七、
ワンジュの五つある季節のうち、春はもっとも変化に富んでいる。その年も数日の暖かい日があったかと思うと肌を刺すような風が吹き抜ける。天気の移り変わりが何度か繰り返されて、ようやく暖かさが落ち着いたある日のこと。
「やあ、シムナナムナ。いいコーヒー豆は入ったかい?」
「あ、ジェロさん、」
喫茶店にジェロが顔を出した早々に、シムナナムナは辺りをうかがうように声を潜めて聞いてきた。
「今日の天気、なんだか変だと思いませんか?」
「なにが?」
「昨日の夜、星の見え方がおかしかったんです。まばたきが多くてぼんやりしているような。」
「ふうん。」
「そうなんです。」
「それより注文いいかい?」
「はい。」
それでジェロは話題を打ち切ったつもりだったが、シムナナムナはひとり言のようにつぶやきを続けた。
「ともかく今日はいろいろ調べてみようと思っています。今朝からそう思っているんですが、どうも内陸域からの情報がほとんどないんですよね。いつも情報交換している人たちから全くです。何か事件でもあったのか。」
「そうかい。」
その日、ジェロは仕事で心の余裕がなかった。完成間近のプログラムがあって前の夜から寝ていなかったのだ。だからシムナナムナの話を、いつも以上の上の空で聞いていた。プログラムは半日ほどかけて仕上げればようやく完成だ。その後はしばらくデータをためて不具合が出ないか確かめる予定で、明日になれば、ぐっと作業が楽になるはずだとジェロは見積もっていた。あと半日分の力をなんとか絞り出すために、ジェロは店に来ていた。
「今日はコーヒーだけ飲んですぐ引き上げる。今日やりきれば明日から休みだ。」
「かき入れ時なんですね。忙しいのはいいことです。」
それからコーヒーの準備に入ったシムナナムナは、ようやくいつもの調子で、真剣にコーヒーと向き合いだした。
リサからジェロへ連絡が入ったのは、その晩だ。電話口のリサは困惑していた。
「お久しぶりね。さっそくで悪いんだけどすこし教えてくれないかしら。」
寝込みを覆われたジェロは頭がうまく働いていなかった。ようやく迎えた深い睡眠であり、すぐには頭が働かない。
「・・いったい何事だい?」
「あなたのお友達よ。シムナナムナさん。方々に電話しているようね。夜だろうが仕事をしてようがお構いなしに。」
何を言っているのか分からない。そう言えばこの電話の前にも呼び出し音が鳴っていたような気がした。夢か現実か曖昧な記憶が呼び起こされる。
「キツジさんからアクツさんにも電話がかかってきたわ。珍しく夜まで仕事しているもんだから私もいい迷惑よ。キツジさんとアクツさんの電話の最中に、今度はシムナナムナさんから私宛てに電話が来て、結局一番近くにいるあなたに状況確認を依頼することにしたの。もちろんこれは業務命令じゃないわ。私たちの変わらぬ友情を前提にしたささやかなお願いよ。」
よく言ったもんだ、まだ朦朧とした頭の中でジェロはつぶやく。ジェロの頭は徐々に覚醒し始めたが、かと言って状況が飲み込めているわけではない。
「もうすぐワンジュに砂嵐がやってくるって。だからそれをみんなに知らせてほしいって。」
ジェロはいつかのシムナナムナの言葉を思い出す。
『雨の夜は天体観測はできません。でも、ですね。激しい雨の時でも一瞬、夜空が見える時があるんです。その一瞬で分かることがありそうです。』
『そんなもんかな。それにしたってだから明日の天気がどうなるわけでもないだろう。』
『でも、特別な現象なら分かることあるかもしれません。分かったらジェロさんにはすぐ教えてあげますよ。』
そうだ、ジェロは最初に自分のところに電話したに違いない。それから手当たり次第に電話しているのだろう。あの霧の出た夜のように、彼は一生懸命に何かをやろうとしているのかもしれなかった。寝ぼけているジェロでもこの段階になって、シムナナムナと連絡をとらなくてはいけないことを理解した。
電話をしても応答がないので、ジェロは車に乗り込んでシムナナムナの店へ向かうことにした。空を見て何かを感じとったのであれば、その場所以外に考えられない。シムナナムナの店、そこには彼の天文台もラジオ局もある。つまりは今のシムナナムナの全てがそこにあるのだから。
今、シムナナムナは何をしようとしているのだろう。車を走らせ始めた所で、シムナナムナの声がするか確かめるために、ジェロはラジオをつけた。
『いいですか、みなさん。
まもなく、このワンジュに危険な砂嵐がやってきます。この砂嵐はいつもの西の大砂漠からやってくる、うっすらとしたものではありません。ここ数年で新たに広がってきた乾燥帯、ここから南西で生まれたものです。今まではこんな所で嵐は発生しなかった。なのにそれが発生して近づいているんです。
恐ろしい風を伴った春の嵐、厄介なことに砂を多く含んでいます。ワンジュあたりでは旋風を強化してしまうかもしれない・・。ボクは西域に住んでいた時に二回だけ遭遇したことがあります。春の嵐に、砂嵐が重なった時、それはそれは恐ろしいものになります。動物たちを建物の中へ入れて下さい。家の窓という窓、扉という扉は閉めるのです。ボクのいた空港では大きな礫が飛んできてガラスにひびが入りました。窓ガラスは板で塞いでしまうのが一番です。
いいですか、みなさん。もう買い出しに行くのは間に合いません。すぐに手に入るもので、家を密閉する準備を行って下さい。』
