三種類の修行!
よし三種類の修行の違いについてもう少し詳しく話そう。
まず一番目の修行については、修練が完成するまでに極めて長い時間がかかることから仮に「歴劫行」と呼ぼう。
お釈迦様は、「法華経」において始めて、すべての人がすでに本来、無垢・清浄な如意宝珠のような心(=仏の境界)を有している(=「一念三千」の法門)ことを明らかにされた。
そしてこの「歴劫行」は、仮の教えである方便を捨てて真実をそのまま説くとおっしゃられた「法華経」以前の教えに基づく修行であることから、仏に近づきつつも無限に近い気の遠くなるような時間がかかり、結局は永久に仏と成ることは出来ないであろうと思われている。
しかしこれはこれで悪くはない。ただし強靭な意志が必要じゃ。
次ぎに二番目の修行は、精神を集中し心を静め対象や真理をありのままに観察・認識をしようとする方法であることから仮に「止観行」と呼ぼう。
今ここで「止観行」の修練に必要だと思う先駆者の言葉を綴ろう。
敢えて解説などはしない。
わしが、ここで(=蓮池)、これまでにそちに説いたことを深くかみしめて、修練を続ければ、お前自身がその正しい答えを導き出すであろう。
自ら調べ、探求し、悩み、疑問を持ち、壁にぶち当たりなさい。
「円頓とは、初めより実相を縁ず、境に造るにすなわち中にして、真実ならざることなし。縁を法界に繋け、念を法界に一うす、一色一香も中道にあらざることなし。己界および仏界、衆生界またしかり。陰入みな如なれば苦の捨つべきなく、無明塵労すなわちこれ菩提なれば集の断ずべきもなく、辺邪みな中正なれば道の修すべきなく、生死すなわち涅槃なれば滅の証すべきなし。苦なく集なきが故に世間なく、道なく滅なきが故に出世間なし。純ら一実相にして実相のほかさらにに別の法なし。法性寂然たるを止と名づけ、寂にして常に照らすを観と名づく。初後をいうといえども二なく別もなし。これを円頓止観と名づく…。」
次ぎに三番目の修行についてじゃ。仮に「不軽行」と呼ぼう。
この名前は、「法華経」で説かれているお釈迦様が仏に成ったとされる「不軽菩薩」様の修行方法に基づいているからそう付ける。
今ここで「不軽行」の修練について肝心だと思う「法華経」での言葉を紹介しよう。
仏の教えが弱まった時代、今は姿なき仏の教え「すべての人がすでに本来、無垢・清浄な如意宝珠のような心(=仏の境界)を有している(=「一念三千」の法門)。」との教えを不軽菩薩様は誰彼ともなく人々に対して…
「我は深く汝等を敬い、敢えて軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べければなり…。」
と礼拝し、敬った…。
しかしその結果は、目の前の不軽菩薩様の見た目の境遇、身の上、境涯、家庭環境等より、己の方が優れていると思う人々から迫害され続け、最後は罵詈・暴力の中に死ぬことになる。
しかし、不軽菩薩は退転の心なく法華経を弘められたので、ついには仏(=お釈迦様)となられたと言われている…。
この三番目の「不軽行」は「信」と、自ら体験している喜びを伝える「勇気」、そして何よりも気持ちが挫けない強い心があったのじゃ。
そして何よりこの修行の良いところは、仏の教えを信じた凡夫が一生のうちに仏の境界に達すると言われておる。いわゆる「凡夫即成仏」じゃ。
誰もがそれぞれの特質を改めることなく、そのままの姿で仏の特質をすべて具えている真実の仏に成ることじゃ。
わしは、出来ればそちには、全く異なるこの二つの、法華経の教えに基づ修行の両方を兼ね備えて欲しいと願っておる。
…。
わしには、これ以上の説明は出来ない。
同じことを言うようじゃが、わしは、そち自身の心が造ったそち自身の心なんじゃから、そちが、これから、自ら探求し、悩み、疑問を持ち、壁にぶち当たり、成長した時にしか、わしはそちの前に現れることが出来ないじゃろう…。
じゃがわしはそちが成長し、再び会えるであることを信じておる。だから頑張るのじゃ。
その事が、この世での六番目の「意識」によって、家の床である「業識」や大地となる「無垢・清浄識」に直接、足を置き自由に動き回ることが出来るのじゃ。
そちに最後に法華経のお釈迦様の言葉と、その弟子たち言葉を贈る。
「自我得仏来、…、毎自作是念、以何令衆生、得入無上道、速成成就仏身」…。
「御義口伝に云く自とは始なり速成就仏身の身は終りなり始終自身なり中の文字は受用なり、仍って自我偈は自受用身なり法界を自身と開き法界自受用身なれば自我偈に非ずと云う事なし、自受用身一念三千なり、伝教云く「一念三千即自受用身・自受用身とは尊形を出でたる仏と・出尊形仏とは無作の三身と云う事なり」云云、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云」…。
「五行とは地水火風空なり。五大種とも、五薀とも、五戒とも、五常とも、五方とも、五智とも、五時ともいう。ただ一つの物にして経々の異説なり。内典・外典の名目の異名なり。今経にこれを開して一切衆生の心中の五仏性・五智の如来の種子なりと説けり。これ則ち妙法蓮華経の五字なり。この五字をもって人身の体を造るなり」…。
「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり」…。
…、
最後にわしからの言葉じゃ。「無理はせず、弛まず、笑顔で、仲間と、大道を歩みなさい」…。
(最後までお読みいただき、ありがとうございました。また会いましょう!)
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