02話 異形
音の正体が気になりそれを見たいのだが、振り向けないでいた。
それはまるで背中を巨大な舌でゆっくりと舐められている。だらだらと沼の泥が頭上から降り注ぎ全身に纏わり着いていくような気持ちの悪さに全身が自分の体ではないかと思うほどに重く感じる。
何故か…。
それは後にある何かによるものもあるだろうがそれだけではない。自身の持つ危機的感覚、生命本能の感覚たちが思考と意思に警告を鳴らしているのだろう。
だが、その警告を無視して首を少し動かして音のした先を尻目に見る。
見る先はリビングと玄関、そして二階への階段を繋ぐ廊下への扉のはずなのだが、目に映ったそれは扉ではなかった。
そこにあったのは周囲に黒い煙、靄が漂いそれを纏う歪な黒い楕円形の球体が宙に浮いていた。
何だあれは。球体…いやあれは穴か?
球体の奥から泥が沸騰しているようにゆっくりとグツグツ噴き、グッと何かが出てこようとしているのか蠢き突っかえているように音が鳴りその穴の縁が波を起こしながら徐々に大きく広がっていく。
すると穴から幾つかの折れ曲がる青白く細長い棒が出てくる。その棒は十本あり動きや見た目からして人間のモノではないが指であることが分かる。
出てきたその両指がまるでピアノを弾く準備をするかのように滑らかな動きで穴の縁に添える。そしてその両指は先の滑らかな動きからは想像ができないように痙攣しているのかと思うような激しい挙動を起こしながらその穴を無理やり広げ開けようとしていた。
————————!
この世のモノではないと思う、鼓膜を破りそうな程大きな音量の悲鳴の様な音が鳴り響いた。
きっと音を聞いただけでは何の音なのか全く分からない。だが見たことによりその音が何の音か言葉で説明することはできる。
その音の正体は世界の悲鳴だろう。世界に開いた小さな穴。それを破り、引き裂くように無理やり開いた事により生じた音。
音が暫し鳴り響き、そこにあるのは巨大な人の口を縦に今にも裂けていきそうに縁に幾つもの亀裂の入った巨大な穴。
何がこれから起こるのか…そんなこと誰だって予想がつく。穴を開いた何かが出てくるのだろう。
広がった穴から靄を纏う巨大な何かが出てくる。
それは恐らく足なのだろう。
その出てきた巨大な足が床に着こうと床に触れた瞬間、ジュワジュワと泡を立てて煙を上げ消化されたように穴が開き泡が消えたところが焦げたように真っ黒染まっていた。
床下の地面にようやく足がつき穴の奥にいる何が上半身と頭をゆっくり出していく。
出てきたそれを一言でいうのであれば異形が最も相応しいだろう。
それは毛の生えておらず、二本足で直立するその巨大な足は、歪な肉付きをしており何度も酷く捻れ細く今にも折れそうな膝で鳥類の足のような逆関節。そして足の付け根から首掛けて見えるそれは肉体というよりは植物のようで、曲骨から水落までに穴が開いているように隙間を開け、その上で腰から生える木の幹のような物が二本交わるように一度絡まっており、そこから人に近い肉体の形状を取り戻している。
腕は人のような形はしているが鬼のように強靭そうに太く、両肩と両肘から腕と同じほどの長い角が生え、頭部は人の形を多少保ちながらも目や耳と至るヵ所から木の枝が生えていた。
そしてその異形はゆっくりとこちらを見る。
夢、幻でも見ているのではないかと思ったがその異形が現れてから感じるプレッシャーなのだろうか、肌がヒリヒリして痛みを確かに感じ取り現実である事を内にある感覚が伝える。
正直今にでも逃げ出したいのだが、動けずにいる。
それは得体の知れない未知の化物がすぐそばにいる恐怖で動けない言う訳では無い。
確かに恐怖に近しいものを感じているが,蛇に睨まれた蛙とはこういう事を言うのだろうな,と思考する程の余裕が彼にはあった。
獣に例えていいのかは分からないが猛獣を前にしてすぐに動き出すのはまずダメだ。獣というものは獲物が動かなければ警戒とどう襲うかと考えるが、動けば逃がすまいと即座に行動に移す。だから今は動かない事が正解だろう。
動けない理由はもう一つあり、それは逃げ道のことで動けないでいた。
まず玄関から外へ出るにはその化物を抜けて行かなければならない。だが、その異形は力士程横に大きくそれは不可能だろう。となると左にある大きな掃き出し窓と目の前にある軽く潜れる大きさの窓しかない。だがどちらも鍵は掛けてないものの立て付けが少し悪くなっている。その為開いて逃げるってしてる間にあの異形が襲いかかってくるだろう。
何か…何かに気を取られてくれれば逃げる事はできるのかもしれないが…。
そう、枝の揺れすら見逃さないようにじっと見ていると、その異形はこちらに興味が無いのかゆっくりと少し右へ顔を動かし何かを見ながらゆっくりとそれに向かって歩み進む。
こちらへと近づいてはいるものの別のものに気が引かれているなら、異形がそれを前にした瞬間に空いた玄関への道か左の大窓から抜ける事が出来る。
だが一体この異形は何を…。
そう視線だけを異形が進むその先へと向ける。
は…?
