19:聖女は誘拐される
危険はないって言っていたのに──!
私は両手両足を縄で拘束され、湿った床に転がされていた。どうやら地下の一室らしく、窓はなく、ジメジメとした空気が辺りを包んでいる。床に置かれた燭台だけが頼りない明かりで周囲を照らしていた。物置か何かに使われているのか、大きな木箱がいくつか積まれていた。
ことの顛末はこうだ。シルエスと会って二日後。私は一日を終えて眠りに就いていた。何事もなく当然に朝を迎えられるものと信じ込んで。しかし、夜中に突然部屋の扉が開いたかと思うと、黒服を着た集団が現れ、私は悲鳴を上げる間も無く昏倒させられてしまった。そして目覚めて今に至るというわけだ。
シルエスから魔獣の真実を聞いてしまった以上、犯人は予測できる。宰相だろう。マリアベルの他に魔獣を祓える私が邪魔なのに違いない。いまだに殺されていないということは、私の力に何か価値があると考えているのかもしれない。魔獣を制御する技術の研究に役立つとか。しかし、どう考えてもろくな未来が待っていないことは確かだった。
私は床でモゾモゾと動いて、縄から抜け出そうと四苦八苦した。だが、特殊な縛り方でもあるのか、動けば動くほどきつく締め付けられる。手首に縄が食い込んで痛み始めた。
そうしているうち、地下室の扉の外に、騒がしい気配がやって来た。宰相だろう。私の様子を見にきたに違いない。
歯を食いしばって扉を睨みつける。軋んだ音を立てながら、扉が開かれた。
そこに現れた人物を見て、私は目を見開いた。
「あら〜? もう起きていたの。ずいぶん頑丈なのねえ」
「マリアベル……!」
蜂蜜色の豊かな髪を背中に流し、淡い桃色のドレスをまとったマリアベルが、私を見下ろしていた。人形のように愛らしい顔を侮蔑に歪め、白いブーツの爪先で私を蹴飛ばす。
痛みに呻くと、マリアベルは勝ち誇ったように高笑いした。
「ああ、いい気味! シルエス様もこんな小娘のどこがいいのかしら。卑しい血の平民で、大して美人でもなくて、どこにでもいる平凡な女なのに!」
「何を……」
「その点私は完璧よ。由緒正しい宰相の一族の娘、男なら愛さずに入られない美しさ、有象無象がどれだけ欲しがっても手に入らない高嶺の花だわ」
聖女追放の場では欠片も見せなかった悪辣な表情だ。あれだけ聖女にふさわしいのはナントカカントカと声高に訴えていたのにもかかわらず、彼女の本性はこれというわけだ。予想はしていたが、実際に目の当たりにすると、あまりの下劣さに吐き気を催した。
「それなのに、シルエス様は私を見てくださらない。私が聖女なのだから婚約してくださってもいいのに、ちっとも頷いてくださらない。どうしてだと思う?」
マリアベルが問いかけてくる。私は唇の片端を上げて笑ってやった。
「さあ? あなたが思っているほど、あなたは美しくないし、特別でもないからでは?」
「……口の減らない娘ね」
「卑しい血の元聖女なものですから」
マリアベルは冷めた目で私を見る。私も睨み上げた。
「あなたは魔獣が何かご存知ですか? 全てを承知の上で聖女なんてやっていると?」
一番聞きたかった質問をぶつける。もしかしたら、彼女は父親に利用されているだけで、魔獣の背景を知ればこんな馬鹿げたことはやめてくれるかも──などと、甘い期待を抱いたのだ。
けれどマリアベルは眉を上げると、あっさりと頷いてみせた。
「ああ、お父様が作っているんでしょう。知っているに決まってるじゃない。そうじゃなきゃ、聖女なんてやるものですか」
罪悪感も、被害の大きさも、何も考えていないような平坦な声だった。その真っ白な顔につまらなそうな表情を浮かべて、それが何か? とでも言いたげに首を傾げた。
頭の奥で何かが切れる音がした。
「正気ですか。自分の父親が作った魔獣で人々が襲われている。今も苦しんでいる人たちが大勢いる。家族も家も生活も理不尽に奪われて! それなのに、止めるどころか、聖女として嬉々として加担して、助けた人々から感謝されて、何か思うことはないんですか!?」
「別に、私が救ったんだから、私に感謝することは当然でしょ? 何言ってるのよ」
「魔獣なんて作って街に解き放たなければ、その人たちは脅かされることもなかった! そんなことも分からないんですか!」
