8:聖女は魔獣を祓う
私たちが辿り着いたのは、北方の隣国と接している村だった。雪こそ積もっていないが山から吹き下ろしてくる風が冷たく、身震いするほどだ。
しかし、隣国との交易で栄えていて、村の中央に位置する市場は賑わっていた。品物にも珍しいものが多い。よく分からない獣の肉、牛の乳と小麦粉で作ったお菓子、王都では見かけない鮮やかな紋様の服などが溢れかえっており、目を楽しませる。
商品に気を取られている私に、ジェラルドが釘を刺した。
「情報収集に来たんだ。寄り道している暇はないぞ」
「分かってます」
即答するが、後ろ髪を引かれる思いで彼の後をついていく。ひとまず荷物を置くために、宿屋へ向かうところだった。
宿屋は往来する商人を泊めるためか、二階建ての大きな建物で馬小屋までついていた。受付で宿屋の主人相手に手続きを進めるジェラルドの横に突っ立っていると、主人が笑いかけた。
「お二人はご夫婦で? 砂漠の国からいらっしゃったなら、長旅でしょうなあ」
どうやらジェラルドの風貌から、ここからは遠く離れた南方の砂漠の国出身と思われたらしい。しかも夫婦と勘違いしている。私は元聖女だと言うことがバレないように髪をひっつめ、つばの広い帽子で顔を半ば隠している。服は良家の貴婦人風の地味目のドレスだ(もちろん<黄昏の宮>から借りている)。
ジェラルドに妙な気品があるため、釣り合うように上品なものを着るか、いっそ世話係として簡素なシャツとズボンにするか迷ったのだが、つば広の帽子をかぶるために上品に寄せるしかなかった。それを今さら大変後悔している。髪などさっさと短くして、世話係になるべきだったのに。
ジェラルドは愛想のいい笑顔を作って、私の肩を抱き寄せる。
「ええ、そうです。この辺りは隣の国とのやりとりが盛んだと聞いてやってきたんですよ。妻に珍しいものを見せてやりたくて」
ぬけぬけとよく言えたものだ。私はジェラルドの足を踏み抜いてやりたいのを我慢しながら、無邪気な笑みを浮かべてみせた。
「そりゃあいい! ……と言いたいところだが、最近はこの辺りも物騒でしてなあ。どうも隣国の王が代わって、交易の取り締まりを強化しておるようで。ときどき兵がうろついておりますわ」
「──隣国の兵が?」
ジェラルドがさりげなく聞く。主人は苦笑して手を振った。
「そうです。といっても、普通に生活していれば目をつけられることはありませんから、ご安心ください。……はい、本日から二泊。確かに頂戴いたしました」
手続きが終わり、部屋の鍵を渡されて会話は終了した。
……鍵が一つしかない。
思わずジェラルドの顔を振り仰ぐと、彼は対外向けの人の良さそうな表情のまま鍵を受け取った。
視線だけこちらにやって、意地悪く頬を歪める。その顔を見て、私はこっそり拳を握りしめた。
──といっても、恐れていたような事態にはならなかった。
用意されていたのは浴室を挟んだ二間続きの広々とした部屋で、ほとんど個室も同然だった。私は部屋に入った瞬間、快哉をあげた。
「危ない。寿命が縮むところでした」
「お前の?」
「いえ、あなたの」
横目で睨むと、声を上げて笑われた。笑い事じゃないが。
「茶番はともかく」
「茶番」
こっちはそれなりに(流血沙汰の)覚悟を決めていたと言うのに。
ジェラルドは真顔に戻って私を見下ろした。
「俺は調査に行ってくる。お前は好きにしていろ」
「いいんですか?」
「土産でもなんでも買ってこい」
「ありがとうございます!」
しっかり財布も渡されて、私は手のひらを返した。いい雇用主かもしれない。
ジェラルドと宿屋の前で別れ、私は市場に繰り出した。
