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右柱は恋をしていない

 僕は(はしら)


 古家の隅の小さい和室を支えている側柱(がわばしら)だ。


 僕は、誰とも恋をしていない。


 だから部屋の中で色恋話をされると困ってしまう。

 僕以外のみんなはそんな話が大好きだからなおさらだ。


 気にならない相手がいないわけではない。

 けれど、決してこれは恋ではない。

 なぜならば、その相手に僕の声は聞こえないからだ。


 彼女との最初の思い出は、彼女が赤ちゃんだったころのものである。


 ハイハイで部屋までやってきた彼女は、僕のそばまで這い寄ると、どういうわけかそこで気持ちよさそうに寝転んでしまった。どうしてそこで寝てしまったのかは分からない。窓から差し込む日差しでちょうどそこが温められていたのかもしれないし、柱の表面がひんやりと冷たく、ほっぺの熱を和らげるのに最適だったのかもしれない。


 ただ、彼女に対する第一印象が最悪だったのは間違いない。なぜならば、彼女は僕の体にこれでもかというぐらいよだれを擦りつけてきたからだ。それはもう体の表面に照りが出るくらいびちゃびちゃになった。泡立っていたし、糸も引いてた。エンガチョしたかったけど、僕は柱だからどうしようもなかった。なぜだか彼女は笑ってた。僕はひとりで静かにキレてた。


 次の彼女との思い出は、彼女が立って歩けるようになったころのものだ。


 彼女は僕に背を向けて立つと、なぜか持っていたカッターで、彼女の頭の後ろにあった僕の体をこれでもかと刻み始めた。めっちゃ痛かった。正直めっちゃ痛かった。それより何より、何をトチ狂ったのかと彼女の正気を疑った。


 彼女は正気だった。何のことはない、彼女はただ自分の身長を測りたかっただけだった。だったらカッターじゃなくてもっと柱に優しいペンを使うとか方法が色々あるだろうと抗議をしたかったけど、小さかった彼女にとっては印がつければどうでもよかったのだ。自分の成長を示す傷を見て、彼女は嬉しそうに笑っていた。僕は痛みに震えていた。樹液が出るかと思うくらいに、彼女につけられた傷は深かった。


 なお、次の身長測定はカッターではなくペンが使われた。カッター禁止令が出されたのだ。彼女は反抗したようだが、正直しょうがないと思う。僕の身体と違って彼女の身体は柔らかく、傷つきやすいものだから。


 高校生になった彼女は随分と大きくなった。もう僕の身体で身長を測ることもなくなっていた。カッターの傷とペンの印は見えにくくなってしまったが、まだ僕の体に残っている。僕に印をつける代わりに、そばに置いてある姿見で身だしなみを整えるのが彼女の日課であった。


 髪をひとつに括り、前髪を整え、少し歯を見せて笑顔を確かめるのが彼女のルーティーン。「よしっ」と納得すると彼女は「いってきます!」と声をかけて元気に部屋から出ていく。僕も小さく「いってらっしゃい」と返事をするが、もちろん彼女には聞こえない。聞こえないのにどうして声をかけるのか。そう聞かれるのが嫌だったので、僕は極力小さな声で彼女に返事をしていた。「僕に挨拶しているように感じたから」だなんて恥ずかしくて誰にも言えやしない。だからこれは僕だけの秘密の挨拶だ。


 大人になった彼女は滅多に部屋に来なくなった。数ヶ月に一度、思い出したように来てくれたときも、なんだか疲れたようにやつれていて、部屋の掃除をするだけですぐ引っ込んでしまった。どうしてしまったんだろう。


「彼女。どうやら仕事が大変みたいよ」


 噂好きの奥襖さんがその理由を教えてくれた。


「そうなんですか? ……そんなに大変ならやめればいいのに」

「簡単にできたら苦労しないわよ。あんただって柱を辞めるのは大変でしょ」

「それはそうだけど……」


 そうか。彼女にとって仕事を辞めるのは、僕が柱を辞めるくらいに大変なのか。そんなことを思っていたら、彼女が部屋の中に入ってきた。


 どうしたんだろうと思って注視していると、彼女はどたっと目の前で倒れた。すごく驚いて、思わず叫び声を上げそうになった。けど、彼女の口がとてもお酒臭かったので僕は思い留まった。