閏花はそれを見て一気に困惑した。
それは大切な御方から頂いた咲かない花の種を植えている植木鉢だ。
そう視線を向けた先に異形はお構い無しに床を突き破り一直線にそれへと歩み寄る。
何でこの異形はそれを見て進む。何でそれに興味を示している。何でそれを狙っている。何で…。
考えるも、閏花はその隙を見逃さないようもう一つの思考をしていた。
今異形はあの鉢植えにしか興味を示していない。逃げるとしたら今しかないだろう。
そう、異形が植木鉢を前に立ち止まり、バキバキと木を割れるような音を顔から立てて大きく裂け開かれた口でそれを食べようと
噛り付く。
バリ、ガリと固いものを砕き削るような咀嚼音をたて少し満足そうな雰囲気を出しながら横にいるそれを見る。
異形の目に映ったのは閏花が大事そうに守るように何かを抱え身構えてこちらを見ていた。
そう閏花が異形がその鉢植えを取り込むよりも先に横からそれを引き抜いたのだ。
なんて無駄な考えをしたんだろうな…。俺が御二方が守って欲しいモノより自身を優先する事など無いだろうに。
閏花は直ぐに開かれた玄関への道へ走り出し外へ出る。
異形はそれを見送りながら口の中にあるものを飲み込むと異形は呆然と動きが止まった。
それは疑問だった。
確かに目的のモノを取り込んだはずなのに取り込めていない。それができなかった。何が起こったのかと理解できずに固まっていたのだ。そして異形は匂いを嗅いでいるのかゆっくりと閏花が外へ出ていった方向を見て目的のモノが離れていくのが分かった。
そうして異形は理解する。
邪魔者に獲物を横取りされたのだと。
異形は体を震わせて怒りの咆哮を上げた。
■■■
鬼気迫る手際で玄関の鍵を開き蹴り開けて家の外へと飛び出す。
軽くつまんで持つ靴を放り投げ一、二歩と両方の靴に足を突っ込み、つま先を地面に引っ掛け無理やり靴のかかとをはめて履いてその足で走り出す。
玄関にバイクを置いてあったのだからそれに乗って逃げればいいのではとも思われるが、そのバイクの鍵はあの異形が出てきた時に鍵を入れていた鞄ごと床下まで踏み潰された。探す暇など無く最悪あの感じだ、消化されていてもおかしくは無いだろう。
違和感を感じ周囲に目を向ける。
その違和感とは明るさだ。
今は零時。
つまり深夜であるため外は真っ暗である。
先のとおり電柱に取り付けられている明かりがなく。唯一ある明かりは月明りのみ。だが、それでも頼りはあまりなく地面にある段差に気が付くことはできないだろう。だが、今は違う。いつもより微かに明るく何とかいつもは見えないはずのその段差が見えるほどの明るさがあるのだ。
月がいつもより明るく照らしているのか。いや、そうではない…別の何かが明るくなっているのか…。
すると、家の方から甲高く、まるで黒板を爪で引っ搔くような不快感を感じる気味の悪い叫び声のようなものが聞こえた。恐らく先の異形のものだろう。
その声を聞こえると同時に森の中へと入っていく。
あの感じだと恐らく探して追ってくるんだ、このまま見渡しの良い開けた道を通るより森の中を走る方がいいだろう。
何処まで逃げれば…。
ここから逃げる場所となるとあいつの隠れ家か…。だがここから約十キロと結構遠い。それにこの悪路だ最低でも三十五から四十分は走らなくてはならない。あいつのことだ、気が付いてこちらに向かっているだろうか。となると隠れてやり過ごすか…いや…。
そう考えていると後方から大きな音が近づいてくる。
次第にそれは間近に来ていると分かり、閏花は目の前にある木に手を付いて弾くようにして横へ飛ぶ。
その瞬間、黒く巨体の影が横へと飛ぶために使ったその木を軽々となぎ倒しながら一直線に通り過ぎた。
まぁ、そうだよな…そんな気はしていた。だけど、その巨体で出していい速度じゃないだろ…。
着地して素早く体制を建て直し進行方向を少し斜めにずらしてそれを尻目に見ながら再び走り出す。
異形は通り過ぎたことに気がついて急ブレーキをかけるが、その勢いが大き過ぎる為に上手く止まらずに行く先に立ち並ぶ木々がその巨体になぎ倒されていく。
何とか止まることができたが異形はすぐに動き出すことは無く、獲物を探すように周囲を見回した後見つけたのかジッと何かを追いかけるようにゆっくりと首が動く。
あの速度で追いかけられるとなると…。
どん、どんと大きな地響きを鳴らし跳ねるように先の巨体が木々なぎ倒しながらすぐそばまで迫ってきており、その剛腕で閏花の背後から薙ぎ払うように振る。
