一人ひとりの心にある尊極な宝珠!
もっと分かりやすく言えば、人の心が鏡のような特性を持つものであることを知って、自分の心の癖が反射された鏡の面を観て、自らの心の境界を知り、それを磨くことじゃ。
そして、その自らの心の境界の成長を願う志と、高めた境界を己の銀幕とし、縁を持った相手を写し出し、清浄・無垢の心がもたらす「希望」、「勇気」、「光」を与えるのじゃ。
それには、この心の奥底には、誰人たれども分け隔てのない清浄・無垢な生命の心が宿っていることに気づくことじゃ。
誰人たれども、この心の奥底には、永遠に損傷されることのない尊極な生命の心が宿っている。だから、それを傷つける者には物理の世界の反作用のように我が身にそよまま跳ね返ってくる。
心の癖とか、善・悪の業というものは、結局は己が過去世から積み重ねてきた身・口・意の三つによる行為がそのまま我が身に跳ね返ってきたものだということじゃ。
このような喩え話がある。そちも聞いたことがあるじゃろう。
昔、ある男が地獄と極楽へ見学に行ったそうじゃ。男が最初に地獄へ行ってみると、そこはちょうど昼食の時間で食卓にはご馳走がずらりと並んでいたそうじゃ。
しかし、地獄に居る者たちは皆が痩せてきる。不審に思った男がよく見ると皆が手にしている箸が1メートル以上もあった。
住人たちはその長い箸を必死に動かして、ご馳走を自分の口へ入れようとするがとても口に出来ない。
とうとう、イライラして怒りだす者や隣の人がつまんだものを奪おうとする者が出てきて醜い争いが始まった。男はそこを逃げ出し、次に極楽へ向かった。
極楽に着いたら、ちょうど夕食の時間だった。
ここでも同じように食卓にはご馳走がずらりと並んでおり、そこにいた人たちも長い箸を手にしている。
しかしそこでは、それぞれの住人が長い箸でご馳走をはさむと、それを自分の向こう側の人に食べさせ始めたのじゃ。
それを食べた者も「ありがとう」と言って、今度は相手に同じようにお返しする。
地獄とは正反対で、ここでは皆がふくよかな姿をしており、互いに相手を思いやり、感謝しながら食事を楽しんでいる。
どうじゃ。分かったかな?
大切なことは、人は生まれた時から長い箸しか持ってない。そして人の心というものは、この長い箸を使ってしか互いに幸福になれないということを知ることじゃ。
それはには、心の世界、構造・原理をきちんと理解することが大事なのじゃ。
この世に存在する一人ひとりの心の奥底には清浄・無垢な生命の心が宿っており、それはこれ以上に貴重なものはない尊極な「宝珠」のような心である。
そのことが理解できたのなら、これからは自身や相手の「宝珠」のような心を傷つけることがないよう気をつけて生きなさい。
(1部「一念とは(心の構造・原理)」終了、次回から2部「三千とは(心の存在・境界・環境)」へ続く)
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(次回:「心の存在形式」)
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