何かになりたかった青年と普通でいたかった少女
何でも良かった。特別になれるなら。
小さい頃は何にでもなれると思っていた。
それが一生懸命に努力してようやくひとつの者になれると知ったとき、すでに20才だった。
どうでも良いような大学で、何がしたいのかわからずに、無為な日々を過ごしていた。
何もかもがいやになって、大学を飛び出して、家を飛び出した。
弾けもしないのに持っていたギターを一本携えて。
もう、何かになれるなんて思えなかった。
ただ、ギターは何者にもなれなかった自分が何者かになろうとする証だった。
遠くに遠くに行きたかった。
なけなしの金で電車に乗り、東京に行った。
弾けもしないギターを持って東京駅でうずくまっていた。
未来は無限の可能性に満ちている。
そう信じられるのは幼い子供の特権だった。
幼いままで居たかった。
誰かに助けて欲しくて涙が流れた。
あるいは、ポツポツと降っている雨だったのかもしれない。
ポツポツと降る雨はやがてザーザーと降る雨となり、身体中を洗い流した。
排気ガスにおかされた水が、穢い自分にはちょうど良いのだ。
汚れと穢れは混ざりあい、配水口に流れて行った。
ザーザーと降る雨のなか一人座り込む男を誰もが一瞥し、嘲笑し、去っていく。
何も知らないくせに。
俺の心の傷を誰も触れてくれないくせに、笑ってんじゃねぇよ。
男は初めてかろうじて弾けるドレミファソラシドを何度も弾いた。
雨で濡れたギターは音を成さず、ただ醜く響くだけであった。
その汚さがいとおしいのだ。
ギターを抱き締めた。
このまま死んでもいい気がした。
何にもなれず、死ぬ。
これでもいい気がした。
何にもなれなかった自分を肯定できる気がした。
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普通で良かった。
普通の自分を愛して欲しかった。
私は誰なのかわからなかった。
沢山の肩書きをぶら下げて、今日も会社を出て駅へと向かう。
私の勤めている会社はいわゆるブラック企業なのだろう、私はそれで良かった。
私という存在が浪費されている、それが心地よかった。
私はきっと破滅に向かってる。
このままいけば自殺に追い込まれていくのだろうなと感じながら、東京駅を降りた。
駅を抜け、傘をさして、雨にさらされながらうずくまる一人の男を見た。
雨にさらされながら幼稚な音を出す男が、周囲の人からバカにされながら立っていた。
私に見えた。
その不器用な存在が堪らなく愛しかった。
だから、きっとこれは愛じゃない。
自己愛の延長線にある何か。
傘のなかに二人で入った。
傘のなかには顔をあげた、何か悲壮感のある青年が居た。
ああ、いとおしい。
けれど、やはりこれはやはり自己愛だ。
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雨がやんだ、傘が被せられ、目の前に美しい女性が虚ろな目で笑っていた。
特別な存在がなんのようだ。
俺は叫びそうになった。
「下手くそなギター」
女性は言った。
知ってるよ、そんなことは。
「だからなんだよ!!」
青年は叫んだ。
「いえ、ただ私の貴方が下手くそなギターを聞きたかったのよ」
何でこんなふうにしか言えないのかしら。
もっと、彼を幸せにしてあげたいのに。
「大きなお世話だよ」
特別なお前に何がわかる。
何もない人間の気持ちを。
お前なんかにわかってたまるものか。
「家に帰らないの?」
「帰れる場所なんてねぇよ」
「なんで?」
「何もないからさ、俺は顔も頭も運動も音楽も、出来ることなんてひとつもない男だからだよ」
それだけは俺の誇れるもの。
誰よりも劣っている。それが心地良い。
「そう」
ああ、やはり私はこの男が好きだ。
この男の苦しみが心を溶かす。
私が私以外にも居たんだ。
掴みたくなった、彼の手を。
「哀れに思いにきたのか?」
哀れに思えよ、俺は劣ってるんだ。
「ええ、そうね」