その声はシムナナムナが興奮している時のものだ。それを聞いてジェロの意識はようやく完全に明瞭になった。彼の声は真剣そのもので、狂気をはらんでいると思われてもしかたのないものだった。
ジェロが車を加速しようとした時、そこでキツジから連絡が入った。先にシムナナムナからの電話を受けていたキツジは、すでにこの街で起きていることを調べていた。
「シムナナムナの予想は今回は妥当だったようです。すでに最高ランクの砂嵐アラームを出されています。・・それ以上に出来ることはない、と。それが該当機関からの返答でした。」
「もう出来ることはない?」
「一番強い警戒を促している。だけ・・、シムナナムナはホッタイトで数年に一度起こる規模の砂嵐をイメージしているらしいですから。ワンジュにそんな嵐が来るなんて聞いたことがない。もしくれば歴史上初めてのことですし、・・・・・を伝える方法は今以上にないと・・・んです。」
「シムナナムナは真剣そのものでしたよ。」
「ああ、よく分かって・・・。でも、十分に警戒させたから後は寝て待つしかないというのが地元情報台の見解ですから。それに・・・恐れるのはデマの・・によるパニックで・・・・、まあ無難・・・・ょうが、シムナナムナとはえらい違いですよ・・・」
音声が途切れがちなる。それはどんどんひどくなってきた。
「すこし電波が悪いようだ。僕は今夜は彼にとことん付き合いたいと思っています。キツジさん、僕は何をしたらいいと思いますか?」
「簡単なことです・・・、・・さん、・・・あなたはただ・・・あげればいい。もう一度言っておきます。ただ、信じて・・・、れだ・・・・・、・・・・」
「はい?」
その後、電話の回線は途切れてリダイアルにも反応はなかった。ジェロは周波数を変えて広域ラジオに合わせてみたが、なんの反応もない。ノイズが多いのだ。シムナナムナのラジオ以外のいかなる電波もとれなかった。ジェロの中で、嫌な予感が大きな波紋のように広がる。車のフロントガラスから闇夜に目を凝らす。いつもよりも赤みがある夜空だ。
「まさか、嵐が始まっているのか。」
大嵐が砂漠地帯で発生した場合、落雷を伴ったり、電波障害が発生することがある。時には磁気嵐と言っていい規模になることも、知識としてジェロは知っていた。まさか、その状態が今だとしたら、シムナナムナの予測が今回ばかりは当たっているのかもしれない。
「小さい子供、特に呼吸を気にして下さい。密閉した部屋にいる必要があります。濡れた厚いタオルを用意して下さい。バケツに水を貯めておいた方がいい。・・・窒息しないように、でも砂塵が肺に入るのを防ぐ・・・あります。」
シムナナムナの声は続く。磁気嵐の影響を受けにくいのは狭域ラジオの特徴でもあるはずだ。しかし、次第にシムナナムナのラジオさえ途切れ始めた。
「・・砂の中に・・がありま・・、含まれて・・・当然で・・・・・・、・・・・」
あっという間にシムナナムナのラジオもノイズにまみれた。ジェロはいよいよ砂嵐がやってくることの覚悟をした。よく外れる予測が、大事な時だけは当たる、なんて扱いにくいんだろうと、ジェロはため息をついた。これからくる砂嵐の規模は分からない。シムナナムナの言うように、幼子や動物を避難させなくてはいけないほどの規模なのだろうか。
可能性だけで注意を喚起することは、当たったり外れたりを繰り返すだけの予測より価値は高いのかもしれない。完璧な予測ができないのなら、こんな時だけ大事な時だけ考えるのも一つの答えだ。ただ、それは予測というより、すでに他のものだろう。例えばシムナナムナのラジオのような、そんなものだ。
ジェロはそんなことを考えながら、シムナナムナのもとに車を走らせた。ライトの前にわずかに黄土色の粒子が浮かんでいるように見える。アンテナに近づいているというのに一向にラジオからシムナナムナの声は戻ってこなかった。
空港の副管制室だった部屋の扉を開けると、シムナナムナは興奮した顔で振り返る。ジェロを見て表情を緩めた。すこしは安心したのだろう。でもすぐに決心を固めるように前に向き直ると、相変わらずマイクでラジオを聞いている人に強い口調で話しかける。それはあの霧の夜と同じように、いやそれ以上の興奮だった。
「いいですか。何度でも繰り返します。砂嵐が襲来します。牛や馬、ロバを入れて下さい。ボクはホッタイトという砂漠の街に十年ほど住んでいました。そこでは二、三年に激しい砂嵐がやってきます。その状況にそっくりなのです。ホッタイトは皆が準備をしているのにそれでも多くの動物が死んで・・、人が死ぬ時だってあった。
いいですか。みなさん。とにかく危険なのです。この街の人が誰も知らない、そんな危険なものがやってくるんです。大盆地の友人と今日になってようやく連絡がつきました。凶暴な嵐にやっと過ぎ去ったとその友人は言っていました。その嵐が今、大河の流れに沿って向かっています。友人の街は見るかたなく変貌してしまったそうです。しかも、その嵐の先に黄土色の雲が見えたと、写真を友人はくれました。恐ろしい雲です。大盆地を迂回した雲、嵐は大盆地を過ぎてしばらくすると発達しますから、だから危険なんです。」
これは本当に砂嵐が来なければ気が狂っていると思われてもしょうがないぞ、とジェロは思った。だが、今はその前に彼に伝えておきたいことがある。
「シムナナムナ、落ち着け。そのラジオは誰にも届いていない。」
