父が死んだ
未だにクリスマスが近くなってくると
「あぁ 親父の命日だな。墓参りしなくちゃ」
という気分になってくる。なんだか辛気臭いことこの上ない。
それはクリスマス=イブの前日だった。俺は寝ているといきなり母親から叩き起こされた。なんでも近くの病院に入院している父親についてだった。基本的に普段、俺は母親とは会話を交わさない。それはもうこの何年間もそうだった。基本的に伝えたい要件があれば、先方に紙で書いてもらうことにしていた。昨日母親が書いてくれた紙にはこんなことが書いてあった。まだ母親から転載する許可は取り付けてないが、この際書いてしまおう。
注)これを書いているのは2014年当時であり、最近はさすがにこういう事はなくなった。
「ツキ君(ツキというのは私の名前だ)、お父さんが昨日から『しょうみない、しょうみない』、『オハカ』、『おわかれ』と言っています。おしっこがでなくて、とても辛いようです。昨日はなんとかして食事しようとしたんですが、もう(ここら辺は文字がつぶれていたので推測)咀嚼することが出来ないので無理らしい。声をだすことも出来なくなってきました。それでも無理して食べようとしてました。主治医の先生は『厳しい』といっています。多分貴方も今日お昼頃に病院に行ってくれたことと思うのだけれど、本当につらそうです。それにしても看護師さん達皆、パパ(つまり父親のことだ)に対して素っ気ない態度です。あんまり点滴もしてくれないし。どうしたことかしら?ツキ君のことを『あいつご飯食べたか?』って心配してました。明日も午前中は透析をするらしいので、明日のお昼もいってあげてね。」
母親の字は下手くそで、読みにくくて、そして涙が出た。こんなずたぼろの体になっているときにまで俺のことを心配しなくてもいいのに、とおもった。畜生、親不孝モノとかいって罵ってくれた方がよっぽど気が楽だったよ。そんな母親の手紙を昨日読んでいたので、いきなり俺の事を叩き起こしたのはまあそういう事かな、と思っていた。部屋の戸口で母は言った。
「お父さんがね、様態変わっちゃったんだって。」
「どういうこと?」
「急変したんですって」
「解った、すぐいく」
解った、といってもべつに理解した訳じゃない。頭で理解するのと、実際に心の中で納得するのは、また別の話だ。多分今俺がこんなことを書いているのも、自分のこころの中でまだ納得していない部分があるからだと思う。
母親と一緒に車で病院へ向かう。ー考えてみたら母親と一緒に車に乗るなんてこの10年間無かったことだった。車の中で母親がポツっとこう漏らした。
「本当ねぇ。『しょうみない、しょうみない』、『オハカ』、『おわかれ』って繰り返してねえ。それに時々家にいると勘違いするらしくて、『御かゆは?』とか聞いてくるの。ないわよ、そんなの無理じゃない、ここ病院よって教えてあげたんだけどね」
「俺のときには『カエル、カエル』って言ってきたよ。どういうことって聞くと、”もう病院から帰る”ってことみたい。多分もうすぐだって解ってたからせめて最後は家に居たかったらしい。俺は一応”帰るのは体が回復してから”って言っといたけどな」
「本当にねえ」
我孫子の実家から国道6号線に出て、千葉西病院に向かう。連休中の最終日で、道路上はそんなに混み合っていなかったがそんなことはどうでも良かった。冬が白かったがそんな事もどうでも良かった。早く着いて欲しいのやら、着いて欲しくないのやら。そういえば今日はクリスマスイブなんだなあ、と今さらになって気が付いた。
結局家から30分も掛からずに病院へ付くことが出来た。俺と母親は一緒に車から降りて病院の受付に向かう。それにしてもこの母親も歳を取った。もう68歳だから仕方ないのかも知れないが、背中がすっかり丸くなってセムシの様だ。母親は例によってまずトイレへいそいそと駆け寄って行く。母親がトイレを済ましている間に、俺は最早手慣れた手つきで面会用紙に必要事項を記入して、受付に渡す。患者さんどちらの病室がご存知ですか、と言われたので、大丈夫です、と答えておいた。父親はこの病院の5階側南病棟に入院していた。
病院1階のまるでロビーの様な受付で、俺は母親がトイレから出て来るのを待っていた。
この期に及んでも俺にはまだ実感が湧かなかった。多分、オヤジは今日死ぬんだろうなあとボンヤリ思っていた。バッグの中には肌のカサ付きを防止するためのクリームが入っていた。昨日見舞いに来た時に看護師さんから
「患者さん、肌荒れがキツくて、だから色々と肌にヒビが入っちゃってるんですよ。だから薬局で肌アレ防止のクリーム買ってきて下さいませんか」
