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本末究竟等…!

ここで「本末究竟等」について説明を加える。


分かりやすくいえば、物事の始めと終わりは行き着くところがすべて一貫して同じと言うことじゃ。


つまり、苦しみの生命と持つと言われる怒りの心の者は、「相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等」すべての姿が「地獄界」と言うことじゃ。


この心というものは、目に目える姿や目には見えない姿となって現れる。


普通ならここで心の境界として、怒るは地獄、貪るは餓鬼、愚かなるは畜生…と「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏」の十界論が始まるだが、わしは違う。


よく考えてみなさい。今の時代のこの世の中で、よく怒る人皆が本当に地獄界の心を持った人だと思うのかを…。


わしはそう思わない。それぞれが生まれた環境や親子、上司・部下などの関係でもって慈悲の心(菩薩界)でもって発現された心かも知れない。


例えば、この心が「利己心」に満ち溢れている人をイメージしてみなさい。


そのような人が相手から嫌われるような馬鹿みたいに怒ったりすると思うか?


するわけない。こういう人はだいたい、自分の胸でいくら儲かって得するかを珠を弾きながら、目を細め、甘いことばを口にしていよう…。


そして、この人たちはだいたいが、生まれたときから経済・地位・文化的環境がよいので、高学歴、容姿端麗、権力、信望がある。


誰も文句など言えやしない。そもそもそのことを気付かないので喜んで付いておる…。


穏やかなるは「人」の境界と言われておる。穏やかで、人の話にきちんと耳を傾け、今の法律のルールに従って生きているならばまあ問題はないじゃろうが…。


心の境界や価値については、次回に話すとして、「本末究竟等」の話に戻ろう。


この「本末究竟等」の言葉には「物事の始めと終わりは行き着くところがすべて一貫して同じ」の以外にもう一つ意味がある。


それは、どのような境界にあっても、生命の心の面から観れば究極的には同じ、等しいと言うことじゃ。


また、他の人には見えない心の奥底の一念が何を本当に願っているかによって、その人の住む世界を造って行く…。



(次回:「心の境界と価値!」)


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