彼の思い出
「レイフ、お前また差し入れ断ったのか?あれぐらいもらってやればいいのに」
「エマに勘違いされたくないんだ」
「おお出た"エマ"!お前本当にあの人が好きなんだな」
「勝手にエマを呼ぶな」
「うわ面倒くせぇ!」
軽口を叩く同僚の騎士をかわし、レイフは今日の勤務を終えるべく詰所へと急いだ。
今日は特別な人に会う、特別な日だ。
似合わなくても、釣り合わなくても、レイフにとってはただひとりだけ。
他の誰かなんてただの一度も考えたことがなかった。
レイフ・エスコラは愚鈍な子供だった。
貴族然とした美しい両親と二人によく似た美しい子供たち。絵に描いたような幸せな家に三兄弟の末っ子として生まれた。
しかし、幼い日のレイフは幸せではなかった。
両親も兄弟も優しく、誰の目にも幸せな子供だっただろう。ただ、あの頃のレイフにはそれを受け取るだけの資質がなかった。
エスコラ家の三兄弟はよく似た顔でみな美しく、まるで天使のようだと社交界デビューなどまだまだ先の幼い頃から親戚中の話題だった。
今もよく覚えているのは親戚一同が集まった結婚式でレイフを嘲笑う女の子達の声。
──「同じ顔ならどれでもいいと思ったけれど、これはちょっとね」
レイフはエスコラ三兄弟のハズレ。社交的で快活な兄達と違い、内気で人見知りで頭が悪い。少なくともレイフはそう思っていた。
その頃のレイフは家族や屋敷の使用人のような気心の知れた相手と以外、ろくに会話ができなかった。目の前に人がいるとただそれだけで緊張して、何か言おうとしても喉がきゅっと絞まって言葉が出ない。どうしようどうしようと考えるうちに頭が真っ白になって、さらに何も話せなくなってしまう。
両親は兄達と比べて極端に口数が少なく、会話の最中にたびたび言葉を詰まらせるレイフを見て発育の遅れを心配したほどだ。
人の視線が怖いのに容姿のせいで注目され、容姿だけはそっくりな兄達と比べられて。そして皆レイフに落胆する。
こうした経験のひとつひとつがレイフから言葉を奪っていった。エマと初めて会った頃、レイフは元々の性格に輪をかけて無口な子供になっていた。
両親や兄達はそんなレイフを心配し、気にするな、レイフはレイフでいいんだと繰り返し励ましてくれた。両親も兄達も使用人も、家の中は皆優しい。家族に対してすらすっかり口数の少なくなってしまったレイフをそのまま受け入れてくれる。嫌なら屋敷から出なくてもいいと言ってくれる。
だけどそれは出来の悪い子どもを庇護する親鳥のような愛だ。一方的に与え、何も求めない。何も期待しない。ただ健やかであればいいと赦しに満ちたなだらかな愛。
上手く喋れない自分を責められるのは辛い。しかし、出来ない自分のありのままを許されると閉塞感に胸が詰まった。
この気持ちを何とか伝えようと口を開いても喉の奥に石を詰め込まれたように声にはならず、言葉が、思考が、滑り落ちていく。おれはずっと、いつまでもこのままなのか。決してこれでいいと思えない自分を丸ごと肯定されるのは、レイフの未来が闇に閉ざされたようなおそろしい気持ちにさせた。自分を傷つけるものなど誰もいないはずの部屋の中で少しずつ心が押し潰されていく。
レイフはずっと、出口のない焦燥の中で途方に暮れていた。
優しく閉ざされた世界の中で日々に、自分に倦んでいたレイフの遊び相手として屋敷に呼ばれたのが隣の領地を治めるディンケル家の兄妹だった。
兄のヘルマン・ディンケルも穏やかな性格でレイフに優しく接してくれたが、やはり年の近いエスコラ家の長男次男と一緒に外で遊ぶことを好んだ。そのため、必然的に妹のエマがレイフの相手をすることとなった。
