第5話 予定通りに行かないことの方が多い
翌日、俺は作戦開始時刻である午前八時十分に間に合うように、いつもより十分早い午前七時五十分に家を出た。
学校は徒歩十五分圏内にあるので充分間に合う時間だ。俺は学生鞄を下げてゆったりとした足取りで通学路を歩く。
平和だ。実に平和だ。ぽかぽかとした四月の陽気は、昨日の一件が嘘だったのではないかと思えるほどに俺を暖かく包み込んでくれている。
ちんたら歩いていると、ポケットの中のスマホが震えた。胡桃沢からメッセージが送られて来たようである。
その内容は『今日はよろしくね!』という言葉と、例の犬シリーズの可愛らしいスタンプ『ぺこりお辞儀』バージョンの二つだ。
そうなのだ。決して昨日の一件は夢などではなかった。タイムリープしてもう一度やり直せるとかそういう特殊イベントも無さそうである。
俺は現実に引き戻されつつ、『よろしく』と簡素な一言を送った。すると、すぐに胡桃沢から犬のスタンプ『わんわんわんないとらぶ』バージョンが送られて来た。
なんだこの犬っ。可愛い見かけとは裏腹にアウトローな匂いがするな。というか、胡桃沢は意味わかって使ってんのか?
昨日の様子からすると恐らくわかっていないのだろう。意外なことに、胡桃沢はピュアな乙女という感じだったからな。
とりあえず、このスタンプの意味を誰か教えてあげて欲しい。出来れば早急に。
そうして何事も無い平和な道を進み、無事時間通りに学校へ到着。校門をくぐり、まだ人が少ない昇降口へと向かう。
「あら? 今日は早起きイモムシなのね」
不運なことに、そこには奴がいた。靴箱から上履きを取り出しながら不思議そうにこちらを見ている。
「はらぺこあおむしみたいに言うなっ。別に、そういう日もあるだろ」
「ふうん?」
訝し気に俺を見る清瀬。どこか楽しそうですらある。
ふはは、この後お前には世にも恐ろしい展開が待っているとも知らずに、よくもまあそんな顔が出来たもんだ! せいぜい俺に彼女(仮)が出来たことを知って絶望に打ちひしがれるがいい!
「なにか企んでいるのかしら?」
「うぇっ」
変な声が出た。デカレモン兄ちゃんの名曲にうぇっだけのコーラス担当で採用されてもおかしくないレベルのうぇっが出た。
こいつ、気づいているのか? 俺は普段通りのつもりだったが、こいつの目には俺がなにか隠しているように見えているのかもしれない。
さすがはストーカー容疑を掛けられている女、観察力は侮れないようだ。
「やはり怪しいわね。一体何を隠しているの? 怒らないから言ってみなさい?」
「九十九パー怒る前の全力の助走だからねそれ。あと別に何も隠してないから。何か変だと思うならそりゃお前の勘違いだ」
「そうかしら? イモムシ係の私の目に狂いはないと思うんだけど」
「生き物係みたいに言うな。なんだ? 朝からパロディフェスティバルでも開いてんのか?」
「……」
おいやめろ、ぽかんとするな。いつもみたいに何か言ってくれよ、大スベリしたみたいだろ!
「相変わらず意味のわからないことを言わせたら右に出るものがいないわね」
「それ褒めるときに使う表現だからな?」
「私は褒めているつもりなのだけど」
「全然嬉しくねぇっ!」
朝から本当に疲れる奴だ。おかげで来るべき時に向けて落ち着かせていた精神が台無しではないか。
俺は気分を切り替えるように靴箱に手を伸ばし、下履きを入れて上履きを出した。上履きを履いている間も何故か清瀬は教室に向かおうとしない。
「なんだよ」
「なんでも。ただ見ていただけよ」
「へいへい、そうですか」
取り合ったら負けだと思い、俺は教室に向かわんとする。
しかしその時、不運にも別の靴箱の列からひょっこりと出て来た胡桃沢と遭遇してしまった。
「「あ」」
お互いに顔を見て硬直。数秒の後、先に硬直時間が解けたのは俺の方だった。
「お、おはよう」
「あ、え、えっと、おはよう」
ぎこちない挨拶を交わす。
間が悪すぎた。今一番胡桃沢に合わせたくない人物が俺の隣に居る。なんで清瀬のやつ先に教室に行かなかったんだよぉ……。
予定には無い展開だが、怪しまれることを覚悟で恋人の振りをするべきか……?