と言われたので、近所の薬局で買ったものだった。暫くしてから母親がトイレを済ませて出てきたので、一緒に父親の居る病室へ向かう。
エレベータから出て父親の居る病室に行くと何やら様子がおかしい。父親のいるベッドが全てカーテンで仕切られている。母親が泣きそうな顔をしながら「パパ急変してる」と言っている。看護師さん達が俺たちの姿を見ながら寄ってきた。
「齋藤さんのご家族のお方ですか?」
「はい」
「先ほどから齋藤さん容態が急変されておりまして、一時は心停止までして。今必死で皆でマッサージしているのですが・・」
そういう会話をしていると奥の方から医者らしいのが出てきた。俺たちはその医者と一緒に周りを壁で仕切られた一室に案内された。
「齋藤さんのご家族ですね?」「はい」
「息子さんと奥さん?」「はい」
医者は自分の名前を紹介すると、早速父親の容態を説明してくれた。
「今朝、8:50位から容態が急変いたしまして。その後こちらも必死のマッサージなどをして容態の回復に努めたのですが。一旦はね、奇跡的に一時心拍が回復されたのですが、また心停止いたしまして。一般に心停止が20分以上続くと脳に酸素が送られなくなって仮に体が回復しても脳に障害が残ってしまうのですね。」
「つまり、このまま意識が回復しても脳死状態ってことですか」と俺が聞く。
イケメンで上背のある医者は黙って肯いた。
「いまは必死で看護師一同でマッサージをしている最中なんですが、未だ意識は回復されておりません。それにこれ以上マッサージをしても患者さんを痛めつけるだけでして、現に肋骨が既に2本折れているので」
そういって医者は泣きそうな顔で言葉を濁した。
俺も母親も泣きそうだった。しかし聞くことが一つあった。俺は一旦母親を外に出した。「どうしてよ?」
「いいから!」俺は母親を無理やり外に出した後で医者に聞いた。
「しぼう・・死亡通知書には・・」
不覚にも涙が出た。これまで他人や親戚の葬式はおろか、婆ちゃんが死んでも爺ちゃんが死んでも涙を流した記憶はなかったのだが。
「死亡通知書には、何が必要ですか?」
「エ?」
医者は虚を突かれた様だった。まさかそんな事を言われるとは思っていなかったんだろう。何日か経った今、冷静になって考えると確かに馬鹿なことを聞いたものだった。多分、自分は冷静なんだって示したかったんだろう。涙をこぼしながら俺は続けた。
「印鑑とか・・故人の身分証明書とか・・」
「いや、そういうのは大丈夫です。入院時に様々な書類を頂きましたから、特に手続き的に問題はありません」
「本当に、よろしくお願いします」
そういってから俺と医者は部屋の外に出た。
「ねえ、何を話していたの?」と母親が聞いてくる。
「死んだあと、死亡通知書はどうするのかって話さ」
「だからなんでアタシを外したのよ」
「多分、母ちゃんにはきつ過ぎると思ってさ」
そう言いながら俺たちは父親のベッドに向かった。
父親には様々な看護師たちが手当をしていた。父親の体には色々なチューブが接続されていて、またぐらにはオムツが付けられていた。そういえば最近の父親は家の中で良く糞を漏らしていたものだった。半年ほどまえ、残業でクタクタになってH社から家に帰ってきた日に、父親が糞を漏らしたことがある。次の日も朝早かったので、そろそろ寝なければならない時間帯に糞を漏らされて俺は我慢の限界だった。母親と一緒に床にこびり付いた糞を拭う。そして後のことは母親に任せて、俺は父親をシャワー室に連れて行った。父親の体にまだ付いてる糞をシャワーで落とす為だ。
「大丈夫だよ、一人で出来るから。な、お前は早く寝ろ。うん、ホラもう綺麗になった」と父親は言っている。
「何が一人で出来るだよ、、全然綺麗になってねえじゃねえかよ。」と文句をいいつつ、俺は足に着いた糞をシャワーと手袋でこそげ落とす。
「お父さん、マジでさ、オムツ掃いてくれよ。頼むよ」
「馬鹿野郎!俺はまだ大丈夫だ」
「大丈夫じゃねえよ!本当に臭ぇんだよ!勘弁しろよ!」と俺は父親を怒鳴りつけたものだった。確かに俺は屑な息子だったなあと思いながら、父親のことを母親と一緒に無表情に眺めていた。
ベッドに横たわっている父親の顔からは髭が剃られている。指にはなにかセンサの様なものが繋がっている。当直の医者は2名で、看護師達は4名ほど。既にマッサージを終えており、最早何も出来ることはない。皆も覚悟を決めた目で父親を見つめている。俺たち二人は父親の傍らまで招かれた。
父親の顔には既に何も表情の様なものが感じ取れなかった。眠っている表情とも又違う。例え寝ているにしても、人間もう少し表情豊かなものだ。今の父親からは何も表情が読み取れない。