最初、エマも本当はレイフなんかより兄達と遊びたかったのではないかと思い、ここにいることはないとたどたどしく伝えたが、持参した本を見せられてレイフは深く安堵した。
二人は大きなソファの端と端に座り、静かに本を読んで過ごした。エマの視線は膝の上の本だけに注がれていて、レイフを不躾に値踏みしない。ただそれだけのことが驚くほど心地よかった。
それからディンケル兄妹は月に数回エスコラ家を訪れるようになった。おそらくレイフのために両親が無理を言ったのだろう。それでもレイフはエマとの時間が嬉しかった。
レイフとエマはいつもそれぞれに本を読んで過ごす。その中で日に何度かぽつぽつと言葉を交わし、少しずつ相手のことを知っていった。
エマの方が1つ年上であること、甘いお菓子が好きなこと、王女さまに憧れていること。そして、エマがいつも読んでいる本が隣国の言葉で書かれていること。このことはレイフを非常に驚かせた。エマは優しくて女の子らしくてとびきり賢い、おおよそ完璧な女の子だったのだ。
そんな彼女が本当に自分と一緒にいて退屈ではないのか。
心配で心配でたまらなくなったレイフはエマの来訪が両手に届こうかという頃、意を決して切り出した。
「エマは……エマは、おれが喋らないの、嫌じゃないの」
ぼそぼそと尋ねるとエマは前を向いたまま答える。
「そうね。私もレイフと同じだから」
理解できないと首を傾げるレイフにエマは続けた。
「あのね、うちにはよく隣国からお客様が来られるんだけど、私は言葉をよく知らないから……ううん、挨拶なんてとっくに知ってるはずなのに間違ったらどうしよう伝わらなかったらどうしようって怖くて、恥ずかしくて、何も言えなくなってしまうの。『こんにちわ。エマです』ってたったそれだけが言えないのよ」
レイフよりひどいかもしれないわ、とエマは笑う。優しく微笑む頬が夕焼けに染まっている。
「同じ……」
「そうよ。多分こんなのよくあることなんだわ。お父様もスラスラ話せるようになるまで苦労したって言ってたし」
「……うん」
「だから練習するのよ。本を読んで、口に出して言ってみるの。たくさん練習すればそのうちきっと平気になるわ」
どくどくと高鳴る胸を押さえながら祈るように尋ねる。
「…………おれにもできる?」
「できるわ。当たり前じゃない」
エマはけろりとして言った。
それはあまりにも当然の、ありふれた出来事としてレイフの耳に届いた。
賢いエマが言うのだから間違いない。できる、レイフにもできるのだ。きっと、当たり前に。
「おれ、やる」
「一緒に練習しましょう。会えない日もちゃんと一人でやるのよ?」
レイフの心臓は相変わらずうるさいくらい音を立てて走り続けていた。顔に熱が灯るのがわかる。
言葉にできない、手に余る感情に胸を塞がれたまま浅い呼吸で迷い続けるレイフの手を引いて、エマはあっという間に薄闇を抜け出してしまった。
冷静に考えれば、隣国の言葉を勉強するエマと自国の言葉ですら上手く話せないレイフが同じわけがない。
それでもレイフはやっと射し込んだ淡い光に縋りつきたかった。エマと手を繋いでどこか素敵な場所へ行きたかった。
あの瞬間、エマはレイフの神様だった。
その日以降、レイフはできるだけたくさんエマと話すよう心掛けた。はじめはお互いの読んでいる本の内容をぎこちなく教え合うだけだったが、次第に日常のこと、家族のこと、好きなもののこと、色々な話をするようになった。大きなソファの端と端にいた二人の距離もいつの間にか近付いていた。
「レイフ、おいで。練習しましょう」と隣に招いてくれるエマの声が、その涼しげな目元が優しく緩む瞬間が、たまらなく好きだった。