そうね、私は貴方なんだから。
そういうと男は卑屈に笑った。
「そうか」
と一言付け加えて。
「ねぇ、家に来ない?」
男の顔は卑屈な笑顔から驚きに変わる。
「俺は男にすら見えないのか?」
皮肉を言ってみる。
「別に良いじゃない、貴方は女に幻想を抱きすぎよ」
男はばつの悪そうに立ち上がると、二人は家へ向かった。
お互いに軽い挨拶を交わして。
男は橘 優といい、女は三浦 勝子といった。
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小さな家に帰って、勝子は優を座らせるための場所を作ろうとごみをどかした。
優はそのスペースへと座ると、手にゴミに下敷きになった何かのトロフィーが手に当たるのを感じた。
それを引き上げると、中学ソフトテニス全国大会優勝と書かれたトロフィーだった。
全国大会。
優には行くことすら出来ない場所。
それも優勝。
それはまさしく何者かだった。
「これ凄いね」
優はうまく笑えてるかわからなかった。
勝子はそれを一瞥すると、鼻で笑って、どうでも良さそうにそのトロフィーをごみ山に返した。
「なんで捨てるんだよ!!」
優は泣きそうになりながらトロフィーを抱き上げた。
「そんなに欲しいなら、名前を書き換えて貴方にあげるわよ」
勝子はそういうと、綺麗なベットに寝転んだ。
そのようすを見て優はトロフィーを見た。
特別を雑に扱う様に、涙が溢れる。
俺が欲しかった物はそんな雑に扱える物だったんだ。
苦しかった。
涙を流して周囲を見ると、トロフィーが一杯埋まってた。
書道、ピアノ、バレー、ギター、ダンス、歌、文学・・・。
何でも優勝、準優勝、師範代、沢山の特別がゴミと一緒に埋まってる。
一枚の学生証を見つければ、そこには東京大学という文字と、まだあどけなかった頃の勝子が居た。
悔しかった。
なんだこれは、惨めで惨めで。
涙を流しながら意識が無くなっていく。
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勝子は冷蔵庫からビール缶を二本取り出して、一方を優の頬に当てた。
優はビックリして目を覚ますと缶ビールを受け取った。
「羨ましいよ」
優はそういって勝子を見た。
「何が?」
勝子は怪訝そうな目で優を見る。
「こんなに一杯のトロフィーを持っててさ。俺には全くないから」
「ああ、そんなことね」
勝子は笑った。
「そんなことか」
「私からしたら、それはなんの意味もない物だから」
勝子はビールをグイッと飲む。
「何がどうでも良いのさ!?」
優は怒鳴る。
「なに熱くなってるのよ」
「だってそうだろう!!一生懸命やって皆より優れてる証明を得て、特別になれたのに。それをどうして捨ててしまえるんだよ!!」
「特別ってなんなのよ」
「皆に尊敬されて、優れてるって言われる」
「そう、それで何になるのよ。私を見てくれるわけでも無いでしょう」
「意味わかんねぇ、優れてれば皆見てくれるだろう。よく頑張ったねって言ってくれるだろう」
「周りと比べて、条件付きでしか愛してくれない人に誉められてどうするのよ」
「周りに比べて優れていないと、愛して貰えないのは当然だろ」
優はその名前の由来、誰よりも優れた子であるようにとつけられた存在意義を叫んだ。
「バカね。そんなんだから苦しいのよ」
「なんだよ」
「他人と比べて、比べて。その先に何があるの?誰よりも優れていないといけないのかしら?そんなこと無理に決まってるじゃない」
「それでも勝たないと、誰よりも優れてると証明しないと自分はいけないんです。俺はそうしないとバカにされるから」
優はそう言って縮こまる。
「大丈夫よ。ここに私が居るじゃない。貴方を愛しているわ」
「そんなの嘘ですよ」
「嘘じゃないわ。貴方を愛してる。だって貴方は私だから」
「どういう意味ですか」
勝子は優を抱き締めた。
優は心の奥底から暖かいものが登って来るのを感じた。
それを優はなんなのか、まだ名前を知らなかった。