「へぇ、お知り合いだったんだ? 胡桃沢さんと」
俺が対処法を考えていると、清瀬は胡桃沢にどこか刺々しい語調で言った。胡桃沢を見る視線は、何故か俺に向けられるそのどれよりも冷え切っているように見える。
「あ、ああ、まぁな」
俺は答えながら、胡桃沢を見る。
完全に委縮してるな。何か口にしようとしては居るが、言葉が出てこないようで視線を落としてしまった。
「じゃ、じゃあそろそろ教室行こっかな~」
バッドなエンカウントに堪らなくなった俺は、そう切り出して歩き出した。後ろからはきっちり二人分の足音が聞こえて来る。
二人とも付いて来るんかい。どっちかを先に行かせれば良いものを。
そのまま会話はなく、ぱたぱたと上履き特有の柔らかめの足音だけが廊下に響く。話し声でも聞こえれば幾分良かったのだが、何故か運悪く他の生徒が見当たらないタイミングだった。
最悪の雰囲気だ。二階の教室まで一分もあれば着くが、この一分は長すぎる。
それにしても、なんだってこんなに雰囲気が悪いんだ? 昨日の胡桃沢の言動から二人の間には何かがある印象は受けていたが、ここまで険悪な空気になるとは思いもしなかった。
これは恋人の振りでもしようものなら刺されるんじゃないか?
……恐らく俺が。清瀬の性格なら間違いなく俺を狙う。
一分後、そのままの雰囲気でなんとか三組の教室前まで来ることが出来た。清瀬は何も言わず教室に入ろうとする。
そこで、意を決したような息遣いで胡桃沢が口を開いた。
「あ、あのっ! 清瀬さん!」
清瀬がぴたりと足を止める。ゆっくりと振り向き、無感情な目で胡桃沢を見た。
「うっ、え、えと、あの……その……」
清瀬の様子に気圧されたのか、胡桃沢は言葉を失った。
いや、わかるよ胡桃沢。その目を向けられたら俺だって同じことになると思うし。普段のふざけたような清瀬の方が何倍もマシだわ。
マシ。ここ重要。
「……用件が無いのなら私は行くわ」
清瀬は極めて冷たく言い放ち、教室に入って行った。
取り残された胡桃沢は、きゅっとスカートの裾を握って俯いている。
「お、おい、大丈夫か?」
恐る恐る問うと、胡桃沢は顔を上げてえへへ、と不器用に笑った。
「ご、ごめんね、朝からこんな雰囲気にしちゃって!」
「いや、別にそれはいいけど……本当に大丈夫なのか?」
「ほんとに大丈夫! あ、でも作戦は中止かな……。ごめんね」
胡桃沢は申し訳なさそうに視線を落とす。
「まぁ、あの様子じゃ仕方ねぇよ」
正直、あんな清瀬を見たのは初めてだったので俺も困惑していた。
このまま作戦を続行するのは愚策だと言う他ないだろう。
「それと、これ! お弁当は作って来たから、よかったら食べて」
胡桃沢はずいっと俺の胸の前に青を基調としたランチクロスで包まれた弁当を差し出した。
「お、おう」
俺が両手でそれを受け取るやいなや、胡桃沢はじゃあねっと言って逃げるように隣の教室へと消えて行った。
弁当箱に視線を落とす。とりあえず、清瀬に怪しまれないように鞄に入れておくことにする。
まだ空席が半分ほどある教室に足を踏み入れると、数人の生徒がこちらに視線を向け、そしてすぐに友人との会話や勉強へと戻って行った。
清瀬は頬杖を突いて窓の外を眺めているようだ。
俺は清瀬の方へゆっくりと近づいていき、清瀬の視線を横切って自分の席に着席した。恐る恐る清瀬の方に視線をやると、何を思ったかじぃーっと俺を見つめている。
「あ、あのー清瀬さん?」
「なに?」
「そんなに見られると恥ずかしいんですけど」
「そう? 私は全然恥ずかしくないわ」
「そりゃ見られてるのは俺だからなっ!」
「ふふっ」
反射的に俺が言うと、清瀬は少し笑った。
「やっぱり、あなたって変な人」
「はぁ?」
藪から棒に何を言ってるんだ。変と言えばお前の方が圧倒的に変だと思うんだけど。
清瀬からはさっきまでの極寒の雰囲気はいつの間にか消えていた。くすくすと愉快そうに笑う。
「ごめんなさい、間違っていたわね。やっぱり、あなたって変なイモムシ」
「そこは直さなくていいんだよっ」
ついでに、すっかりいつもの調子に戻っていた。