「ぐえっへっへ……。あー、世界がぐるぐるするー」


 何のことはない。彼女は酒に酔っていただけだった。彼女は「あのセクハラ上司めー……」とか「ハゲのくせにハゲのくせにハゲのくせにハゲのくせに……」とか「女だから仕方ないって、何だー!!」などと、憂さ晴らしをするように酔った勢いで喚いていた。そんなことを言わないとやってられない仕事なのか、と僕は彼女のことが心配になった。けど、その心配は次の瞬間にどこかへと吹き飛んでしまった。


「おっぷ……、あ、やば……う、お、オエェェェーーーーー!!」

 

 彼女は盛大にゲロをしたのだ。滝のように溢れ出た煌めく汚濁は、畳を汚し縁を越え僕の周りに池を作った。


「!! ギャー!!」

「オエェェェーーー!!」


 一時(いっとき)、そこは地獄だった。



 それからしばらくして、彼女は結婚した。仕事もやめたみたいで、体調もすっかり元気になった。

 

 ただ、この部屋にはあまり来なくなった。ときたま思い出したように掃除をするくらいで、彼女たちはもっと広い部屋で生活していた。ここは古家の隅の小さな部屋だから、仕方がない。


 柱に刻まれた傷は、薄くなってほとんど見えなくなっていた。



 さらに時は過ぎた。彼女に子供が生まれ、その子供が成長し、孫が生まれた。その頃になってようやく彼女はまたこの部屋で過ごすようになった。大きな部屋は息子夫婦たちに譲り、自分は子供の頃に使っていたこの部屋に戻って来たのだ。


 この部屋は彼女の趣味で埋め尽くされている。彼女は物を作るのが好きで、彼女が作った木彫りの小鳥や、紙で作った動物や植木花が部屋には飾られていた。部屋の中央の小テーブルに正座して、ちくちくとそれを作るのが彼女の趣味だった。彼女が作業する姿を見ながら、僕はいつもぼーっとしていた。他のみんなが話す色恋話よりも、それを眺めている方が楽しいと思えたのだ。


 いつの間にか彼女は脚が不自由になっていた。右脚がときどきうまく上がらないらしい。けれど彼女は何かと自分で歩き回り、自分のことは少しでも自分でやりたがった。家族は少しでも手を貸そうとしたが、彼女はそれを嫌がった。


 彼女は立ち上がると、僕の体を掴んで襖を開き、杖をついて部屋から出ていく。そんな彼女を見るたびに、僕は少しでも彼女が歩かなければいいのにと、そう願わずにはいられなかった。

 