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何でも良いんだ何かになれれば。
その言葉に突き動かされて生きている。
できる人が少ない仕事に従事して、自らの存在意義を証明するんだ。
自らが才能のある人間で、才能の手形をバカにしたやつらに叩きつけるんだ。
それだけが今の目標なんだ。
優は勝子の狭い家のバスルームでシャワーを浴びながら考える。
勝子みたいに数々の才能があれば、きっと多くの人を認めさせることができる。
だから、せっかくなんだ。
勝子に教えを乞おう。
俺は特別に無能だから、勝子に教えを乞えば変われるはずだ。
バスルームから上がると、自らの服が一着しかないことを思い出す。
ああ、どうすれば良いのだろうか。
「勝子さん。僕の服がないです。どうすれば良いでしょうか?」
「バスタオルを巻いて置けばいいわ。大事なところが隠れればなんの問題も無いもの」
勝子に言われたとおりに優はバスタオルを巻いてごみ屋敷と化した部屋にすわる。
勝子に教えを乞うにはまず部屋を片付けよう。
優はそう思い、勝子にごみ袋の位置を聞き部屋を掃除する。
ごみを掃除しながら、中からはブランドもののカバンや、服が汚れた状態で出てくるのをもったいないと感じたが、到底とれそうにない汚れに諦めざる得ない。
「どうしてこんなに良いものをこんなに乱雑に扱うんだよ」
「金銭で買える物なんてたかが知れてるじゃない。必要もないものよ」
勝子はそう言って今まで通りベットに横たわったまま動こうとしない。
優は、金も持ってる彼女が何が不満なのかわからないでいた。
部屋を掃除すると、狭く見えていた部屋もだいぶ広くなり、優が寝転ぶスペースが出来た。
「すごいわね。きれいにしてくれてありがとう」
勝子は優を労った。
「ああ、まぁね。部屋を綺麗にするのは得意なんだ」
優は少しだけ誇らしげに言う。
「貴方だって良いところを持ってるじゃない」
勝子の言葉に優は嫌そうな顔をする。
「こんなの誰だってできるよ」
「誰だって出来るからすごくない訳じゃないでしょう。誰だって必要な事を出来るのは素晴らしいことよ」
勝子は優しそうな顔で優を見る。
「そんなわけがない」
優は首を振って否定する。
「そんなことより、勝子さん僕にギターを教えて欲しいんだ」
優は勝子に詰め寄る。
「掃除のお礼?構わないわよ」
そう言って勝子は優にギターの初歩を教える。
「ねぇ、簡単な歌を歌って見ましょうか」
「勝子はそう言ってスマホで子供の歌を表示する」
「俺はこんな子供だましの歌を歌いたい訳じゃない」
優は反抗する。
「いいえ、簡単なものからやるのが勉強の王道よ。ゆっくりじっくり進めばいい。それが一番近いのだから」
勝子は優しく優を諭すと、二人は幼稚園のお遊戯会のように歌を歌った。
勝子の声はとてもきれいで、優はまた嫉妬した。
いつか見てろ。
俺だって。
優はそう思ってギターを弾いた。
初めてのギターはちょっとだけ楽しかった。
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優が来てから生活が楽しくなった。
部屋を掃除してくれるし、ご飯も作ってくれる。
何よりも、家に帰るともう一人の私がいるのだ。
こんなに素晴らしいことは無い。
二人で一つ。
勝子はそう思って優に接した。
勉強も教えて欲しいと言われれば教えるし、音楽だって教えるし、小説だって教えてあげる。
私たちは1つだから。
私はもう孤独じゃないのだ。
仕事で残業せずに帰り、よりよい仕事を探す。
幸せになれる仕事を探す。
休みが多い仕事がいい。
私には優との時間の方が大事だもの。
私と同じ苦しみをわかってくれる子。
私でも理解できる子。
だから優が好き。
私が私を好きなように。
「勝子はどうしてそんなに何でもできるんだ?」
台所の優が勝子に訪ねる。
「才能があるように産まれたからかしら」
勝子は笑って答える。