そのまま走るにしろ横に飛ぶことによる回避は不可能の攻撃。もちろんそれを喰らえば全身の骨が砕けるでは収まらず勢いに肉が引き裂けながら体内のモノをまき散らすことすらあり得るだろう。
すると閏花はまるでつまずいて倒れるように体を前に倒しそれを避け、倒れ切らないように地面を右手でタップし、超前傾姿勢で無理やり走りながら体勢を立て直し走り出す。
「…逃げ切るのは無理だな」
そう諦めたような事を呟きながらも閏花は走り続けた。
はぁ…はぁ…やばい…視界が…はぁ…霞む。
深い森の中を走っているために景色が変わらず何処まで走っているのか分からない。攻撃を避け進行方向がズレながらも確かに逃げ場所へとは向かっている事だけは確かだった。
捕まれば死。故に一瞬の緩みなど許されない全力の逃走。
走り続けどれくらいたっただろうか。今どこら辺なのかなど、そんなことを考える余裕など彼にはない。
呼吸は今にも死にそうに荒く。
それもそのはずだ。
彼は休むことなく十五分を全力で走り続け、十秒に一度くる攻撃を避けているのだ。
しかもその攻撃は、異形に獣のような狩猟脳があるかのように避け難い攻撃ばかり。それ故に何度も攻撃を無理やり避けたことによる擦り傷や受け身による変色と腫れが酷い。
そして薄々どこかで感じていた。今なお逃げ続けられているのは恐らく、異形が狩りという遊びをしているからではないかという事を。
だが彼は一切その足を緩めない。それは恐らく少しでも緩めてしまえばその足は肉体が止まり一切動かなくなると、脳による思考をしなくても彼の内にある感がそう教えている。
だが異形に彼の肉体の事情など知る必要などなく次なる攻撃と距離を詰めるように足音を鳴らす。
次は…何処から…。
足音がするのだからその方からくる。そう考えるのが当たり前だが、長時間の疾走により耳の閉塞感が起こり聞こえづらくなっていた。
そう周囲へと意識を向けると、異形が背後から次の攻撃を仕掛けていた。
それも今までのように無理やり避けようとすると。
一瞬視界が真っ暗になった。
あ?
酸素不足により意識が途切れたのだが、どうやってか彼はすぐに意識を覚ましたのだ。
だが、何が起こったか彼は理解できない。
思いにもよらなかったその一瞬の出来事。その為に回避は乱れ異形の指先が閏花の左肩を引っ掛けながら振り切り、閏花は薙ぎ飛ばされ、幾つもの木々を抜けた先に立つ一本の木に叩きつけられ地面に倒れた。
痙攣をしているような不規則で空気が抜けるような過呼吸で、上手く呼吸ができないでいた。
だが、閏花は苦しみながらも何とか意識を保つ。
何で俺は生きてる…。あの攻撃だ…叩き付けられた衝撃で全身の骨が粉々になって肉が破裂してもおかしくはなかった。
そう重い首を動かし受けた左肩を見ると、そこに左肩は愚か腕、指先までが無くなっており、徐々に大きく広がっていく赤黒い血だまりが見える。
肉が裂けたことにより少しだけ投げ飛ばされる勢い乗り切らなかったのか…。
運が良かった…だが…。
止まってしまった…。
両足はもう動かすことはできないだろう…。
動くとすれば右腕と首より上が少しくらいか…。
ゆっくりと首を動かしその先を見ると鉢植えが割れ中身をぶちまけて転がっていた。
もう、流石に無理だな…。
そう心の中で呟き閏花はゆっくりと瞳を閉じる。
重い足音ゆっくりと鳴らしながら異形が目的のモノが飛んだ先へと歩いて行く。
その余裕は目的のモノが動いていないと分かっているために急ぐ必要が無い。そう目的のモノが目の前に立ち並ぶ木々の先にあると邪魔なそれをなぎ倒し進もうとすると。その進む足が急に止まった。
異形の目に映ったそれは右腕と首でこちらへと、いや異形との間に割れて落ちている鉢植えへと這いずり寄る閏花の姿だった。
それを見て異形はあの不協和音のような気味の悪い声でそれをあざ笑うように高々に声を上げる。
だが、閏花はそれが聞えていない、そもそもそこに異形がいることにすら気が付いておらずただ動く右腕と首をうまく使い微かに少しずつ這い進む。
笑い満足したのか再び異形歩みを進める。
どうしてこちらへと来る。
意識がもうろうとしながら進んでいると、何処から知らない恐らく女性の声が聞こえた気がした。
こちらへ…?俺が進んでいる…頂いたあの種の方…。あの種が喋っているのか?とうとう幻聴が聞こえるようになったのか…。まあこの際だ。答えるとすれば花の種を守るためだろうか。
それは何故?
