嫉妬の話
なんでこんなものが人気なんだ、と思うことがある。
この感情はタイトルのとおり嫉妬であり、ハッキリ言って論理的ではない。
人気なものには理由がある。それが分からないのは俺のせいである。良い部分を見ようとしていないのだ。
しかしそういった感情が生まれるのを止めることはできない。生物は感情を持つ生き物である。なかでも嫉妬は自分にとって大きな利益を見逃さないための感情だ。
「なんであいつはいい思いをしているのに自分はそうじゃないんだ」
こういう感情の無い人間は多分いない。そして嫉妬があるから、頑張ろうとか努力しようとか見返してやろうとか思うわけで、そういう意味では嫉妬は別に悪い感情ではない。一見マイナスな感情をプラスに持っていけるかどうかが大事で、それが人間の重要な部分なのだ。
という言い訳をしておいて本題に入ろう。
なんでこんなものが人気なんだ、と思うことがある。
最も自分と世間との乖離が大きな例をあげると、「鬼滅の刃」がそうだ。あまりに話題になるのでアニメを2話まで見たところ、全くハマらなかった。3話以降は見る気になりませんでした。好きな人ごめんね。
なぜそこまでハマらなかったかと言うと、まず、1話冒頭の兄弟愛みたいなのが気持ち悪かった。兄は弟に「よしよし」なんてしない、というのが俺の持つ兄弟像である。「北斗の拳」のラオウとトキのような関係が俺の中ではリアリティがあるというか、しっくりくるのだ。あとは「鋼の錬金術師」のエドとアルも良い関係だと思う。尊敬や愛情はありつつも、必要以上にベタベタしないのが俺の中の兄弟像なのだ。しかし「鬼滅の刃」ではいかにも炭治郎が兄弟思いの優しい好青年のような描かれ方をしており、いかにもそれが普通の日常であるかのような演出が、俺には愛情がべたついているように見えて気持ちが悪かった。
それからセリフがやたら説明的なのも好きじゃなかった。印象的だったのは、炭二郎が雪山を上っていたら足を滑らせてしまうシーンで、たしか炭治郎が「足が滑って落ちた」的なセリフを言うのだ。「いやそんなん見ればわかるじゃん」と思った。
あとその後強い人が現れて「生死を他人に委ねるな」みたいなセリフを吐いたあとに、炭二郎がいきなりジョセフ・ジョースターばりのトリックで強い人を殺しにかかったのも疑問符だった。「こいつ優しい顔して初対面の他人を殺す算段を冷静に立てられる奴じゃん」と、ちょっと引いた。
と、そういう感想があって、俺は「鬼滅の刃」にハマらなかったのだ。好きな人はごめんね。
去年実家に帰った際、幼稚園児の甥と姪がとんでもないほど鬼滅の刃にハマっていた。たぶんストーリーなんかこれっぽっちも理解していないと思うが、主人公がかっこいい技で悪者をやっつけるという構図は幼稚園児でも分かりやすいのだろう。だから好きになったのだ。あと紅蓮華を死ぬほどリピートしていた。
俺にはあそこまで彼らがハマる作品を書けないと思う。だから「鬼滅の刃」は凄いのだ。俺の感想なんか嫉妬に過ぎないのである。
さて、それはそれとして、書籍化したなろう作品について、Twitter上であるツイートを目にした。
そのツイートにはなろう上で有名らしい人の作品のとあるページの画像が張られており、「書籍化には文章力は要らない」と書いてあった。書籍化作品の内容というのは、いわゆる下ネタである。男が射精している様子がオノマトペだけで1ページにわたって書かれているのだ。
俺は「馬鹿馬鹿しい」と思った。なぜならそんなものは俺の求める面白さではないからだ。周りの誰かに自慢できる文章ではないからだ。親に教えられる書籍化ではないからだ。
しかし、リプライを眺めると「文章力は要らない」に賛同している人間が多く見受けられた。書籍化しているという一点を持って、全肯定している人間がたくさんいた。
ああ、そうなんだ、と思った。この人らにとってはこれが面白いんだ、と。
それはある種絶望に近かった。自分が面白いと思うものと世間が面白いと思うものがこんなにも乖離しているなんて、想像だにしていなかった。
なろうの購買層のメインは30~40代らしい。つまり30~40代が何のひねりもない勢いだけの下ネタを面白がっているのだ。これは俺にとって大きな衝撃だった。俺より年上なら、もうちょっと知性的に生きているものだと思っていた。俺にとってあのなろう作品は、少なくとも金を出して買う文章ではなかったのだ。
俺はいわゆるなろう作家ではない。異世界に行かないしチートも令嬢もざまあもしない。だからなろうがどういう界隈だろうとそもそも関係が無い。
しかし、人々がどういったものにあこがれ、金を出そうとするのか、ということについては興味があった。
その結果が上記の通りだ。小学生のような下ネタがもてはやされている。あまつさえ「文章力なんて要らない」という者もいる。なるほどな……、だった。
アマチュアだろうとプロだろうと、共通するのは結果を出したやつが偉いということだ。だから俺は偉くないしあの下ネタの人は偉いのだ。それは間違いない。
でも俺は下ネタへの嫉妬はしない。書けないし書こうとも思えない。だから俺の嫉妬が向けられているのは、結果を出すということその一点と言える。
すべては結果なのだ。過程や方法なぞ、どうでもいいのだ。どんな手段を取ろうとも、結果を出したものが偉い。客観的にみるとその通りだ。世の中で褒められている人間は、すべて結果を出している。
俺は結果を出していない。だからきっとあんなものにいちいち反応しているのだ。俺の嫉妬の原点はそこである。
正しく嫉妬が出来れば自分が伸びる。他人のプラスを自分のプラスに出来るようになる。
どうであれ俺のすべきは結果を出すこと、そのための努力をすること。それ以外にない。
なんかうまくまとまっていない気がするが、俺の実力なんてこんなもんだ。だから結果が出ないのだ。