■■■
異変が起きたのは、二日目の夜だった。
夕食を終えた私は部屋で寝そべり、ウトウトとしていた。早く湯浴みをしなくては、などとのんびり考えながら。ジェラルドは朝早く出かけては夜遅く帰ってくるため、実際顔を合わせることは初日以来なかった。
それが、突然部屋の扉が勢いよく開いて、ジェラルドが飛び込んできたのだ。
「な、なんですか!?」
「ロザリンド」
ジェラルドは肩で息をして、私の腕を強く掴む。
「魔獣が来る」
その一声で、私の意識は急速に覚醒した。
「いつですか、どこに」
「ここに、今すぐ」
「い……」
息を呑んだ瞬間、夜闇を悲鳴が引き裂いた。
弾かれたように窓に走り、外の様子を確認する。目を限界まで開き切って、魔獣をとらえた。
「──いた」
市場の方だ。一匹ではない。馬くらいの大きさの魔獣の群れだ。三つ首の獅子のような形をしている。飛ぶことはないだろうと予想できた。
「祓います」
「ここからはできないのか」
「無理です。私が祓うには、魔獣が私を認識している必要があるんです。だから最前線に行かないと」
「俺も行く」
武器になりそうなものを探している私に、ジェラルドが告げた。ついで剣を差し出してくる。
「駄目です。邪魔です」
「避難誘導には人手が多い方がいい。どの経路が最適か、俺には分かっている」
真剣な眼差しを向けてくるジェラルドに、私は瞬時考えた。それから顔を上げて、視線を合わせる。
「分かりました。必要以上に魔獣には近寄らないように。住民の方の避難はよろしくお願いしますね」
「任された」
ジェラルドが深く頷いたのを見届けて、私は部屋を飛び出した。
人々が悲鳴を上げながら逃げ惑っている中を、私は駆け抜ける。体の奥から力が湧いてくる。私の身に馴染んでいる、魔獣を祓う力。その根源が何かだなんて考えても仕方ない。嵐のように力を振るう、それだけだ。
市場に駆け込む。三つ首の魔獣が一匹、、売り物の肉を夢中で食らっていた。
剣を抜き放ち、気配を殺して背後から魔獣を斬りつける。甲高い鳴き声を上げる魔獣の六つの眼球と目が合うのと同時に、私は叫んだ。
「消えろ!」
その瞬間、魔獣の体がびくりと震え、頭から黒い塵に変わっていく。全てが塵になるまで一秒もかからない。私は道を突き進み、目につく魔獣を次々と祓っていった。
助けを求める声が聞こえたのはそんなときだ。私ははっとして足を止め、声の方角を探る。商店の一つから、再度悲鳴が聞こえた。
地面を蹴り、商店に飛び込む。
そこには、彫刻が並んだ商品棚にすがるようにして腰を抜かした女性と、今まさに女性を喰らわんと三つの顎を開く魔獣の姿あった。
「こっちを向け!」
手近にあったものを魔獣に投げつける。投げてから気づいたが、それは商品であろう彫刻だった。見知らぬ獣を象ったものだ。
魔獣が緩慢にこちらを向く。間髪いれず、強く念じた。
「──消えなさい」
魔獣が塵に変わっていく。ガタガタと震える女性に向けて、微笑みかけた。
「もう大丈夫ですよ。立てますか?」
「あ、あぁ、せ、聖女様?」
女性は涙を流しながら、私を見上げた。思わず頭に手をやると、長い赤毛は伸ばし放題、服は寝衣で、全く正体を隠せていなかった。
「そ、そう言われていたこともありましたが……」
「ありがとうございます、ありがとう……!」
女性はわっと泣き伏し、私に縋りついてきた。その背中に腕を回し、なだめるように優しく叩く。
「怖かったですね。もう大丈夫、大丈夫ですよ……。魔獣は私が祓いました。あなたを傷つけるものはもういません」