「危険な砂がたまっています。ここ二年ほどはなかった。その砂はどうやら南側のエリアでたまっていた。たまった砂がくる、新たな砂漠帯からの初めての凶器が飛んでくるのです。とてつもなく悪性の恐れがあります。」
シムナナムナは引き続きマイクに向かったままだ。
「やめろ。磁気嵐がすでに発生している。ラジオの電波はもうどこにも届かない。ここに来る途中のカーラジオでさえ受信できなかったんだ。」
「え・・」
シムナナムナはマイクを切ると、打楽器の民族音楽を流した。それでようやくマイクの前から離れて、ジェロの方を向き直る。
「もう磁気嵐が起きているのですか。そうかそれは考えられる。」
「シムナナムナ、すまない。電話に気づくのが遅れた。」
「ジェロさん、来てくれたんですね。ありがとう。助けて下さい。もう時間がない。手伝ってほしい。ボクは一人でも多くの人を救わねばならない。」
シムナナムナの顔色を見て、すでにだいぶ疲れていることが分かった。ここまで興奮状態が何時間も続いているのだろう。
「ボクはもっと伝えなくてはいけない。すこしでも早く。ジェロさんは街へ戻って皆に砂嵐が来ることを伝えて下さい。ボクの放送の内容を伝えるだけでいいですから。」
「ちょっと待て。その前にシムナナムナ。きみは喉が枯れているぞ。」
「大丈夫です。」
「本当に大丈夫か?」
「今日です。今日しかないんです。」
その真剣さにジェロの心が痛んだ。きっとシムナナムナの今の一番の友達は自分のはずだ。シムナナムナといつから友達になったのはもう覚えていない。ただ、ジェロには分かっていた。彼が何か言いたいなら、それは信じてあげたいと自分が思っていることを。それは、あまりこだわりを持たずに生きてきたジェロのたった一つの心の支えであることを。
その一瞬、ジェロは多くのことを考えた。今までジェロには、シムナナムナのように何があってもやろうと思うことがなかった。それはジェロは調和を重んじ、誰にでも合わせられるように生きてきたからで、多くにこだわらないのが彼の人生の曖昧な指針だった。
人は何にもこだわらず果たして人は生きていけるのだろうか、そんなことを考え出したのはシムナナムナと出会ってからだったし、だから彼はオーギュシティがつまらなくなってしまったのだ。
ジェロは人を愛することを当時はひどく抽象的なことだと思っていた。でも実際はとても具体的なものだった。それは一生懸命に考えて行動することで、シムナナムナがやっていることなのだろう。
いくつかの思考が頭を通り過ぎた後にジェロは決心した。シムナナムナの思いが妨げられることがないように、なんとかしようと、そのことを考えることを決めた。
「分かったよ。シムナナムナ。とにかくすこし水を飲んでくれ。持ってくるから。」
「ああ、ありがとう。ジェロさん、あなたが来てくれて良かった。」
「シムナナムナ、磁気嵐が発生していることを考えると、ひょっとしたら嵐は本当に間近まで来ているのかもしれない。電話も通じないんだ。」
「・・・そうかもしれません。もうダメだ。ボクに出来ることはもう何もないのでしょうか。ボクのやってきたことは全く意味がなかった・・・。そうだ、今、ボクが出来ることは街に行って、一緒に家畜を避難させてやる手伝いをすることだ。」
そう言うと急にシムナナムナは立ち上がったが、ジェロはその肩に手をかけた。」
「シムナナムナの君の出した予測を僕は信じるよ。」
「もう意味などないんです。今できることは誰かに起こることを伝えることは。後は行動するだけですから。ボクはその手伝いをしなくてはいけない。」
ジェロはなぜかシムナナムナをここから出してはいけないと思った。それはこれから始まる嵐の中へ行ってしまえば、シムナナムナが死んでしまうという予感がしたからだ。
「もうない? きみに出来ることはない? 本当か? きみにしか出来ないことがあるだろう。」
「もうボクの予測や警告なんてなんの意味もない。それよりボクは放牧種の避難を手伝いたい。それが出来ることなんです。」
「シムナナムナ、僕が街には行ってくるよ。その方がいい。きみはここにいて出来ることをやるんだ。」
「ラジオが聞こえていないのでは、ここにいても全く意味がないんです。」
「本当か?」
「・・・ネットでも音声ストリームを流していました。」
そこでシムナナムナは手元のツールで思い出したようにネット接続を確認した。ジェロもその手元を覗き込んだが、画面には全く反応がない。すぐに接続不可のメッセージが流れた。
「サーバにはアップされている。だけどブラウザではダメです。これでは外部へネットが繋がっているか確認できない・・。」
「シムナナムナ、よく考えるんだ。」
「磁気嵐は途切れることはあるでしょう。でも、ボクはそれより街へ行くべきです。」
「街に行くことは僕にだって出来る。そうだろう。でも、ラジオで伝えたり予測をするのは、今、きみにしか出来ない。」
ジェロは今の自分の行動の意味が全く分からずにいた。とにかくもシムナナムナが外に出ると死んでしまうという確信があり、だけどシムナナムナの思いを大事にしたいと、いくつかの思いが重なっていた。
ジェロがわずかな奇跡の到来を感じたのはそのすぐ後、聞きなれない音が響いた時だった。壁際のライン、ジェロはそこに表示された略語を見て、それが中央局からの直通回線であることを知る。
「これ鳴ったことはあったかい?」
「いいえ。初めて聞く音です。」
ジェロは点滅しているラインのスイッチを入れて、返事をする。
