2:聖女は<黄昏の宮>にて第二王子と出会う
<黄昏の宮>は、王都の端にこぢんまりと佇む、小さな離宮だった。クリーム色の外壁に赤茶色の屋根の壮麗な建物だったが、周囲を森に囲まれており、人気はなく、気をつけていても見逃してしまいそうなほどだった。特に夜である今は、巨大な獣がうっそりと森の中に蹲っているように見えて不気味だった。
私は荷物をまとめる暇も与えられず、馬車に詰め込まれて<黄昏の宮>に連行された。森を抜けて離宮の門に到着した馬車は、私を放り出すと一目散に引き返していった。
私は婚約発表の場にふさわしく、華やかな深紅のドレスを着ていた。シスターたちがああでもないこうでもないと言いながら選んでくれたものだ。私の赤毛によく似合うだろうと太鼓判を押されたし、シルエスにも綺麗だと褒めてもらえた。髪はこれまたシスターたちが大騒ぎしながらまとめてくれた優雅なシニョン。色々な騒ぎで崩れてしまった。
私の持ち物はそれが全てだった。文字通り着の身着のまま身一つだ。
「……まあ、いいか」
私は門から玄関までの小道を歩きながらひとりごちた。<黄昏の宮>で動きやすい服を借りよう。
玄関の扉をノックしても反応はなかった。しばらく待ったが、人の住んでいる気配がない。そっと扉を開け足を踏み入れた。
中は吹き抜けになっており、窓から月明かりが差し込んでいる。思いの外掃除が行き届いており、床には埃が積もっていなかった。
「すみません、どなたかいらっしゃいませんか?」
声を上げるも、残響が暗闇に吸い込まれていくだけで返事はない。私は顎に手を当てる。もしかして、<黄昏の宮>というのは無人で、私は一人で暮らしていけという指示だったのではないか。それならそれで気楽そう──。
「お前が間抜けな元聖女か」
「──っ!?」
驚いたときに声をあげてはいけない。魔獣に気取られるといけないし、何より聖女が狼狽えると全体の士気に関わるから。聖女としての染みついた習慣で悲鳴を噛み殺した私は、飛び退って身構えた。
夜闇から、一人の男が姿を現した。黒髪に金色の瞳を炯々と光らせた、背の高い男だった。年齢は私よりも少し上か。何よりも目を引くのは、その褐色の肌だ。異国の血を感じさせる、目つきの鋭い整った顔立ちをしている。くつろいでいたのか、寝衣姿だ。
私は暴れる心臓を抑え、呼吸を整えた。せめて優雅な淑女の礼をしようと、ドレスの裾をつまんで頭を下げる。
「本日からこちらにてお世話になるロザリンド=イースと申します。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします」
「ああ、本当に迷惑だよ」
男はばっさりと切り捨てる。こんな夜中に突然訪問されてはそりゃ迷惑だろう。私は首を縦に振った。
「私もそう思いますが、何せシルエス……殿下が決めたことなので」
「馬鹿な女にはめられて聖女を追い落とされたんだろう。それでこんなところに押し込められたんだから、お前は本当に愚鈍だ」
まんまとマリアベルの罠にかかった私が間抜けなのは承知しているが、この男、ありとあらゆるものを馬鹿にしていないか。なんでこんなに上から目線なんだ。それにやけに情報が早い。私が聖女を解任されてから、まだいくらも経っていないのに。
「あなたは誰なんです? 離宮に住んでいるのに最新の情報を手に入れているし、だいたいここ<黄昏の宮>も何なのかよく分からないですし」
低い声で問うと、男は顔をしかめた。腕を組み、
「聖女のくせに何も知らないんだな」
「あいにく元聖女ですから。で、誰なんです」
睨み上げると、男はため息をついた。
「俺はジェラルド=ド=フォスグレイヴ。抹消された第二王子、とでも言えばいいか?」
「抹消された第二王子……?」
急いで記憶を掘り起こす。シルエスには兄弟がいなかったはず。だから病気や怪我でもしたら一大事、と常に健康管理には気を遣っていた。どうして血を絶やしてはならないはずの王家に子が一人なのかというと……そうだ、十数年前に、王妃様が第二子を死産して、本人も産褥で亡くなってしまったからだ。それ以降、陛下は後妻を娶らず、シルエスが唯一の王位継承者として育ったのだ。
しかし。
「あなたがシルエスの弟? でも、その、あなたは……」
思わず彼を見上げる。この国の王族にはあり得ない、滑らかなチョコレート色の肌を持つ男を。
「そう。俺は国王の血を継いでいない」
「あ……」
私は口をつぐんだ。王妃様が亡くなったというのもきっと嘘なのだろう。不義の子を産んだ彼女は追放されたのではないか。それに、陛下が後妻を迎えない理由もなんとなく察せられた。
黙り込んだ私に、ジェラルドは嘲笑を投げた。
「ここは生きていても死んでいても困る人間が飼い殺しにされる、世界で一番綺麗な檻だ。こんなところに放り込まれるなんて、つくづくお前も運がないらしい」
唇を噛み締める。俯いているのを泣いているとでも勘違いしたのか、ジェラルドが静かに言った。
「……まあ、諦めるんだな。せいぜい仲良くやろうぜ、聖女殿?」
そうしてそのまま立ち去った。私は震える拳を握り、呼吸を整えていた。
……全然、知らなかった。
私が<黄昏の宮>預かりになるとシルエスが宣言したとき、あの場の貴族たちがざわめいていたのを思い出す。彼らは当然、全てを知っていたのだ。ジェラルドの存在は暗黙の了解であり、そこにいるけれどいないものだった。
私は何も知らなかった。聖女として王族や貴族たちと関わることも多かったのに、魔獣を祓うばかりで、知ろうともしなかったのだ。強く奥歯を噛み締める。
それにしても、とふと思う。
なぜシルエスは私をここに置いたのだろう。
私が不要になったのなら、国外にでも放逐すればよいはずだ。こんな離宮に閉じ込める価値は、私にはないのに。
窓から差し込む月光の向きが変わるまで、私はその場で立ち尽くしていた。