ゆで卵を温める愚かな鳥
「ハルトお兄ちゃんはしっかりしているねえ」
弟のショウタの頭を叩き、無礼を注意するハルトはヒーローだった。周りの大人には、漫才にでも見えていたのだろう。ハルトがショウタの頭を叩くと、必ずドッとウケた。
二人兄弟の兄と弟は、性格が正反対だった。真面目で堅実だが心配性のハルト、天然で空気を読まない楽天家のショウタは、いつも兄が弟を注意して縛り付けていた。これをやると恥ずかしい、失礼だ、迷惑だ、といったネガティブな感情をぶつけ、首輪をつけたのだ。それは、猿回しのようだった。言うことを聞かないときは、友達の前で殴ったこともあった。歪な兄弟の関係において、ハルトのほうは「自分は間違っていないから正しい」と思っていた。
数十年後、ハルトは上京して大学4年生になっていた。就職活動の時期が近づき、履歴書のPR欄を埋めるため、「いのちの電話」の相談員をボランティアとして行っていた。
内容は、コールセンター業務と何ら変わりない。電話口の相談相手の鬱々とした会話を適当に聞き流し、時計の針が進むのを待った。5人目くらいだろうか、とある若い男から電話がかかってきた。
「はい、こちらいのちの電話相談窓口です。いかがされましたか。」
「死にたいです。」
「!?(ショウタの声だ・・・)」
「兄が嫌で嫌で、たまりません。自分の意見もいえないし、間違えば殴られるし地獄でしかない。動物以下だった。あいつのせいで、受験も就職活動もうまくいかなかった。」
ひとまず、バレないように声色を変えた。
「そうですか・・・でもよくお電話をしてくださいました。死んではいけません。生きていれば必ず幸せになるチャンスが巡ってきます。」
「いつ?誰が助けてくれますか?」
「もう嫌だ。こんな家に生まれたくなかった。あんなやつがいる家に・・・」
「・・・ショウタか?」
「えっ・・・ハルト?」
「久しぶり。盗み聴きしたみたいで悪い。たまたま今ボランティアで電話に出ている最中だったんだ。お前のそういう気持ち知らなくて・・・本当に申し訳ない。」
「ううう・・・」
「ショウタ?」
震えるような声、歯ぎしり、そしてショウタは泣いているようだ。
「ショウタ、今度ちゃんと話そう。」
「…ああ。じゃあ。」電話が切れた。
翌日、弟が自殺した。
実家の丸テーブルを前にして、ハルトは黒いスーツでじっと座っていた。母は駐車した後に、遅れて部屋に入ってきた。時刻は、夜の11時を過ぎたところだ。
「さて、ちょっと聞きたいんだけど」母が言った。
「何?」
「ショウタに何があったの?」
「俺が聞きたいよ」
「そう、こうなったことはあんたもわからないのね。」
まるで、自分が責められているみたいだ。
「しょうがないだろ。俺も東京にいたし、おかんも勤務中だったなら尚更だ。」
本心だった。あの電話を受けたとはいえ、それはこれから話し合っていくはずだったのに。
少なくとも俺は、そう言ったはずだ。
「しょうがないって、なによ。」
「ん?」
「もっと前の段階で、私たちが気づくべきだったはずじゃないの?」
「あの子は、確かに上手くいかないことが多くて参ってた。でも、良いところもいっぱいあった。そんな簡単に、見限らないでよ。」
「誰も見限ってないだろ、見限ったのはあいつ自身だ。」
「あんたも、全く変わらないのね。」
そういって、母はリビングから自分の部屋に戻っていった。ハルトも、部屋に戻って明日の準備をした。
東京に戻ったあとの就職活動は、惨敗だった。
面接までは、かなり順調だったのだ。一流大学での成績もトップクラス、テストセンター試験もほぼ難なくクリアしていたので、面接まで進めなかった企業はない。
だが、面接で急ブレーキを踏んだ。
「君、論理的であればそれでいいと思ってない?」
「結局、〇〇くんは本当にうちで働きたいの?」
「研究してきたことをそのまま生かせる仕事なんかないんだよねえ・・・」
なんだこいつらは。何か俺が間違っているか?