「はい。」
「あら、こちらはオーギュシティ、世界交通機関のリナステマッケンよ。そちらはワンジュの元空港施設で良かったかしら。」
「ああ、リサ。ボクだよ。ジェロだ。」
「やっぱりそうなのね。これはあなたのミスよ。回線解除の申請をしていないからまだ止まっていないじゃない。回線棚卸の時期まで無駄な回線のコストが発生するのね。まあ、でも、今夜に限っては繋がって良かったわ。」
「空港専用のラインはまだ生きているのか。」
「アクツさんが許可してくれたのよ。回線が通じると分かった時、私はちょっとした手違いで回線の契約がまだ残っていたからと伝えたから、あなたが申請を怠っていたなんて話は言っていないわ。」
リサの言葉にトゲがあるのは騒動に巻き込まれて怒っているのか、それとも想像もしていなかった状況に緊張しているのか、それを聞き分けることはジェロには出来なかった。
「それよりねえ、どういう状況?」
「もう磁気嵐が始まっていて電波はたぶん一通りだめだ。確かに砂嵐は始まるように思う。住民たちへの影響は分からない。」
「そう。私に出来ることはあまりなくて残念だけどね。こっちはあなたのお友達のせいで変な問い合わせが増えているの。シムナナムナさんは何か独自のネットワークを持っているようね。」
「ネットワーク・・、あの暗号のような放送とサイトくらいだが。」
「そのマニアックなサイトを個人的に好んでいる人がこの業界に何人かいたみたい。そこが発火点よ。彼らが昼の顔を取り戻して言うのよ。本当にワンジュでそんなことが起こるのかって。こっちはもう予測も出してないのよ。空港じゃないんだから。それなら気象台に問い合わせてと言えば、今度は気象台からクレームよ。空港関連の問い合わせだろうって。向こうだって現地に人はいないしね。」
「気にしている人たちがいるのか。」
ジェロはまずそれに驚いた。
「どうも多くの人がワンジュは空港としての機能を残していて、あなたたちみたいなのは空港職員だと誤解している人が多いのよ。まわりまわって私が、それを対応処理しなくちゃいけない状態ってこと。分かるかしら。」
シムナナムナのネットワークから何かがここまで繋がってきたことを知った。未曾有のことが起きているんじゃないのかと。その声が伝わる。他から砂嵐の怖さを伝える声、それらが連なっているのだ。
突然シムナナムナが吠えるように叫んで緊急回線に近づいてくる。
「お願いします。ボクを助けて下さい。ボクの言うことを伝えてほしいんです。仲間たちに。すでにこの街でボクが出来ることはあまりないかもしれない。だけど今起こっていることを伝えておきたいのです。」
「シムナナムナさん、かしら。あなたは誰かに伝えたいことがあるの。」
「はい、昨日まで当たり前のように繋がっていた仲間に昨日までと同じようにボクの思っていることを伝えたいんです。でも、今のボクにはその時間も方法もない。伝えたいことはたくさんあるのに。」
「あなたの気持ちは分かったわ。たぶんあなたの望みを叶えることに、私は協力できるでしょう。ところで、ジェロさんに替わってもらえるかしら。彼にも繋げてあげたい人がいるの。」
「・・・はい。」
再びシムナナムナと場所を入れ替わったジェロにリサは言う。
「そこであなたの当時の恩人にあたるアクツさんがお話しがあるっていうから替わるわね。」
ちょっとの間の後でジェロの耳に届く声が変わった。
「久しぶりだな。」
「あ、そのせつはありがとうございました。」
無意識にジェロは言葉づかいが丁寧になる。
「いいか。いい加減な情報を流布するのはやめさせろ。情報の錯綜、それによるパニックの誘発が一番危険だ。」
その一言にジェロは果てない違和感を覚えた。その声があまりに遠くにあることを感じる。
「それは公的な機関の立場としてはそうですが、正式な情報などこっちにたいして伝わっていませんよ。」
「ああ、そうなのか。だがな、だからと言って個人的に発生した情報を我々が吹聴することを手伝ったりはできない。だから特別な命令は出せない。」
「たぶん、今はそんな話どうでもいいんです。忙しいんだ。リサに代わってくれませんか。」
「ジェロくん。この回線は正式にはすでに存在していないものだ。だからとやかく言われることは少ないだろう。個人的な信頼関係として、多くの問い合わせた人間に何かメッセージがあれば、伝えることくらいはリサがやってくれるかもしれん。それくらいしか出来ない。でないとワンジュには空港はもう存在しないことを一晩中説明することになるからな。シムナナムナとやらのサイトが急に更新されなくなったことなど我々には分かるものかと。」
「・・・」
「まあ、なんにしても俺はもう帰る。あとはお前らが何をしようが知りようがないというわけだ。」
ようはアクツは、建前の話と目の前の話の両方をしているのだとジェロはようやく思い当る。
「・・・そちらの立場というのは面倒なものですね。」
「ふん。とにかく俺は知らんからな。それだけだ。」
少なくともアクツは邪魔をする気はないことをジェロは理解した。それからジェロはシムナナムナに向かって言う。
「シムナナムナ、きみのやることはやっぱりあるんだよ。だから僕は代わりに街に戻る。」
シムナナムナは黙ってうなずく。それから壁側のマイク線をのばしてテーブルまでひくと、二つのマイクの前にまた座り込んだ。