あの御二方にお願いされたから。
なぜその願いを聞く。
生きる目的などなかった俺にそれを与えてくれたから。それが俺の生きる目的だから。だから俺はどんな理不尽なことだろうが、この命が尽きるまでは絶対に諦めはしないだろうな。
今はその守る力も無いのに?
…ああ。
そう。
その声が遠のくと、少し呼吸が回復したのか視界が薄っすらと治っていく。
だが、目に映るそれは最悪の光景であの異形が種を挟み、死に掛けの閏花にトドメを刺そうとあの剛腕を振りかぶっていた。
クソ…。
そうニヤけたような口をした気に食わない異形顔を見ながらも、まだ諦めはしないとその右腕を届かぬ種へと伸ばす。
そしてそれに終わりをつけるように異形がその拳を振り下ろす
その瞬間、世界が止まった。
いや、止まったような気がした。
その原因があるとすれば閏花の目に映ったそれが答えだろう。
それはいつの間にか現れ立っていた。真っ白な肌で眠っているように瞳を閉じた人型の子供様な、とても異質で異様なナニカが。
髪は真っ黒でセンター分けをしながらも、センターから左目の下を通り左の髪にまとめられ、頭上から足先付近まで伸びており、その分けられた二つの毛の束は異様なまとまり方をしている。
服なのか真っ黒で古くボロボロなフードのあるローブを身に纏っており、それにつながるようにその背後の異質な黒い木のような柱が地面から生えるように立っている。
その柱の上には気味の悪い渦巻く球体。中心には脳みそのようなものに包まれた一つの瞳。球体から柱を伝って地にドロドロとした液体があふれ、床を深い漆黒の沼に染めながら、そこから触手のような何かが蠢き球体へと吸い込まれている。
それが原因なのか世界が先ほどと比べて一段と暗くなっていた。
閏花は何かを感じていた。それはきっと恐怖だろう。だが目の前の光景に対してではない。むしろその異質な黒い物体達からは何も感じないのだ。
そこにいるはずの何かはそこには無い、存在しないように、だが視覚的には何かがそこにあるという情報が脳内で激しく交差する。何が何だか分からない、理解ができないという混乱。そう湧き出る分からない、未知という恐怖である。
そこにいる存在は人でも幽霊や怪異、魔獣、きっと神でもない。知らない何か。
一体何なんだ…これは…。
先程まで動いていた右腕が限界が来たのか全く動かない…いや、もしかして既に自身は死んでいるのではないかと思う様に視覚以外の全ての感覚が感じられなくなっていた。
目は既に動かすことができず目の前の人型のナニカを強制的に凝視させられている。
そんな状態だが、恐らく俺はまだ死んではいないのだろうか。その子供を挟んでそこにいる異形も、金縛りにでもあっているよう拳が震え動くに動けない状態なのが見て分かる。
するとこちらに気が付いたのか、人型のナニカはこちらを向き閉じていた目をゆっくりと見開く。
その目は酸化した血のようなドス黒い黒と真紅のような赤が混ざった、とても深く冷たい瞳だった。
それでもやはりその何かからは、一切何も感じなかった。
ナニカは閏花に向かって伝えるようにゆっくりと口を開く。
「私はーーーーーー。ーーーーーーーーより創られたモノ」
その声は先程聞こえた声だった。
何か喋ったが、変なノイズのせいで重要なことが聞き取れなかった。
「千の時を持って顕現した。これより伝えることを忘れるな。
一つ、既に願いは受けた。
二つ、願いの変更は可能である。
三つ、この三百六十六の虚ろ夜 ――の存在達から守り抜け。
四つ、常に栄養を与え続けよ。
五つ、境界の外へは出られない。
六つ、終わりし時に摘み取れ。
七つ、決して失ってはならない。
以上を伝えここに契約を果たす」
千の時、虚ろ夜…摘み取れ?一体何を言っているんだ。
疑問を口にしようとするも問答無用というように、やはり口が一切動く気がしない。
「…ソレは本来あってはならないもの。そしてこれはおまけだ」
そうナニカが一方的に伝え終え瞳を閉じると地に満ちた泥と生えていた背後の柱のようなものが服へと吸い込まれるように、その場にあった異様な気配と一緒に消え、世界暗さが戻り、子供姿をしたナニカだけがそこに残された。