5分程経った頃だろうか、とうとう心拍計が0になった。
「12月23日 午前9時54分 ご臨終です」と医者が告げた。しかし何の実感も湧かない。
父親の手に触った。この前彼が透析を受けていたときよりも微かに暖かかった。試しに目を開けてみた。そのまま何かを喋りそうな顔になった。しかし両目には全く動きがない。本当に寝てるようにしか見えないわねぇ、と母親が言ったが本当にそうだった。
「死亡通知書には何の手続きも要らねえってさ」「あらそお」
それきり俺たちは何分間か父親を眺めていた。
看護師たちは父親の口やら、手やらからチューブを抜いたりなんだりしつつなにやらそそくさと立ち去っていった。看護師も大変だなあとつくづく思った。俺たちは別に遺族だからこういう所に来ていても当然だが、看護師や医者はこういう場面に日常的に出くわさねばならない。こういうのは精神的に答えるだろう。
そろそろ遺体を運ばねばならない。いつまでも死体にスペースを取らせておく訳にもいかないからだ。いつの間にか戻って来ていた看護師さん達になんとなく促されて、俺は言った。
「ではここから運んでじゃって下さい」
父親だった物体を乗せた移動式ベッドはそのまま病院の仮設式葬儀場に運ばれていった。そこで葬儀屋によって頬に詰め物をいれたりなどしてある程度顔を整えて貰ってから、一旦葬儀場の安置室で冷凍保存されることになっている。
残った俺たちは遺品だの、病院に入院する為のオムツだのを処理することになった。どうやら高齢者用オムツは重宝する様なので、そのまま病院に引き取って貰った。後はメガネ。2週間前に入院したときには父親はそれを掛けながら、
「畜生、皆俺に死んでほしいと思ってるんじゃねえのか」などと悪態を突いていた。今では当の本人が死に、メガネが残った。このメガネは納骨するとき、一緒に骨ツボに入れる積りだ。スリッパも出来れば病院に引き取って貰えれば嬉しいのだが、生憎父親の名前が入っている。死人の名前入りスリッパなんて誰も使いたがらないだろうから俺たちが引き取ることにした。結局肌荒れクリームは一度も使う機会のないまま無駄になった。今でも俺のバッグの中に入っている。
病院スタッフに先導されて、俺たち2人は病室を後にする。死体が乗っているベッドには厳重に毛布が掛けられている。フト隣のベッドを覗いてみると、そちらでも患者のことを親戚縁者一同が取り巻いていた。廊下を歩いている母親に向かって「お隣さんもご臨終みたいだ」とこぼした。死体が乗っているベッドを引いているのは葬儀屋たちであって、看護師ではなかった。二人の葬儀屋のうち、一人は絶対にこちらに視線を合わせようとしなかった。まだまだ経験が浅い男なんだろう。
地下一階にある病院内の仮設葬儀場に着いた。一体宗教染みた色合いがあるのやらないのやらよく解らない、全く不思議な空間だった。今の今までこの病院にこんな設備があるとは知らなかった。
祭壇には色とりどりの花が添えられていた。そして祭壇の前には、線香を立てる為の灰の入ったツボと、よく葬式のときなどにチーンと鳴らす金属製のおわんが横長のテーブルの上に置いてあった。父親の遺体を乗せた移動式ベッドが祭壇とテーブルの間に置かれた。
「こちらで、故人の御見送りをお願いいたします。まずはご長男さまから。」
葬儀屋はそう言って、ベッドから毛布を外した。すると父親の顔が見えた。ついさっきまで漸く押さえていた涙が再び出てきた。ああ、この人はもう、死体なんだ、という事が解った。すると涙が止まらない。貰い泣きという奴か、今度は母親まで泣き出した。親子二人揃って、俺たちは涙を流していた。俺たち二人の気持ちを察したらしい看護師と当直の先生たちが先に線香をあげていた。俺は泣きながら、ああ看護師さんや先生は患者が死ぬとこういうこともしなきゃならないんだなあとボンヤリ思っていた。
漸く泣き止むと俺は父親の遺体に向かって線香を上げた。後ろでは母親がまだ泣いている。顔を合わせればいつも喧嘩ばかりして、”アンタに結婚してやってるんだ!もっと結婚貸し料寄越せ!”なんて言っていた女なのに、いざ連れ合いに死なれるとやはり悲しいものらしい。こうして線香を上げているといよいよ本当に父親の死を実感する。誰かが言った、葬式は死んだ人間の為にやるんじゃない、生きている人間たちが自分の気持ちに区切りをつける為に行うのが葬式なんだ、と。本当にその通りだ。
それにしても父親の胸の辺りが気になったー心なしか微妙に胸が上下している気がする。まだ呼吸しているのか?まさか!