「平民のことなんかどうでもいいわよ。それに、街を復興することで儲かるんだから、私たちは悪いことなんかしてないわ。むしろ世の中のためになっているのよ」
「欺瞞だ! 罪もない人々を犠牲にして、何が儲けだっていうの! 自分たちはのうのうと人を踏みつけにして安定した生活を送っておいて、さかしらに正当化するな! お前たちが手にしているのは人々から不当に奪ったもののくせに!」
「うるさいわねえ……」
マリアベルは私の腹に蹴りを入れた。緩慢な動作だったが、重いブーツがちょうど傷口に入り、私は悶絶して苦悶の声をあげた。
「あはははは! ざまあないわね! 私は自分が特別になるためならなんだってやるわ! それが聖女だったってだけよ!」
「どういう……?」
呻きながら見上げる。マリアベルは頬を染め、うっとりと両手を胸の前で組み合わせていた。その目は悪辣に蕩けている。
「特別になれない人間の気持ちがあんたに分かる? 分からないわよねえ! 死にそうになって特別な力が芽生えて聖女になれるあんたにはね!」
「私は……」
以前ならきっと、特別じゃないとか、特別になりたかったわけじゃないとか吼えていただろう。だが今なら胸を張って言える。ああそうだ、私は自分が特別になることを選んだのだ。人々を守るために。私と同じ目に合う人を二度と出さないために。
なんで私だったのかって? 決まっている。あのときそう願ったから、私は聖女になったのだ。
「本当、その目が気に食わないわ」
マリアベルがそばにあった木箱からナイフを取り出す。白銀の刃が、燭台の火を冴え冴えと反射した。
「お父様は、あんたを実験材料にするから取っておけと言っていたけれど……命さえあれば問題ないわよね?」
「この下衆が」
私は必死に床を這い、マリアベルから距離を取った。しかし、マリアベルは嘲笑いながら私に近づいてくる。
「馬鹿ねえ。そんなことしたって意味ないのに。あんたは特別かもしれないけれど、それも今日で終わり。精々いい悲鳴をあげて頂戴ね」
マリアベルが私の前にしゃがみ込み、ナイフを頬に当てる。その冷たい感覚に汗が滲んだ。
脳裏にジェラルドの言葉が蘇る。そうだ、私の力は破壊の魔法。魔獣以外にもこの力は効くはずだと。
ナイフを睨む。消えろ、消えろ、消えろ──。
「そんなに睨んじゃってこわ〜い。でも大丈夫、私は聖女だから、慈悲深く刻んであげるわ」
マリアベルの顔が興奮に蕩ける。その瞬間、頭の中で何かが切り替わった。
違う。消えるべきはこの女だ。
自分勝手な理由で無辜の人々を踏みつけ、奪うもの。誰かを傷つけても何も思わない冷血な人間。
──消えてしまえ。
強く念じ、マリアベルと目が合う刹那。
「そこまでだ」
低い声がして、マリアベルが悲鳴をあげた。褐色の手によって背後に腕がねじり上げられている。カランと音を立てて、床にナイフが落ちた。
「ジェラルド様……?」
「遅くなって悪かった」
マリアベルを締め上げているのはジェラルドだった。額にうっすらと汗をかいている。
彼の顔を見た瞬間、ドッと心臓が強く脈打った。
今、私は何をしようとした。
「マリアベル=レ=ジルレーン。聖女を騙った容疑で連行する」
ジェラルドの背後から兵士たちとともに現れたシルエスが、マリアベルに告げる。痛みに喚いていたマリアベルが、シルエスを見て狂乱した。
「違う! 違うんです! 私は悪くない! 騙されただけなの! この女が悪いのよ!」
「……連れていけ」
「お願いシルエス様私を信じて私は悪くないお父様がやれと言ってああああああああ!!!」
綺麗な髪を振り乱し、口の端から唾液を垂らす姿は、いっそ哀れなほどだ。私は急速に破壊衝動が失せていくのを感じていた。彼女には、塵になって消える以外に、もっとふさわしい罰があるだろう。
シルエスと兵士たちがマリアベルを引っ立て、彼女のわめき声が遠のいていった。
「ロザリンド、無事か」
ジェラルドが床に転がったナイフを拾い上げ、私を縛める縄を断ち切る。強く縛られていたせいで、手首にはくっきりと痣が残っていた。ジェラルドが労わるように指で痣に触れる。ぞっとするほど暗い目で、「あの女……」と呟きを漏らした。
「私はなんともないですから。それより、助けてくださってありがとうございました」