女性はボロボロと涙をこぼし、しゃくり上げている。普通に暮らしていた人にとって、こんなに怖いことはないだろう。異形の獣に、自分が食われるかもしれないという恐怖。そんなもの、一生味わなくてよい感情のはずなのに。
私が唇を噛み締めて女性の背を撫でていると、外でバタバタと足音がした。
「エリナ!」
血相を変えて私たちのもとへ駆け寄ってくる男が一人。私の腕の中で、女性が顔を明るくし、「アーサー! 来てくれたのね」と声を上げた。どうやら夫婦らしい。
その後ろから、見知った男がやってくる。ジェラルドだ。こちらに目をやると、
「避難はだいたい完了した。魔獣も大方祓ったようだ。付近には見当たらない」
「よかった……」
ホッと息をつく。女性を男性に引き渡し、立ち上がった。辺りの見回りをしなくては。
「あの!」
女性が私を呼び止めた。振り向くと、夫婦で寄り添うようにしながら、こちらを見つめている。
「本当に、ありがとうございました……なんとお礼をしたらいいか」
「お礼なんていりませんよ。当然のことをしたまでです」
私は笑う。本当に、そんなことのためにやったわけではないのだから。
女性が躊躇いがちに俯き、それから口を開いた。
「……王宮でのことは、こちらでも聞き及んでいます。でもきっと、何か事情があったのでしょう? ロザリンド様が偽物だなんて嘘です」
男性も気遣わしげに眉を下げる。
「俺たちには詳しいことは分かりません。でも、聖女でなくなったって妻を助けてくださったロザリンド様は本物の聖女様だ」
胸が詰まる。こみ上げてくるものを堪えて、私は口元に指を立てた。
「そう言っていただけるだけで、私は十分です。でも、どうかこのことはご内密に」
この罪のない人たちを、争いに巻き込んではいけないから。
二人はハッと息を呑み、しっかりと首を縦に振った。そして名残惜しげに別れを告げて去っていく。
彼らの後ろ姿を見つめていると、ジェラルドが話しかけてきた。
「……よかったな」
「はい。女性を救えて、本当によかった。間に合わなかったらと思うとゾッとします」
「それもそうだが、お前は、ああいう人たちを助けたくて、聖女をやっていたんじゃないのか」
「え……?」
思いもよらぬ言葉にきょとんとする。それは本当に、私の意識の外にある言葉だった。しかも、それをジェラルドに言われるなんて。
だから、反応が遅れた。
建物の影から、信じられない素早さで魔獣が飛び出してくる。その先にはジェラルドが。私が祓うのと、魔獣がその顎でジェラルドを食いちぎるのと、どちらが早いか。
私はジェラルドを突き飛ばし、魔獣の前に体を晒した。魔獣の目が私をとらえる。念ずる。念じた。けれどそれより一瞬早く、魔獣の牙が私の横腹を抉った。
燃えるような痛みが体を貫く。魔獣は塵となって消えていく。私は脇腹を押さえ、その場に崩れ落ちた。
ジェラルドが何かを叫んでいる。よく聞こえない。でもそれだけ叫べるならきっと怪我はないのだろう。彼は地面に倒れ伏す私の体を抱えたようだ。それよりも気になることがある。
「魔獣は……」
咳き込む。声が小さいのか、ジェラルドが耳を寄せてきた。
「他に魔獣はいませんか……?」
「そんなことはどうでもいいだろ!」
怒ったような口調で、でも表情は泣きそうに歪んでいる。ジェラルドの手が傷口を抑えた。
「よくないです……。他にも、残っていたら……祓わなくちゃ」
「ならなんで俺を庇った!? お前は俺が嫌いだろう!」
詰問は悲鳴のようだ。私はうっすら笑い、目を閉じる。
「だって、私は……」
その先は言葉にならなかった。どうやら間抜けなことに、失血によって気を失ってしまったらしかった。