昔植物人間と脳死した人間の違いについて、という話を聞いたことがある。それによると、ごく稀に脳だけは生きているのに、外界への反射反応が全て出来なくなっている為に脳死判定されるケースがあるらしい。もしも今の父親がそうだとしたら・・・。線香を炊いて拝んでいる間、そんな事をフト考えていた。最後の見送りにと病院スタッフと葬儀屋が全員退場して、母親と俺の二人だけで父親の死に顔を見ているとなんとなしに俺は父親の胸の辺りを見ながらいった。
「なんか動いてる気がする」
「そうよねぇ。アタシもそんな気がするの。」そして小声でこう続ける。
「何かここの人たちさあ、パパにワザと点滴打たなかったりしてちょっと・・」
要するに病院の連中はワザと父親が死ぬ方向に持って行ったのではないか、と言っているのだ。また始まったよ、こういう下種の勘繰りには本当にもうウンザリだ。
「馬鹿野郎!本当にそんな馬鹿な事したら、悪い噂が立ってアッと言う間病院の経営が立ち行かなくなるぞ!少しはモノを考えろ!」と俺は怒鳴った。
そして母親の耳元で俺はこういった。
「仮にさ、オヤジがこのまま回復したとしても、もう脳死状態なんだ。とても苦しい状態でずっと我慢しなくちゃならなくなる・・だから、もう、殺してあげよう。」既に俺が口走っている事も意味不明だった。殺すも何も、オヤジは既に死んでいるのに。もしかしたら自分の中にいるオヤジを殺そう、という意味なのかも知れない。
それにしてもよくもまあ、父親もこんなのと結婚したものだ。父親が生きていたときも、母親は四六時中こういう事を喚きたてては父親の睡眠を妨害していた。こういう妄想に一旦憑りつかれると、もう頭の中がそれで一杯になるのだった。よく夜中に、誰もいない居間でテレビに向かって一人ぼっちでがなり立てていることがあった。多分父親の容態が悪化した原因の何割かは母親によるものだろう。だからだろうか、父親は母親と離婚することも一時考えてはいた。今月の頭のことだ。78歳と68歳の離婚である。別に俺はもう興味がなかったので「勝手にすれば」と言っておいたのだが。因みにその後父親は、そうなると最早自分を介護してくれる人間が誰もいないことにハタと気づいて、離婚するのを辞めてしまった。いまとなってはもうどうでもいいことだが。
病院を出た後、父親の遺体は葬儀屋の車に乗せられて、一旦彼らの事務所に向かった。葬儀屋の事務所には、小さいながらも遺体の冷凍保存ができる安置室があるとのことだった。俺も母親と一緒に車に乗って、葬儀屋たちにくっついていった。千葉西病院を後にする。
もしかしたら俺はホッとしているのかも知れないな、と車の中で思ったりした。確かにいま俺は父親が死んで悲しいと思って泣いている。しかしその俺が一体生前何をしてきた?去年からこの方、オヤジの介護を母親にまかせっきりにして、自分は仕事で忙しい忙しいと言いながら逃げていただけじゃないか。そうして今、正確には今年の10月一杯で、俺は自分から会社を辞めて無職になった。しかし家族にはその事実を伝えることも出来ずにいる。29歳にもなって職にも就かず、下手な小説ばかりを書いて”俺はそのうち文筆業で食っていくんだ”などと夢みたいな事ばかりほざいている。父親が死ぬ前、俺は両親が死ねば遺産が手に入るから数年間は文筆業に専念できるな、などと本気で思っていた。そして糞を漏らして嫌な臭いばかりを発する様になった父親を見ながら、ああコイツ早く死なないかな、とも本気で思っていた。だから今父親が死んで泣いているのは偽善ではないのか?この結果は俺が望んでいたものなんじゃないのか?自分が屑だと認めたくないだけなんじゃないのか?