ハルトが面接で喋っても、まるで自分の言葉が届かなかった。
異星人と話をしているみたいだった。
就職活動解禁の6月上旬から、2か月経った。
ハルトは、内定が取れなかった。
大学は夏休みに入り、ハルトは寝ることができなくなった。あのときの面接官の言葉が、ずっと頭の中に響いていた。
「うるさい・・・・」
そこから、昼夜逆転の生活が始まった。
夜に寝ることができないため、酔いつぶれるまで酒を飲んだ。起きると、だいだい昼を過ぎていた。何も考えたくなかったから、寝るために市販の睡眠導入剤を買いに行った。なぜか薬局の店員から、睡眠導入剤の使用上の注意をその場で説明された。正直、うっとおしかった。
冷蔵庫にあったジャックダニエルで、睡眠導入剤を、流し込んだ。
眠気が来るまでは、アメリカンスピリットをふかした。
10月に入り、大学の教務課から電話がきた。
「教務課の林です。〇〇さんのお電話番号ですか。後期に卒業論文を提出して頂かないと、卒業証明書を発行できません。ただちに履修してください。指導教員の先生は、どなたですか。このままいくと、就職予定の場合、内定取り消しになる恐れが」
「それで結構です。」
「は!?授業の単位は全部そろっていますよ?」
「学業なんて無駄でしたから」
睡眠導入剤がなくなった。買いに行かなくては。
正式に大学から連絡が来た。授業料未納の連絡と、後期単位数の取得は0という通知だ。このままだと退学になるらしい。睡眠導入剤をラムネみたいにかじって、酒で流し込んでいると、
泣きじゃくるハルトがいた。
耳に聞こえる音も、目に見える景色も、
食べ物の味も、フローリングの感触も、酒の匂いも、
その意味を無くしてしまったようだった。
その夜、ハルトは東京の家を出た。
気づけば、母の家の前にいた。田んぼに囲まれた、丘の上の古い一軒家だ。ピンポンを鳴らした。戸が開く。
「あんた、急に帰ってきてどうしたの?」
「・・・」
「ちょっと・・・」
「・・・」
ハルトは、自分の部屋に戻ろうとした。2階の部屋だ。
その横が、弟のショウタの部屋。
「・・・」
ハルトは睨みつけるようにそのドアを見据え、とうとう弟の部屋に入った。
そこには、
たばこの吸い殻、
酒のロング缶、
ゲーム・漫画、
そしておびただしい数の履歴書が散乱していた。
ハルトの、東京の部屋とほとんど一緒だった。
その時、ハルトの中でいろんなものが頭の中でつながった。
この状況で、正論を叩きつけられたら、人間はどうなるだろう。
今の状況を、嫌いな奴に見られたら、人間はどうなるだろう。
それが、家族だったら・・・
人間はどうなるだろう。
その時、母が2階に上がってくる音だけが、ハルトにはただただ怖かった。
その後、ハルトは1年留年をして大学を卒業した。授業料は一時的に母に立て替えてもらい、アルバイトをして返した。
就職先は、必死の勉強と面接対策により、地元の県庁に公務員として就職した。
配属先は希望通りだった。
健康増進課の自殺・アルコール問題対策班である。今は、日々一人一人の声に耳を傾けている。
もう聞いているフリは、許されないから。
数年後のある日、ハルトは仕事を早めに切り上げ、あるところへ向かった。
「よう、また来たぞ。ショウタ。」
独り言を聞かれていないか、墓地の周りを確認する。夕暮れに照らされながら、線香に火をつけた。それを、そっとお墓の前に立てて、しゃがみ込む。
「オレ、最近ゲーム始めたよ。あんなもん、人生に無駄だと思ってたんだけどなあ。意外とおもしろいね。」
「お前の部屋からも、ソフト借りたぞ。これ。」
墓の前で、ゲームソフトのパッケージをかざす。
「FPSっていうの?お前のスコアがなかなか超えられなくってさ・・・」
午後5時のチャイムが、近くの小学校から聞こえてきた。
「・・・」
チャイムの音がだんだんと小さくなっていく。
「こういう話を、もっと出来たよな。」
「でも、兄ちゃんどうしていいか、わからなかったんだ。」
「・・・」
「せめて、兄ちゃんを呪い続けてくれ。」
夕闇の中、帰り支度を始めた。