9:聖女は炎の夢を見る
炎の夢を見る。
それだけで、私はあの日に戻ってきたことを知る。
あの日──私が初めて魔獣を祓った日。
私が家族を喪った日。
「ロザリンド、逃げなさい!」
目の前で、母が叫ぶ。その下半身は魔獣の口に飲み込まれ、真っ赤に染まっている。痛みに顔を歪め、それでも腰を抜かして震えるだけの私に向かって、逃げろという。
父はすでに片足だけ残して魔獣の胃の中だ。兄は私から少し離れたところで、魔獣の群れを引きつけ、傷だらけになっていた。兄は私が動けないことを悟ると、それでも激しい口調で叱咤した。
「エミリーを連れて走れ! ロザリンドはお姉ちゃんだろ!」
私はびくっと体を震わせる。背後を振り返ると、同様に地面に座り込んで泣きじゃくる、私の妹、エミリーがいた。まろい頬を涙でベタベタにして、言葉にならない声を上げながらしゃくり上げている。エミリーは私の一つ下のまだ四歳で、甘えん坊で、泣き虫だった。初めてできた妹が、私はかわいくて仕方がなかった。
そうだ。妹を守らないと。
私は萎えた足を奮いおこし、立ち上がる。辺りは炎に包まれ、肉の焼ける焦げくさい臭いが漂ってきていた。吸い込む息は熱く、肺が焼けてしまいそうだ。魔獣の歯が骨を砕く音や、痛みに呻く苦痛の声が響き渡る。それらをなるべく気にしないようにしながら、私はエミリーに笑いかけた。
「エミリー、大丈夫よ。お姉ちゃんと一緒に、安全な場所まで行こう?」
「うっ、ううっ……」
エミリーは両手で顔を押さえて、いやいやと首を振る。私は彼女のそばに跪き、安心させるように抱きしめた。
「大丈夫、お姉ちゃんが守ってあげるから。ね?」
腕に力を込め、エミリーを立ち上がらせる。力の抜けたエミリーの体は重かったが、それでも彼女の腕を肩にかけ、一歩一歩足を踏み出した。
背後は振り向かない。もう悲鳴も聞こえない。魔獣の咀嚼音が鼓膜を震わせる。ああ、魔獣がそれを食べている間は、こちらを向かないだろう。
生まれ育った村は瓦礫と炎に囲われて、見たこともない景色になっていた。友達の家も、教会も、小さな市場も、何もかもが崩れ、焼かれていた。
なんの変哲もない一日を終えるはずの夜だった。私たちは夕食を終え、眠りにつこうとしていた。
おやすみなさい、と両親に挨拶をして、ベッドにもぐりこんだとき──獣の咆哮が響いたのだ。
そうして地響きがしたかと思うと、何か大きなものに家が揺さぶられた。私は隣にいた兄にしがみつき、兄は私を抱きしめた。揺れがおさまった頃に慌てて家を飛び出して──魔獣に出会った。
そして、皆食われてしまった。
「お姉ちゃん……」
エミリーが譫言のように呟く。もう涙も出ないのか、瞳は虚ろで乾いていた。
「怖いよ……いやだよぅ……」
「大丈夫、怖くないよ……」
自分で繰り返しても響きのあまりの虚しさに胸が痛んだ。大丈夫なわけがない。怖くないわけがない。私だって、エミリーがいなければ、すぐに足が止まってしまいそうだ。
それでも。
私は逃げなければいけない。生き延びなくてはいけない。妹とともに。だって私は託されたのだから。逃げて、と。走れ、と。母も兄も、自分の命が消えるのを前にして、それでも私に祈ったのだ。ならば、私はそれに応えなくては。
なるべく火の手と魔獣の少ない方を選んで歩く。同じように逃げ惑う人々もいたが、一人、また一人と、気力が尽きたり暗闇から飛び出してきた魔獣に襲われてしまったりして消えていった。
やがて、村はずれの洞窟に辿りついた。ここは子どもたちの秘密基地のようなもので、入り口が崩落によって半ば埋まっており、子どもくらい小柄でないと中に入れないのだ。ここなら、魔獣も襲ってこないだろう。
「エミリー、ここで助けを待とう」
振り切れた恐怖の中でやっと安堵を得て、私は体の力を抜いた。エミリーもわずかに頬を緩めて、私から離れる。