「ボクが伝えたいこと、言います。今夜は外に出ない方がいい。一晩で終わることが多い。でも、まだ大切な人や動物が戻っていないなら、目をつぶっても戻れる範囲だけ移動しましょう。家の入口までロープを這わせておいてもいい。いいですか、それほど危険な状況になるのです。だから無理をしてはいけません。本当なら酸素ボンベがあった方がいい。出入りは二重口の所から・・」
「シムナナムナ、僕が街へ行くよ。」
ジェロは手を挙げて声を上げずに笑顔を見せた。その一瞬だけ、シムナナムナの声は途切れる。それからジェロは駐車場へ向かった。
街へ行って、それからどうしようか、こんな話を信じてくれるのだろうか。そんなことを考えながらジェロが車を外へ出すと、すでにあたりの様子が変わり始めていることに気づいた。車が通りに出た途端、強い横風が吹いているのを運転席でも感じるようになる。ザラザラと窓を叩くのは雨粒ではない、砂だ。夜の暗闇はそこにはなく、何か大きな動物の皮膚のようなものがうごめいているように思えた。
ジェロはいつもより慎重に車を走らせて街の中心部へ向かう。その間にも状況は悪くなっていて、すぐに想像を絶する状況になった。視界はどんどん失われ、一メートル先も見えないほどになり、後部の扉で大きい音がして、衝撃が走る。何か大きなものが当たったのだ。皮膚のように思えた景色はもう息苦しいくらいまで目前に広がり、ガラスを叩くものに、石つぶてが含まれてきた。次々に流れ込みジェロは風上側から次々と大小の衝撃が伝わってくる。ジェロの車はオフロード仕様で、通常であれば多少の荒地でも十分走行可能なタイプだ。しかし、ジェロはその車の中でも恐怖を感じ始めている。
「まさか。」
車の運転が危険な状況になった。恐ろしい砂嵐はさらに勢いを増しているようだ。視界が遮られている上に、車の機器がまともに作動しなくなる。位置情報は失われた。エンジンの様子がおかしい、回転が一様にならないと気づいたその途端、道を踏み外してしまった。車が角度を変えて斜め下を向く。ジェロは激しい衝撃に耐えてなんとかシートに残っていた。
「これじゃあへたに動けない。」
一瞬見えた看板で、そこがセンターモールへの横道だと気づく。ジェロは街へ行くことよりもまず自分の身の安全を確保することを考えた。そこに地下駐車場があったのを思い出す。商業施設にも地下で繋がっているはずだ。車のボディはすでにだいぶ傷んでいるから、ここにとどまるのは安全とはとても思えない。
車をバックさせると、幸い傾いだ車体はそれほど抵抗なく元に戻った。ただ、その後も前輪がすこし空回りぎみで、砂が路面に積もり始めているようだ。ジェロはセンターモールの入口まで車を動かすことにした。この状況ではスピードを出せない、しかし砂がさらに積もれば車での移動は絶望的だ。ジェロは車を慎重に動かし続ける。フロントガラスは一面砂がうごめいている。ざわざわとした音はすでに激しい雄叫びのように広がっていた。硬質で大きな音が加わるとフロントガラスのひびが増える。いつ割れてもおかしくない状況だ。とてつもなく長く感じる時間、わずか五百メートルほどを死ぬ思いで移動した。
ようやくの思いで地下道入口のスロープを降りる。そこでジェロは自分が震えていることに気づいた。入口に近い所はもう砂がうず高く積もっていた。もう車での移動は不可能だろう。ジェロは自分が命拾いしたことを知る。
その先の駐車場には車がすでにもう一台見えた。そして奥からは人影が近づいてくる。
「おおーい。大丈夫か?」
服装から判断して、ここの警備員のようだ。その人影が誘導してくれる。すぐに別の人影、これは買い物客のようで若い男だった。若い男はすぐに運転席まで駆け寄ってきた。
「どう? 怖かったでしょ。水飲みます?」
差し出されたペットボトルを口にする。有り難かった。その人物が誰であるかを疑う必要はない、そんな心情だった。その時、ジェロはシムナナムナに自分が差し出した水のことを思い出した。緊急の時、人は助け合うものだ。そんなことをジェロは初めて意識する。
「ありがとう。」
「外の様子ってどう?」
若い男の声は今の状況に似合わない、すこしとぼけた感じで響いた。
「ああ、ひどい砂嵐が始まっているよ。」
とりあえずジェロが外の状況を伝えると、そこにいた二人は自己紹介をした。若い男はアウリと言い、この建物の警備員はナムオカと名乗った。そして、自分を含めたこの三人がその場所にいる全てだとジェロは知る。彼らに何かを伝えなくていけない、ジェロは思った。もう移動してはいけない、呼吸器をやられる恐れがあるので外に出るな、シムナナムナの言葉たち、でもジェロはそれをすんなりと口には出来なかった。それは何よりジェロが一番混乱しているからだ。
「もう何がなんだか分からないよ。」
ジェロがせいぜい言えたのは、その程度のつぶやきだ。一方、アウリとナムオカはずいぶんと冷静なように見えた。
「こっちの入り口はもうダメじゃないかな。砂がどんどん入っている。」
「そうだな。」
アウリの問いにナムオカが応じる。ジェロが入ってきた出入り口にはすでに砂の絨毯が敷き詰められたようで、その砂がうず高く埋まりつつ、さらに浸食していた。
「砂が入らないようにできないの? 防火シャッターとかあるでしょ。」
「シャッターは火事の時以外は本部からの指示がないと閉めることはできない。それに我々は今は安全だ。」
