。他人のものを羨ましく思ったりすることかな。嫉妬、羨望……、曽田さんの部下の女の人は、同僚の視力を羨ましいって言ったんだろ?」

「うん……。でも、目が良いのが羨ましいからって、目玉を抉り出すなんて……」

「いやいや、その言い方だと、目が悪い方が良い人の目を抉ったみたいだよ。そうじゃなくて、目が良い人が自分で抉ったんでしょ?」


 初夏の汗ばむ日差しの下、郁と仄香が歩く住宅地の歩道は眩しさに満ちていたが、二人の会話はひどく殺伐としていて血生臭かった。


「羨ましく思ったのが、例えば相手の持ち物、ブランド物のバッグとか、美味しそうに食べてるアイスとかだったら気付かなかったかもしれないね。多分、これが『十戒』の持つ本当の効果なんだろう。悪徳を行う為の……、そう、魔法の道具」

「魔法……」

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