 そんな彼女は、あるとき盛大に転びそうになった。右脚が上がらず、自分の体を支えることができなくなり、杖が畳を滑った。彼女の上半身はつんのめるように傾いて――。


「あっ」

「危ない!」


 すんでのところで止まった。突き出した彼女の左手が、僕の体を掴んでいたのだ。


「あー、危なかった……」

「本当だよ、まったくもう」

「柱さんが居て助かったわぁ。……いつも、体を支えてくれてありがとね」

「そうだよ、感謝してね。いい加減、家族の手を借りなよ」

「家族には、あまり心配して欲しくないのだけど、そろそろ限界かね……」

「そうそう。ようやく自覚したね――って、あれ?」


 そのとき、僕は違和感に気づいた。

 僕の言葉が、彼女に通じているように思えたのだ。


「……けど、まあ、もう少しだから。もうしばらく、体を借りるわね柱さん。それまで、ごめんね」

「え、あのちょっと――」

「あら?」


 僕の言葉を無視するように、彼女はそっと僕の体をなぞった。


「……あー、懐かしいわね。私がカッターでつけた傷だわ」


 彼女が僕に触れたのは、確かに彼女が切り刻んだ場所だった。

 ぐいぐいと、がしがしと、慣れないカッターで彼女が付けた不器用な傷を、彼女はそっと丁寧になぞった。


「……ふふ。今思うとひどいわね。ごめんなさい、柱さん。痛かったでしょう」

「……まあね。樹液が出るかと思ったよ」

「そういえば、ここでもどしちゃったこともあったわね。掃除が大変だったわ」

「酒とゲロの臭いで大変だったよ。しばらく体に臭いが染み付いちゃったもん」

「あなたは変わってないねぇ。ずっと同じ色をしてる」

「そう思う? 結構色褪せちゃったんだよ。昔に比べるとね。君こそ随分と変わったよね」

「私の手はこんなに皺が増えちゃったわ。年寄りだものね」

「僕のほうが年齢は上だけどね」

「……もう少しだから、最後まで助けてね」

「だから、それは僕じゃなくてさ、家族に言いなよ」

「家族には……ちょっと言い辛いから」

「なんでさ。僕には言えるのに」


 僕がそう尋ねると、彼女ははにかんだように「ふふっ」と笑って、


「あなたは何も言わないから、こんなふうに甘えちゃうのよね……」

 

 と答えた。


「……」


 その笑顔に、僕はそれきり何も言えなくなった。

 何か言おうとするたびに、何と言えばいいのかわからなくなるのだ。

 何も言えなくなった僕の体を、彼女は慰めるように撫で続けていた。

 いつまでも、いつまでも。

 彼女の気が晴れるまで。

 彼女が存分に甘やかされるまで――。


 

 それからしばらくして、彼女は亡くなった。

 彼女の遺品は整理されて、部屋は綺麗に片付けられた。

 思い出したように誰かが荷物を置きに来るとき以外は、この部屋には本当に誰も来なくなった。


 誰も来ない部屋だけど、部屋のみんなはいつもいろんな話で暇を潰している。噂話や怪談に落語。しりとりや古今東西といった言葉遊びもするけれど、なぜかみんなが一番好きなのは色恋話だ。


 僕は、誰とも恋をしていない。

 だから部屋の中で色恋話をされると困ってしまう。


 気にならない相手がいなかったわけではない。

 けれど、決してそれは恋ではない。

 なぜならば、最後まで彼女に僕の声は聞こえなかったからだ。


 彼女の声は僕に聞こえていた。

 僕の声は彼女に聞こえなかった。

 僕らの意思疎通はいつも半分だった。


 だから、彼女に対する僕のこの気持ちは、決して恋とよべるものではない。

 みんなが嬉しそうに話す、キラキラしたものでは決してないんだ。


 ……ただ。少しだけ。

 彼女とのやり取りを通じて、僕は少しだけ恋について分かったことがある。

 最後にほんの一時だけ、僕は彼女と通じ合えた。

 それはもちろん錯覚だったのだけど、そのとき僕は新しい気持ちを知った。

 あの、何て呼んだらいいか分からない、体の奥から溢れてきた、あの気持ち。

 あの気持ちの積み重ねが恋だというなら、それは決して悪いものではないんじゃないかと、僕はそう思うんだ。




 最近、部屋がきれいになった。彼女が亡くなってから物置のように扱われていたこの部屋だけど、どうやら子供部屋として使うらしい。彼女のことを思い出したのは、きっとそれが理由だろう。


 棚も作ると聞いた。無事だった彼女の遺品を飾るらしい。


 この部屋を使うという子供も見た。溌剌とした女の子で、どこか彼女と似た雰囲気をしていた。

 どうか、似ているのは雰囲気だけに留まってもらいたい。彼女のように体を傷つけられるのは、もうごめんだ。


 そんなことを思っていると、その女の子はとてとてと僕の前にやってきた。どこか期待に満ちた、悪戯っ子のような笑顔だった。


 女の子の手にはハサミが握られていた。


 ……すごく不安になった。


 そんな僕の不安をよそに、彼女はくるんと僕の前で反転した。柱に体を預けて、片手でハサミを器用に開いて、頭の後ろに剥き出しの刃をそっと近づけて――。



 彼女の部屋に、僕の悲鳴が響き渡った。

最後までお読みいただきありがとうございます。


これにて本作品は完結です。

感想や評価などいただけましたら嬉しいです。


もしご縁がありましたら、また別の物語でお会いしましょう。

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