5:聖女は第二王子と喧嘩する
その後、どうやって<黄昏の宮>まで帰ったのか記憶がない。
ふらふらと山中を彷徨い、目についた木の実を口にしたり川の水を飲んだりしていたような気もするが、気づいたときには<黄昏の宮>の門をくぐっていた。
「ずいぶん遅いお帰りだな」
「は……」
ずいぶん掠れた声が出た。喉が上手く動かず、思考を言葉にすることがおぼつかない。
辺りは夜闇に沈んでおり、空にのぼった月が清冽な光を降り注いでいた。
<黄昏の宮>の玄関で、ジェラルドが腕を組んで私を待っていた。
「まさか帰ってくるとは思わなかったな。読みを外した」
「なに……」
私は重たい足を引きずるように歩いて、ジェラルドと向かい合った。
ジェラルドが笑う。
「こんなところに戻ってくる必要もないだろ。お前がいなくたって世界は回る。新たな聖女が魔獣を祓い、民は守られる。わざわざ<黄昏の宮>で軟禁されることはない。逃げ出そうとは思わなかったのか? お前ならどこにでも行けるだろうに」
「はあ……」
喋ると口の中がじゃりじゃりした。私は唇を舌で湿して、答えを返した。
「全く思いません。だって……」
私はぼんやりと虚空を見つめた。
「魔獣を祓えないなら、どこに行ったって意味がない。私はそのために生きているんだから」
ジェラルドが少しの間、黙った。
「……へえ」
それからすっと目を細め、
「自分以外の人間がいとも容易く聖女を務めているのを見るのはどんな気分だった? 人々の称賛を一身に受けて、褒めそやされているのは?」
「私にとっては別に、どうでもよいことです」
「お前にとっては、魔獣を祓う以外のことは全てどうでもいいと?」
「その通りです。それ以外の人生を送ろうとは思いません」
だから、と言葉を継いだ。マリアベルが魔獣を祓っていたときのことを思い返す。自然と笑みがこぼれた。
「魔獣をあんなに軽やかに祓う人間を見て、驚きました。彼女にとっては魔獣祓いは目的じゃない。自分が舞台の中心に立つための手段なんです」
「そうなりたいか?」
「まさか!」
私は肩を震わせて笑い声をあげた。
「私はそんな風には生きられない。自分が一番よく分かっています」
なおも笑いが止まらない私に、ジェラルドが顔をしかめた。
「……それにしても、お前、その格好はなんだ」
言われて、自分の身なりを確かめる。上衣はボロボロで、帽子はどこかに落としてしまったようだった。頬には泥がこびりつき、左手に抜身の剣を握りしめている。山賊もかくやという風体だった。
「ご、ごめんなさい。服も剣も<黄昏の宮>から持ち出したのに、汚してしまって……」
「それは別に構わないが」
構わないのか。
ジェラルドは額に手を当てて大きなため息をつき、宮の中を指差した。
「さっさと湯浴みをしてこい」
「はい……」
私はとぼとぼと浴室に向かった。
「おい、ロザリンド」
背中に声が投げつけられる。振り向くと同時に、何か小さなものが放り投げられた。この男は物を手渡しすることができないのか。
「なんですか、これ」
空中で掴み取り、拳を開く。投げられたのは小さな鍵だった。銀色に輝き、大きさに反してずっしりと重い。
「<黄昏の宮>の地下通路の鍵だ。地下の倉庫から入って、国外まで繋がっている」
「なんでそんなものが? いや、私が持っていていいんですか」
「万が一の場合の避難経路だろうな。今は誰も使う奴がいないし、その存在を知っているのはもう王族に限られる。お前一人が通ったって誰も気付きやしない」
「……つまり?」
疲労のせいか頭が働かない。ジェラルドが言っているのは、要するに。
ジェラルドは静かに言葉を紡いだ。
「逃げたければ逃げればいい。お前は何にだってなれる。聖女以外にはな」
「そうですか」
小さな鍵が、廊下の燭台の火を受けて輝く。指先で鍵を弄んだ。
「言ったでしょう。私はその道を選ばない。……どこかに行きたいのは、あなたの方なんじゃないですか?」
嗜虐的な気持ちになって、私は唇の端を吊り上げる。ずっとこの男にいいように言われていて、いい加減私も腹が立っていたのかもしれない。いつもなら口を封じる理性も、身も心も疲れ切った今は役目を放棄していた。
「私を唆してどこかへ行かせようとするのは諦めてください。きっと諦めるのはお得意でしょう。どうしてあなたはまだここにいるんですか? 何でもかんでも予測できるそのご立派な頭脳をもってすれば、逃亡計画を立てることなんて容易いと思いますけれど」
「お前……!」
激昂したジェラルドが声を荒げるが、私にはそよ風が吹くようなものだった。
「それでは御前を失礼いたしますね。ジェラルド殿下!」
吐き捨てて、私は浴室まで駆けていった。