警備員のナムオカは感情を表を出さないタイプのようで、その口調からはなんの心情も感じ取ることが出来なかった。ジェロは言いたいことがあったが、何が重要なのか分からない、そんな混乱した頭の中でかろうじて言葉を繋げる。
「もう外へ出ていかずに、極力屋内に避難していろと言われたが、その通りだと思うよ。」
ジェロはかろうじて告げたのはシムナナムナから聞いた言葉だ。
「確かに。僕もそれ聞きましたよ。」
アウリが軽くそう答えると、それから三人は警備員の詰所に入った。先ほどまでアウリとナムオカはそこで待機していたそうだ。
「本部に連絡がつかない。ずっと不通だ。」
警備員のナムオカはそう言ってデスクへ向かった。ジェロは椅子に座るとようやく心が落ち着いてきた。先ほどまでは生死の境界を感じていたが、この場所にはそれはない。外が砂嵐であっても、今、そこに危機はなかった。
ジェロはあらためて詰所を見回した。小さな部屋で明かりがついている。電気は通っているようだ。窓は一つもなくここは昼間でも暗いのだろう。警備員のナムオカは何かのスイッチを盛んにいじっていたのだが、ふいに手をとめてこちらを振り返った。
「本部はここから車で一時間、状況が回復したら直接行くしかない。」
「まったく困りましたね。どうしようってんですか?」
アウリは立ち上がりながら問い返す。
「緊急時対応に砂嵐の項目はない。たまった砂を処理する方法が美化の欄にあるだけだ。」
「そのマニュアルの作成者は、竹ぼうきで掃けるくらいのものしか想像できなかったんでしょ。」
アウリの叩いた軽口をジェロがひきとった。
「まさか、この街に砂嵐が来るなんて、今日の昼間まで誰も想像していなかったよ。」
「隣町の娘のところにも繋がらない。状況は全く不明だな。」
「僕だって家へ行く途中だったのにさ。」
アウリの手元の動きにあわせて壁からふいに音声が出た。それはジェロがよく知った声、今はかすれているシムナナムナのものだ。
『ボクの出来ることは何もありません。今はもう一人に震えて待つだけです。どうか答えがあるなら教えて下さい。友達が言いました。まだボクに出来ることがあると。砂嵐が始まった以上、ボクが出来るのはもうマイクに立つことだけ。発生する前に伝えることはあっても、始まったらボクが出来ることなんてない。そう思いましたが、友達は違うという。それで考えました。ボクに何が出来るかを。』
「ササジー通信っていうんです。気晴らしに流しといてもいいでしょ。」
アウリがジェロに言う。ジェロは、アウリがササジー通信を知っていることに驚いた。
「ササジー通信を知っているのかい? ラジオもネットも全滅じゃないのか。」
「さっき調整したら繋がったんです。空中波じゃなくって、たぶん有線の放送ですね、これは。ローカルなネットワークだと思うんだけど有線は生きているんじゃないかな。」
生きている回線がまだあった。果たしてシムナナムナはそれを知って今しゃべっているんだろうか。
「サーバがこの街にないのは全滅でしょうけどね。だから今ストリーミングを拾えるのはササジー通信くらい。あんたの車が来るまで、二人でずっとこれを聞いていたんです。」
アウリは会話できるくらいに音声を絞りながら答えた。ジェロは思わず以前から思っていたことを口にする。
「公的なものじゃないぜ。それを信じるのかい。」
「別にいいんじゃないんですか。こんな時に何を信じるのは決めるのは自分なんだから。少なくとも僕は昔からササジー通信を知っていた。なんて不思議で真面目な番組なんだろうって。サイトにもアクセスしたけど全く同じ印象だった。ただ気象情報を打ち続けてきたし、今回だって砂嵐の襲来を一番早く教えてくれた。こんな今の状況で何を一番信じるか。これは友情とかそういった問題に近いってことです。」
「・・・」
それからアウリは誰に話しかけるわけではく、言葉を続けた。
「まさかとは思ったけど本当にひどい状況ですね。僕の生まれた家、今は誰も住んでないんですけどね。ニュースで砂漠帯で初めて砂が巻き上がるのを確認したって言ってたけど、その以上のことは誰も関心がなかったところへ、ササジー通信では大騒ぎを始めた。それを聞いて、どうせ明日は休みで暇だったし、ちょっと様子を見にきたんです。」
シムナナムナが大騒ぎを始めた時、たぶん自分が寝ていた時間のことだろうとジェロは推察する。
「僕の生まれた家、もうだいぶ傷んでますからね。ここへ来たら本当に砂嵐が始まった。だから僕にとって、彼の話をあてにすることはとても自然なことなんだけどな、不思議でしょうか。」
「いや。そんな人がいたんだ。」
ササジー通信の設定を終えたアウリは壁際の椅子に座り、ジェロと向かい合う形で話を続ける。一人背中を向けたナムオカは何も言わず何か資料をめくり始めた。
「この放送さ、砂嵐が始まったくらいから、放送の内容がえらく変わってきたんですよね。それまでは急いで何かしろっていうこっちが不安になるような内容だったのに。」
シムナナムナの声は室内に小さく響き続けている。
『結局ボクは何も出来なかった。来ることを告げたからと言って何も出来なかったんです。あんなに準備していたのに、なのにまだ十分じゃなかった。次のためにでも出来ることってあるのでしょうか。何十年に一度、起こるかどうかに備えることが。ボクに出来ることって何があったんでしょう。』