自然と家族と話す内容もエマのことばかりになっていった。レイフは華やかな容姿を活かし積極的に社交の場に参加する母の協力を得て王女さまの噂を収集した。もちろんエマに教えてあげるためだ。
エマは女の子達の憧れの的である王女さまをキラキラした瞳で褒め称えながら「レイフもエリーザ様が好きなのね!」と喜んでくれた。でも、レイフは別に王女さまを好きなわけではなかった。花でも人でも何でもいいからエマの好きなものの話がしたかった。
兄達は少しずつ明るくなっていくレイフに安心したのか、エマを待つレイフを飼い主を待つ犬のようだとからかったり、自分達よりエマとの方が姉弟みたいだと少し拗ねた様子を見せたりした。
エマがいない日でも、レイフの呼吸はずいぶん楽になっていた。
ディンケル兄妹の来訪はエマと初めて会った9歳の頃から約3年間、両家が本格的な跡取り教育を始める頃まで続く。
ある日、父であるエスコラ伯爵の執務室に呼び出されたレイフはもう今までのようにエマと会えなくなると知らされて顔色を失った。
しかし、同時にもたらされた知らせがその後のレイフの人生を決める。もともと三男であるレイフは将来この家を出て自力で生活しなければならない。エスコラ伯爵はレイフに騎士を目指すことを勧め、「お前がエマちゃんに相応しい男になったら私から子爵に二人の婚約を申し込んでやろう」と約束した。
その日からレイフは剣の稽古を始めた。伯爵家の護衛に手ほどきを受け、初めて構えたそれは驚くほど重かった。まだまだ今のレイフには足りないものだらけだ。体力も、剣の技術も、勇気も。エマの隣に立つために必要な何もかもを持っていない。それでも、レイフの進む先には一筋の道が見えていた。
エマとは手紙のやりとりを続け、時折レイフの方から会いに行った。
会うたびに女性らしくなっていくエマにレイフの視線は釘付けになって、あの美しい彼女を手に入れるためだと思えばますます日々の稽古に力が入った。エマと積み重ねた幼い日々のおかげで愚直に努力することは得意だった。
そして、15歳になったレイフは騎士見習いとして王都の騎士団に入団する。王都は領地から遠く、手紙を届けるだけで何日もかかるようになってしまったが、誕生日や夏至祭、新年の集まりなど大事な日には一番にエマに会いに行った。
この頃エマはエスコラ伯爵領やディンケル子爵領のある南部で一番大きな学園に入学した。エマから将来文官になるつもりだと聞いた時は驚いたが、昔から誰より賢いエマにはぴったりの仕事かもしれない。それにエマほど優秀ならきっと王城勤務になるだろう。そうすればまた一緒にいられるのだ。
まだ見ぬ未来に思いを馳せて、レイフはマメだらけの手に剣を握った。
たった1歳の年の差のせいでエマのデビュタントに立ち会うことはできなかった。
それでも、どうしても特別な日のエマを見たいレイフは子爵家に花を届けに行った。デビュタントの白いドレスに合わせた大きなブーケ。エマに似合うものをと意気込んで選んだつもりだったけれど、中心で咲く百合の花に顔を寄せ「きれいね」と笑うエマが夢のように可憐でどんな花も引き立て役にしかならなかった。
茹だる頭で目に焼き付けたエマの笑顔を何度も何度も繰り返し夢に見た。
翌年、自分のデビュタントにはエマに頼み込んでパートナーを務めてもらった。
天にも昇る気持ちでエマの髪と同じ赤茶色のリボンで髪を結った。俺のパートナー。俺のエマ。幼い頃は弟でも犬でも隣にいられるなら何でもいいと思っていたけれど、腕を組んで吐息すら聞こえる距離にあるエマの顔をちらりと伺えば、やはりこの形が必要だとはっきりわかった。
