この世は差別だらけの世界?
お師匠様、この世は差別だらけの世界と言うことでしょうか?
そうじゃ。何か問題があるか?
縁起で成り立っている生命は、そもそも固定的な自性というものは持ってなく、仮に付けられた一時的な仮の名前でしか表すことしか出来ず、だからこそ生命を表す言葉は「中道」であるとしか表現できない。
例えば人で考えると、その人自身の本質は何も変わらないが、小さい時は「子供」、大きくなると「大人」、結婚して子供が生まれると「親」、孫が出来ると「おじいちゃん・おばあちゃん」…に様々に呼び名が変わって、立場や役割が常に変化して行く…。
このように、縁起によって成り立つこの世界では、皆が同じく等しいということはあり得ない。各々が異なる立場や役割が求められ、互いに鏡のように写し合い、変化・展開し、成長・発展して行くようになっている。
この事は、悪い意味での「差別」とか「不平等」とかの言葉は使わない。
逆に、あらゆる生き物は、「中道」(成長・発展途中の生命)の法則と峻厳な心の因果律の下、公平・平等に扱われ、各々の善悪の業により、立場や役割を変えながら互いに切磋琢磨するようになっとるんじゃ。
お師匠様、この世を造り出す己自身の心の境界は変えることは出来るのでしょうか?
当然じゃ。そのためにこの法門を説いておる。
十種の心の境界「地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界」はそれが顕在するかは別だが誰人でも持っている。
また、この十種の境界其々にさらに十種の境界がある。
いわゆる「地獄界の菩薩界」とか「菩薩界の地獄界」とかじゃ。
ここで、確認しよう。本来この「一念三千」の法門は、各々の過去世から積み重ねて来た心の癖、いわゆる境界を高めるためにあるのじゃ。
この一念(奥底の願い)によって、様々なこの世(三千世界)を造り出すことは簡単に出来る。
それはまさにそのまま、今、そちが体験しているこの世界そのものがそちの一念が造り出したものじゃ。
しかし、誰人にも心の奥底に尊極の「宝珠」を持っており、その人の心の成長・発展を促している。
だから誰人にも、意識しているしていないの違いはあるが、心の奥底には心の境界を高めたいと望んでいるのじゃ。
今ここで「一念三千」の法門を整理してみよう。
心には、地獄界から仏界までの十種の境界、それにさらに十種の境界を含んだ百種の境界がある。
その百種の心の境界は、①「各々の心身による差別」、②「グループによる差別」、③「環境による差別」ある世界を造り出す。
そして、その心の姿は、目に見える①「相」、目には見えない②「性」、そして両方の性質を合わせた③「体」、目には見えないが周りに影響を及ぼす④「力」や⑤「作」(作用)、目に見えたり見えなかったりする⑥「因」、⑦「縁」、⑧「果」、⑨「報」、そして観る人の境界によって見方が異なる⑩「本末究竟等」の十種の形で存在する。
要約すると「この奥底の心は百種の境界を造り、その境界は三百の世界を造り、その姿は三千の形で存在する」ということじゃ。
お師匠様、この三千の世界を造るという一念についてもう少し詳しく教えてください…。
(次回:「一念について!」)
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