ジェロは感じていた。自分が今、地下の駐車場でこうしていることは、とてつもなく無力なことだと。そしてシムナナムナはそうではないと信じている自分に気がついた。シムナナムナが出来たことは小さかったかもしれないけど、それは自分なんかよりずっと役に立ったし、尊いことのはずなのだと。
『ボクは人を楽しませたい時に楽器を使います。でも、悲しい時に楽器を使うと悲しみや不安が大きくなったりする。それを吐き出すことでいい朝を迎えられることもあるでしょう。でも今は、自分で楽器を演奏する気になりません。それより誰かと話す方がいいでしょう。だからボクはなんでもいいからしゃべり続けたいと思います。音楽を時おり挟んで、その間にデータを確認して、ネットにもアップする。今夜のササジー通信は緊急放送です。』
祈りのようなつぶやきがあって、やや沈黙がある。地下の駐車場にもその沈黙は繋がっていた。
『それからこの砂嵐がいつ終わるか、ボクが的確に予測できると良いのですが、残念ながらボクは技術と知識が十分ではありません。ただ、最初にボクに砂嵐を教えてくれた人、キキさんと言いますが、キキさんの所では、一日半は続いたと言っていました。ここはキキさんの所よりは砂漠は遠い、どんなに長くたって一日半は続きません。ボクが言えるのはそのくらいです。 でも、たぶんこういう時は最悪のことを想像しておくのがいいとボクは思います。砂漠のここ数年の状況を確認しておいた方がいいと思いました。そし・・・』
と、そこで突然、音が途切れた。
『・・・』
シムナナムナの声がなくなり、急に地下駐車場が広くなったように感じた。
「外と完全に途切れたか。」
ナムオカが重々しく言うと、アウリとジェロの方へ向き直す。一方、アウリは明るい口調で返して見せた。
「あーあ。これはいたいな。」
アウリはまばたきが多くなっていた。口調とはうらはらに落胆しているようだ。
「一応、回線を確認してこよう。」
ナムオカはそう言うと立ち上がる。
「じゃあ、みんなで行きましょうよ。こういう時は何があるか分かんないし、もしあんたが帰ってこなかったら困るでしょ。」
「その意見に賛成。」
ジェロも同意すると、それから三人で巡回することにした。連れ立って、ビルの中をすこし歩く。ナムオカは操作盤やサーバルームらしき部屋の様子を見たが、外観の異常を確認するくらいしか出来ることはない。
「何か機械が故障したんじゃなくって、外との回線が切れたんじゃないかなあ。あるいは接続不良の箇所が多くなりすぎてネットワーク負荷が大きくなったとか。」
「アウリさん、詳しそうだね。」
アウリに専門性があるように感じたので、ジェロは聞いてみた。
「いや、まあ一般知識というか、半分趣味みたいなものです。大規模なのはやったことないですから。それより、外の様子は確認できないかな。」
アウリの声に反応して、ナムオカは指で階段を指して言う。
「二階に行ってみよう。窓から外の様子を確認できる。」
階段を上ると、大きなガラスは砂にさらされていた。大きな音がたえまなく響いている。
「さっきと大きな変わりはない。それほど強くはないか。」
「確かに。僕たち一時間くらい前にもここに来たんだ。」
砂嵐が少なくとも強くなっていない、ということらしい。
「それにしたって外に出るのは無理だ。」
「ああ、まだ全然駄目って感じだ。少なくとも今夜は諦めた方がいいね。」
「ああ。そのようだ。」
「それよりネットワークでまだ繋がる所がないか確認しておこうよ。」
「有線もダメなんだろ?」
「どこで線が切れているか分からないけど、繋がるとすれば、同じ親サーバ同士でのやりとりか連絡できるかもしれないし。端末から直接触ってみるのがいいんじゃないかと思うけど。」
「うん。じゃあ、それ確認してみてよ。ナムオカさん、いいだろう。」
「・・ああ。」
アウリの提案にジェロもナムオカも同意して、二階の巡回はそこで切り上げることにした。
詰所に戻った三人は、端末の前に集まった。最もネットワークについて知識があると思われるアウリが説明を始める。この施設についてはナムオカが責任を持っているので、自然とアウリがナムオカを説得する形になる。
「ここに閉じ込められていることははっきりしているので、後は外部との連絡手段が本当にないか確認した方がいいと思うからさ。」
「きみの言いたいことは分かる。二階の設備に異常はないようだから、すでに完全に外部と遮断されているということだろう。」
「外部ってのがどこまでの外部かだよね。照明が点いているから電気が通っている。だからネットワークが完全に落ちているということはなくって、主要なラインが遮断されている状況だと思うんだ。」
「・・それはどういう意味だ?」
「だから遮断されていないラインをもっと確認しておきたいということさ。その作業をするから、この端末をちょっといじる。いいかい。いいだろ?」
「・・・分かった。私の監視下での作業なら私の責任の中でやれることだ。」
ナムオカの許可を得ると、アウリは端末を触り始めた。手先の動きに合わせて、画面が目まぐるしく変わっていく。
「ネットには繋がらない。それは確認してある。」
ナムオカがモニタに視線をやったまま言う。
「そうだね。無線系ももちろん同じでしょ。」
ナムオカに軽く答えつつ、アウリは手元で操作を続ける。
「ここのアドレスを直接入力すればいいんだ。ここから見られる範囲のアドレスからそれを推定する。」
新たなウインドウが立ち上がり、文字と数字がまためまぐるしくスクロールしていく。