「才能があるようにってなんだよ。俺だって才能があるように産まれたかったよ」
優は不満そうに勝子に言う。
才能があるように産まれたかったか。
人それぞれよね人生は。
「どうかしらね、才能のある人間には、才能のある人間の悩みがあるはずよ」
勝子は不機嫌そうに優に言った。
「なんだそれ、才能が欲しい人間に対する嫌みかよ。俺には何も無いのに」
「同じことを言うのね貴方は」
勝子は笑う。
才能才能才能。そんなものどうでも良い。
必要なのは愛情。
早く気がついて、私を愛しなさいよ。
私を私でいさせてよ。
抱き締めて、私が存在して良いと言いなさいよ。
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ああなりたいんだ。
才能をもって、誰かを馬鹿にしたいんだ。
俺は才能があるって言ってもらいたいんだ。
今度は俺の番なんだ。
ほめられるのは俺の番なんだ。
そう思って優はギターを弾き続ける。
何かに成れると信じて。
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勝子が部屋にいるとき優の携帯が鳴った。
携帯は優の母親からだった。
勝子はおぞましい感情でその着信を取った。
きっと彼の母親も同じのはずよ。
「優!!さっき学校から電話があったのよ。どうして大学に行ってくれないのよ。私恥ずかしくて外を歩けないじゃない。妹にも弟にも教育に悪いのよ!!」
勝子は笑った。ああ、これだこれ。母親の無意味な期待。
「こんにちわ、優くんの彼女の勝子です。優くんはもうあなたと話をしたくないでしょうから、代わりに電話を取りました。彼女は貴方のもとには決して帰らないわ。もう私のものなんだから」
それで良いでしょう優くん。
勝子はそういうと母親を着信拒否にして、携帯を投げ捨てた。
これで良いのよ。
かわいいかわいい優くん。
その時優が家に帰ってくる。
勝子は楽しそうに今あった事を優に話した。
「ああ、ありがとう」
優はひきつった笑顔で勝子に言った。
なんで、貴方のためにしたのにそんな顔をするのよ。
「お母さんに謝らなくちゃ」
優はそう言って、携帯を取り出すと電話をかけようとする。
その手を勝子は掴み優を睨む。
「どうしてこんなことをするのよ。貴方は母親から逃げても良いのよ」
「お母さんは僕の事を大事に育ててくれた。だから俺は特別にならなくちゃいけないんだよ」
優は泣きそうな声で言った。
勝子は解らなかった。
「あなたが期待に応えてももっとたくさんの期待を背負わされるだけよ」
「そんなのわかんないじゃないか!!」
期待に応えられなければこうなるのかと勝子は思った。
「普通も苦しいのね」
勝子はつぶやいた。
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勝子が風邪で寝込んでいるとき、ポストに手紙が入っていた。
優はそれを持って、勝子に渡す。
「ああ、なるほど」
勝子はそう言って優に渡す。
「なんだよ」
「母からだわ。読んで見なさいよ。きっと特別がそんなに良いものじゃないとわかるはずよ」
勝子はそう言って優に読ませる。
〖勝子へ
私にとって、貴方はやはり最高傑作だったわ。
誰にも負けなかったわ。
妹たちはダメね、二番目は頭がだめで、三番目は顔が良くない。四番目は障害児よ。捨ててあげたいわ。
でも貴方だけは例外よ。精子バンクと卵子バンクで最高の精子と卵子から生まれたら子供ですもの。
貴方は素晴らしい。
だから戻って来なさい。
貴方なら私のできなかったすべての夢を叶えられるもの。
今からでも女優で研究者で小説家になれるはずよ。
最高の遺伝子で最高の人生を生きて欲しいの。
母より〗
優は朗読を終える。
それから勝子を見る。
「どうかしら。貴方も特別が良いの?」
優は少しだけ考えて「特別も良くないな」と言った。
勝子はそれを聴いて優に「そうでしょう」と言って笑った。