文体の話
文体ほど作品の出来を左右する要素は無いと思っている。
文体とは何ぞやというと、視点である。物語をどこから見るか、どういう切り口で見るか、というのを決めるのが文体である。基本的にはここは最初から最後までぶれない。群像小説で視点の人物が切り替わるということがあったとしても、三人称と一人称がぐちゃぐちゃになったりはしないし、もしぐちゃぐちゃになると物語がわけわからなくなってしまうのでそういうことは起きないようにするのが普通だ。
ほんでこれがなぜ大事かというと、文体によって物語の見せ方が変わるからだ。映画で言うとカメラワークにあたるのが文体である。人物が大事なのか、セリフが大事なのか、描写が大事なのか、独白が大事なのか、文体によってどこを見るかが決まる。どこを見るかが違うと同じ物語であっても全体の印象は全く違うものになる。だから大事なのだ。
俺の文体は基本的にこのエッセイの通りで、この文体が最も得意とするものである。要するに一人称独白型の文体だ。これは俺が高校生のころ毎日モバゲーというSNSで毎日日記を書く習慣があったために身に着いたものだが、当時から自分の考えや感想を文章にして他人に見せるということを意図的にやっていた。それはただ楽しかったからで、そうすることによって俺の承認欲求が満たされた。
そういう経緯もあって俺は一人称独白型の文体ばかりが上手くなった。未だに描写は苦手である。だから俺の小説は人の外見や周囲の状況に関する描写が非常に少ない。かわりに、物語中での出来事とそれに関する登場人物の感想や心理状態の記述がとても多い。これは俺という人物が普段何を見て生きているかが文章に現れているということに他ならない。
「文章を読むと人柄が分かる」と言われるのは、こういったことがあるからだ。普段何を大事に見て、聞いているのか。逆に書かないものごとは何なのか。それらを見ていくと人柄というのが分かってくる。
最も人柄が分かりやすい文章の例として挙げたいのは、谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」である。これを読むといかに谷崎潤一郎というオッサンがクラシックでこだわりの強いいかにもなオッサンかということが分かるのだ。いやこれはバカにしているわけではなく、本当に「陰翳礼讃」を数ページでも読めば、彼のような強いこだわりを持たない人間に彼の代表作「春琴抄」のような耽美は書けないだろうということが分かるはずなのだ。その人間の個性を活かした小説を書くべきだ、というのを、俺は谷崎潤一郎を見て強く思う。
そういうわけで俺のような普段から客観的にものごとを見ていない人間は、三人称で物語を書くべきではないのである。普段からやっていないことを急に小説でできるわけがない。どんな小説にも求められるのは正確な記述であり、俺のような独白型人間が無理をして人の動きや表情の変化を逐一書こうとしても、大根役者がくっさい芝居をしているような記述になってしまうのである。
文章が下手な人というのは、文体を間違っている可能性がある。
訓練次第で誰でもある程度は上手くはなるけれども、文章が最初から上手い人と下手な人がいるのは、自分の文体についての理解の差があるからだと思う。普段から何を見ているのか、何を考えて生きているのか、というのが文章に強い影響を及ぼしている。下手な人は普段見ていないものや考えていないことを無理に書こうとするからメチャクチャだったり訳の分からない文章になるのだ。
文章の中身が全くないという人もいる。何千字もクソ長い文章を書いているのに、全くと言っていいほどスカスカの文章がある。これは文章が悪いというよりも、書いている人がそのままスカスカなのだ。普段から何も考えずに生きていると、論理も感情も無い文章が出来上がる。文章に人間の浅さがあらわれる。こういったことを避けるためには、普段から考えて生きていかねばならない。
上手い文章を書こうと思ったら、上手く書こうとしてはいけない。正確に書く。論理であれ感情であれ、自分の頭の中を正確に書くのが最も良い。そして出来上がった文章が自分にとって最も良い文体の、上手い文章なのだ。
別に一人称と三人称をどっちも上手く書ける必要はない。小説は技術の競い合いではないからだ。一人称も三人称もどっちも書ける作家が優秀とかそんなことはなくて、作品が面白いか面白くないかが全て。上手く書けるやり方を選んだほうが良い。
なぜこんな説教じみたことを書いたかというと、この前書いた三人称の小説を読んだら、つまらなすぎて死にそうになったからである。俺は三人称が下手だった。マジでおもんなかった。