他の誰にもこの場所は譲れないと終始エマに張りついていたら、「お前のデビューと言うよりエマの番犬だな」と兄達に笑われた。それでもエマの細い手を離すわけにはいかなかった。
少しでも目を離せばその隙に誰かがエマを見つけてしまう。自分よりも彼女に相応しい男がこの広間にいるかもしれない。そう思ったら気が気でなかった。一番綺麗で一番賢い俺のエマ。できる限り早く、持ちうる限りの力で、エマに釣り合う男にならなければ。
◆
王国騎士団の一員であるレイフ・エスコラは国境の砦で終戦を迎えた。それがもう半年前の話である。
すっかり長くなった髪を結びながら、殺風景な部屋の中で白い息を吐いた。
終戦の報せが届いたあの日、砦ではささやかな宴が催され、やっと王都へ帰れる、家族への土産は何がいいかと騎士達は喜びに沸いていた。
しかし、現在まで帰還命令は下されていない。
急激に人や物の行き来が活発になったことによる国境周辺の治安の悪化は深刻だった。今日から仲間だと言われても人はすぐには変われない。良からぬ物を持ち込もうとする輩も後を立たない。
状況は少しずつ落ち着いてきているが、辺境軍の手に負えるようになるまでまだもう少し騎士団の存在が必要だろう。
無骨な格子のはまった窓から外を眺めながら、遠い街にいる大切な人に思いを馳せる。王都とも故郷とも違い、ここの冬は長い。
成人を迎えると同時に正騎士昇格試験を受け、合格したレイフはすぐにこの国境の砦へと派遣された。それから2年以上エマには会っていない。手紙は年に数度だけ、エマと自分の誕生日や新年の挨拶の時にやりとりをしている。今の環境ではそれが精いっぱいだった。
エマは無事に城勤めの文官となり、忙しい日々を送っているらしい。そんな中でもレイフを忘れずにいてくれることが嬉しかった。この状況下でエマの語学力はさぞ重宝されていることだろう。
正騎士という立場を得て、真面目に任務をこなしてきた。周囲の評価も悪くない。入団したての頃はまだ少し人見知りで無口な少年だったレイフも先輩の騎士達に揉まれ、集団生活をする中で否応なく社交性が身に着いた。
今の自分でエマに会いたい。きっとエマは自分の想像の何倍も素敵な女性になっている。もしかしたらレイフにはまだ手の届かない相手かもしれない。それでもエマはレイフの成長を喜んでくれるだろう。
エマに、会いたい。
レイフは毎夜、明日もエマが誰のものにもならないようにと祈りながら目を閉じる。
密なやりとりができない今、エマの喜びを知ることもエマの悲しみを慰めることも自分にはできない。それが何より苦しかった。レイフの喜びも悲しみも過去も未来もエマとともにある。それをどうか形にしたい。一方的な祈りではなく、二人でする約束がほしい。
渇望する心に反してこの地の冬は長く、春はまだ遠い。
ぎゅっと目を瞑り、瞼の裏にいる人を脳に焼きつけた。
今はまず騎士としてこの地で与えられた任務を遂行するのみだ。そして、一刻も早く平穏を取り戻し、王都へ帰還する。
帰ったらまずは父親に手紙を書いて求婚の許可を取る。
それから百合の花を持ってエマに会いに行こう。
求婚と言えば薔薇と相場が決まっていたとしても、エマが綺麗だと言った花は百合なのだ。
貴族の縁談は家同士の契約でもあるが、一介の騎士であるレイフの結婚に何よりも必要なのはエマの承諾だ。それ以上に大事なことなど何もない。レイフは自分自身の力でもってそれを手に入れたかった。そのためだけに走り続けてきた。
エマが受け入れてくれなくても、何度でも跪いて愛を乞うつもりだ。エマが絆されてくれるまで、何度でも何度でも。情けなくても構わない。
だって昔からエマはいっとう綺麗でいっとう賢くて、いっとう俺に甘いのだ。