彼女はふらつきながらも自分の足で地面を踏みしめ、そして。
「いやああああああああ!」
暗闇から突如として現れた四本足の魔獣が、エミリーの胴に食らいついて持ち上げた。牙の食い込んだ腹から真っ赤な血が流れ、エミリーが身をよじる。
「エミリー!」
私はとっさに飛びかかり、彼女の手を掴む。暖かい、小さな手だった。
「お姉ちゃん! お姉ちゃん! 助けて!」
髪を振り乱し、エミリーが泣き叫ぶ。私は掴んだ手を必死に引っ張り、魔獣の顎から妹を取り戻そうとした。
魔獣がエミリーを咥えたまま、激しく頭部を振る。柔らかなものが千切れるような、いやな感触が私の手元に伝わった。
「あ……」
私の両手には、肘のあたりで断たれた、エミリーの右手が残った。ゆっくりと顔を上げる。生温い液体が顔にかかる。鉄臭い味が唇にしみた。
「おねえ、ちゃ……たすけ……」
絶望に染まった瞳が私を見つめる。小さな唇から、苦しげな呻きが漏れる。最後に姉に助けを求めて、その姿は魔獣の口の中に消えていった。
助けてと言われたのに。
逃げろと言われたのに。
私は何もできなかった。
私の妹を味わい終えた魔獣が、舌なめずりをして私に向かい合う。私は妹の手を握り締めたまま、その目を睨みつけた。
魔獣は黒っぽい毛並みの、どんな絵本でも見たことがない異形だった。獅子のようなたてがみをそよがせ、山羊に似た角を生やし、巨大な口からは鋭い牙が覗いている。口元には赤っぽい染みが付いていた。
こんなところで何もせずに死ぬのは嫌だった。それだけは絶対に受け入れられないことだった。
憎かった。村を襲い、私の家族を食らい、今私で腹を膨らませようとしているこの獣が、憎くて憎くて仕方がなかった。
殺してやりたかった。
そいつが呼吸しているのさえ許せないと思った。
頭が澄み渡り、体の震えがおさまる。何か強大な力が、私を支えていた。
魔獣が大きく口を開ける。その牙から唾液が糸を引いて地面に落ちるのも、上顎にエミリーの洋服の切れ端がへばりついているのも、よく見えた。不思議な感覚だった。
「──消えろ」
ありったけの憎悪を込めて呟く。
「消えてしまえ!」
喉から血が出そうなほど強く叫ぶ。
こんな獣は死んで当然だ。死体なんて残さず、塵となって消えてしまうのがお似合いの末路だ。
今まさに私を飲み込まんとしていた魔獣の動きが止まる。眼球がぐるりと上向き、甲高く鳴く。
そして、その体は黒い塵となって風に散らされていった。
「……え?」
先ほどまで魔獣がいたはずの空間を見つめ、呆然と呟く。そこには何もなかった。魔獣も、妹も、全てが塵となって消え失せていた。
「……は、はは」
こわばった唇から笑い声が漏れる。握ったままのエミリーの手が、ぼとりと地面に落ちる。両膝をつき、天を仰いで顔を覆った。
「なんで今なの!」
叫ぶ。もっと早くできていれば、私は家族を喪わなかった。魔獣が美味しそうに家族を食う様子なんて、見なくてすんだ。母も父も兄も妹も、痛い思いはしないでよかったのに。今日と同じ明日をみんなで迎えることができたのに。
けれど、そんな日は二度と来ない。
街を焼く炎が夜空の底を焦がし、時折悲鳴が聞こえてくる。まだ魔獣はいるのだ。
私はゆらりと立ち上がり、村の方へ歩き出した。
全て殺してやる。生かしてはおかない。
憎悪を胸に抱き、私は固く誓った。
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そのあとは、目についた魔獣を片端から殺し、疲れて座り込んでいるところを軍に拾われた。国の上層部は魔獣を塵に変える力に目をつけ、私を教会に引き渡し、聖女として祭り上げた。
しかし、私はただの、全身全霊を憎しみに燃やす女に過ぎない。そんな人間が聖女にふさわしいだろうか。
だからきっと、聖女を追放されたのも運命だったのだ。
私はずっと、そう思っていた。