慌てて言い繕う。蹴られた部分はじくじくと痛み、マリアベルとの問答は気分が悪かったが、ジェラルドが来てくれたことは素直に嬉しかった。努めて明るい笑顔を作ってみせる。
彼は私の顔を見ると、手を伸ばして私の頬を軽くつねった。
「い、痛いんですが」
「……」
「いや、やっぱり痛くないかもしれません……?」
「痛いに決まってるだろ」
ぱっと手を離すと、両腕を広げて私の体を抱き込んだ。ずいぶんと暖かい体温に包まれ、それで私は自分が冷え切っていたことに気がついた。いっそ熱いほどだ。
もぞもぞと動いて胸元に耳を押し付けると、ジェラルドの心音が伝わってくる。私よりもずっと早く、力強い鼓動だった。
ジェラルドの声が頭に響く。
「なんともないわけないだろう。こんなところに拉致されて、ナイフで脅されていたんだぞ。苦しいとか怖いとか、何かあるだろう。目をそらすな」
「は……」
唇からかすかな吐息が漏れた。背筋に震えが走り、とっさに指を握り込む。ジェラルドが、震える私の体をより強くかき抱いた。
私はこうやって、いつも自分の感情に蓋をしていたのか。
唇を噛み、まとまらない思考をかき集める。組み立てた言葉をぽつぽつと声にした。
「マリアベルに足蹴にされたところが痛いです」
「そうか、あとで医者に診せよう」
「彼女との会話は苦痛でした。魔獣の被害を受ける人々のことを何も考えていないし、罪の意識なんかこれっぽっちもないし、私を実験材料にするとかなんとか言うし」
「あの女の余罪が増えたな」
ジェラルドの手が私の頭を撫でる。私は大きく息を吸った。
「でも、それよりなにより」
引き寄せるように、彼の服を掴む。
「私は、自分がマリアベルを本当に殺してしまいそうになったことが恐ろしいです」
頭を撫でる手の動きが止まった。一度言葉にすると、もう止まらなかった。
「前に仰っていましたよね? 私の力は魔獣以外にも効くということ。それをマリアベルに向けようとしたんです。ジェラルド様が到着するのがあと少しでも遅ければ、私は彼女を殺していました。魔獣にするのと同じように、彼女が消えればいいと心の底から念じてしまったんです」
ジェラルドは黙っていた。私は目を閉じる。
失望されてしまっただろうか。いっときの激情に任せ凶暴な力をふるう短慮な人間だと。憎悪を燃やして魔獣を祓っていた時点で、加害者の素質は充分だったと。
程なくして、ジェラルドが呆れたようにため息を吐き出した。私は身をすくめる。
彼はなんでもないように言った。
「それは当然のことだろう。ロザリンドはナイフを向けられて、危うく殺されそうになっていたんだぞ。自分の身を守ろうとするのは自然なことだ」
「え……?」
予想外の返事にぽかんと口を開ける。ジェラルドはなだめるように私の背中を優しく叩いた。
「ロザリンドは命の危険を感じた。だから必死に抵抗した。結果的に救援が間に合い、誰も死ななかった。それでいいだろう」
「でも」
私は食い下がる。
「間に合わなければ私は確実に殺していたんです」
「それでも、ロザリンドは誰も殺さなかった。いや、殺せなかった。それが全てだ」
「殺せなかった……」
呆然と呟く。ジェラルドは頷いた。
「そうだ。それに、そもそもこれからあの女の身に起こることを考えれば、死すら生ぬるいと言えるかもしれない」
「何が起こるんですか?」
彼の顔に、仄暗い笑みが灯る。
「もちろん、報いを受けてもらうんだよ」
なにを、と聞き返す前に、彼は私を横抱きにした。
「わっ、なんですか」
「宮廷医のところへ連れて行く。嫌とは言わせねえぞ」
「自分で歩きますよ、重いでしょう」
「させない。正直重いが」
「ほらあ。魔獣祓いの最前線で戦う人間の筋肉量を舐めないでくださいよ。私だってジェラルド様を抱えるくらい出来ますからね」
「何に張り合っているんだお前は。……もっとちゃんとしがみつけ」
「こうですか」
腕をジェラルドの首に回し、ぴったりと体を密着させる。顔が近づき、瞳に映る互いの姿を確認できそうなほどの距離で目が合う。彼が顔を傾け、私にそっと口づけた。
「な」
頰に血がのぼる。思考が停止し、体が硬直する。
「……おとなしく運ばれてろ」
そう言うジェラルドの耳が赤くなっているのを、私は決して見逃さなかった。