病院から少し入り組んだ道に入り6号線へ。6号線を北上して柏駅前の交差点近くにあるレンタカー屋を左折して、暫くしたら会社の事務所が見えてきた。俺と母親は車から降りて事務所の中に入る。母親は二人きりになると早速愚痴を溢してきた。
「なにこれ本当に狭苦しい事務所ね、本当にこんなところに安置されるの?パパ可哀想。」
「だったらなんでオヤジが死んだときに自分で何も言わなかったんだ!今になってぐちぐち不満を言うな!」
まただ。この母親はいつも全て決まってから後知恵で文句を垂れる。その癖、何かを決める段階だと自分ではオロオロするだけで何も出来ない。昔からなんでもそうだった。だから最近では、何か文句を言ってきたら”じゃあ、そちらの責任で全て決めて下さい”と投げる様にしていた。するとピタリと黙るのだった。
葬儀屋の事務所では色々なことを決めた。
通夜と告別式の日程をどうするか、式の様式をどうするのか、etc,etc。決めねばならない事は山ほどあったが、そんなに大変ではなかった。今のご時世は便利になったもので、後は大体の段取りは葬儀屋がパッケージで組んでくれるからだ。こちらは日程と大体の人数さえ決めてしまえば、あとは葬儀屋が提案してくれるオプションを選ぶだけで事足りる。葬儀屋によると、年末は住職も大忙しなのだそうだ。やはり季節の変わり目には、大勢のお年寄りが亡くなるということらしい。うちの父親も78歳なんだから、そうやって死んだお年寄りの一人に含めてしまっていいだろう。だからまずは住職の日程を押さえてしまう必要があった。住職に電話したところ25日から数日間は空いているとのことだった。これを逃すと年が越して1月3,4週目に通夜と告別式をしなければならなくなる。そこまで経つと死体も劣化するし、安置場での保管代も嵩んでしまう。だからなるべくなら年内に葬式を済ませてしまう必要があった。そこで急遽、26日に通夜を27日に告別式を行うこととなった。因みに今この文章を書いているのは25日だ。つまりは明日、俺は父親の通夜をせねばならない。
生前の父親は、庭に生えてる柿の木に俺の体を埋めてくれなんて冗談で言っていた事がある。お前らは気になっている柿を食う度に俺のことを思い出してくれ、と。なので焼却した遺灰の一部を分骨して、庭の柿の木に埋めることにした。分骨を葬儀屋に頼むと5000円で引き受けてくれた。
葬儀屋で段取りを済ませてから、俺たちは車で家に帰った。玄関を開けると犬が出迎えてくれた。一人ぼっちでお留守番をしていて寂しかったのだろう。俺は少し犬の頭を撫でてから、首輪に手綱を付けて犬の散歩をした。この犬も当年とって12歳となるのでもうそろそろ寿命だろう。確かに最近では階段を上がる足取りも多少頼りなくなってきた。そう言えば父親は昔、「コイツが死ぬ頃、俺も死ぬんだろうなあ」なんて言いながら犬を可愛がっていたものだった。結局父親の方が先だったが。多分この犬は父親が死んだことを理解していないんだろうなあと思いながら、散歩しているとご近所さんに声を掛けられた。
「こんばんは、齋藤さん・・よね?」と俺の顔を見ながら言って来る。
「ああ、こんばんは」
「お母さん元気?」「元気ですよ」
「お父さんは?」
俺はどう答えたものか迷ったが正直に答えた。
「死にました。」
相手は思わず絶句していた。俺は立ち去ろうとしたが相手は尚も聞いてくる。
「いつ?」「今朝」
そういって俺は今度こそ立ち去った。そろそろ冬なので夕方6時ともなるともう肌寒い。その日は急遽、大学時代から付き合いのある友人N田と飲みの約束をした。なんだか、一杯一杯で誰かに不満をぶちまけないとどうしようもない気持ちになったからだった。
俺にとってのクリスマス=イブの前日は、こんな一日だった。
後日談
実はここから死んだ父親が裁判を抱えていたという事が明らかになる。
そして俺と母親に隠れて愛人を抱えていた事も明らかになる。
俺が小学生のころ、父親はよく神戸と千葉の我孫子を行き来していたものだった。神戸で大学の先生をしていたというのも一つあるんだろうけれども、もう一つはあちらでオンナでも囲っていたのかな、と今になっては思えてくる。
ここから俺は失業者からビルの大家に転職して、慣れない不動産業界に飛び込むことになる。まず経験したのは裁判だった。だがそれはまた別の話だ。