「・・・たぶん、このあたりじゃないかな。アドレスをブラウザで直打ちしてみる、あるいは同じドメインを指定するだけで出るかも。あ、出た。」
今の状況に似合わない、きらびやかなショッピングモールのページが現れた。
「キャッシュじゃないよ。時刻が更新されているもの。」
「すごいね。でも、これで何が分かるの?」
「たぶんこの街の中の有線のどこかに影響が出たってことだろう。ひょっとしたら物理的な断線じゃないかもしれない。」
「はあ。」
「だからこのブロックとか近くの施設の中ならまだ繋がるってこと。特定のページだけは見られる状況だよ、これ。この状態なら気づいている人、多いんじゃないかな。」
「住居区のサイトには繋がるのか。」
「たぶん一緒に切り離されているだろうね。」
「住居区の当直と連絡がとれる可能性ありだな。掲示板も大丈夫か?」
「掲示板?」
「住居区専用の掲示板だ。このアイコンだ。」
そこには施設管理情報という項目があり、そこのメッセージ欄をナムオカは指差した。
「警備担当、あるいは本社にいる施設担当が書くことが多いが、急ぎでない住民の問い合わせもだいたい最初にここに来る。」
「アドレスの一部を直接指定にすればいいだけさ。やってみる。」
アウリの手元のわずかな動きで画面が更新された。
「この時間は住民からのメッセージばかりっぽいかな。ずいぶんと更新されている。」
アウリが呼び出したサイト、そこには多くの住民の言葉が時系列に並んでいた。
『どのお宅か毛布とミルクは余ってませんか?』
『今行きますね』
『了解』
『追加情報、避難してきた人たちは六組。うち三組の家族にお子様あり。二人はまだ赤ちゃん。手伝える人、集会所へ』
『もういや、こんな夜』
『緑棟十二階さんへ。2403イイジです。うちにも使ってない平板がありますよ。ドア一つ分くらいのが三枚。今から持っていきますね。』
『繋がらないんじゃない。ブックマークはここ。』
『ラジオ極短波の447にあわせて』
『駐車場の人たち、集会所に移動しました。今からお茶を差し入れに行ってきます』
『うちにもありますよー』
『うちに古い洗濯板があるんですがこれで塞いでは。』
『たいへんですね。何か物を置いてガムテープとかで補修できませんか。』
『緑棟十二階です。シャッターが完全にしまらなくて砂が入り込むんです。それに音がすごくて』
『外との回線は遮断されてる』
『なんか手伝うこと、あったらやるよ』
『教えて、さっきのササジー通信の聞き方』
『エスブロックの友達と連絡がとれなくなった』
『警備員さんは地下道に逃げ込んだ人の様子を見に行っていますよ。』
『この嵐がいつ止むのか情報はないですか』
『えー、それはたいへん。大丈夫ですか?』
『寝室の窓が壊れました。今はシャッターをしているのですが砂だらけです。助けて下さい。』
『猫見つかりました。お騒がせしました』
『心配したってしょうがない。』
『さっきまでより風が強くなってる気がする。この建物って本当に大丈夫』
書き込みをある程度、遡って読んだところで、アウリは手を止めて画面から目を離した。
「どこも大変なことになっているんですね。ふだんからこんなに書き込みがあるんですか?」
「いや、ふだんは住民からの書き込みは少ない。私は住居区側の応援に行った方がいいかもしれないな。」
「居住区って、ここと繋がっているんですか。」
「隣の建物だが直接は繋がっていない。ショッピングモールが開いていれば、駐車場を伝っていける。」
「上の階にいけばミルクもオムツもあるじゃないですか。」
アウリが操作して、画面は最新の書き込みに戻った。わずかな時間でコメントはさらに追加されていた。
『ミルクが足りないって。どうしよう。』
『うちも買い置きないわ。』
『この住宅って小さい子あまりいないよね。』
『どうせじっとしてても気が滅入るんでモールへ行ってみようかな。駐車場からなら中でつながってるし。』
『一人じゃ危ない。私も行きます。』
『外はダメ。』
警備員のナムオカとジェロは顔を見合わせる。
「ここからも書き込めるの。」
ジェロの問いかけにナムオカは頷いた。
「もちろんだ。しかし、ここからモールへ行くのは簡単だが住居区からは難しい。夜はシャッターを下ろしているんだ。」
「あんた、開けられないの?」
アウリの問いにナムオカは返事をせずに黙った。そしてアウリの手元にあったキーボードを自分の方へ寄せて掲示板に文字を入力する。
『モールと住居区の間は今はシャッターが閉じている。開けるのは本部の許可が必要だし、第一店は開いていない。』
ナムオカの書き込みにすぐに反応があった。
『そうなの?』
『非常事態だから開けてもらえないのかな。』
『そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。』
掲示板の反応にジェロも共感した。
「その通りだ。あんた、そんなこと言ってる場合じゃないだろ。」
アウリも呆れたように声を上げる。
「・・・、私は自分がすべきことを考えなくてはいけない。」
ナムオカはどうやら迷っているようだ。そして何かを口にしかけた時、突然明かりが消えた。思わずジェロは声を上げる。
「なに?」
突然の暗闇は長くは続かず、すぐに、ほのかなオレンジの明かりがつく。
「停電だ。非常灯がついた。」
その色でナムオカは理解したようだ。
「この建物には非常用の設備はあるが、そう長くはもたない。」
「こっちは大丈夫だな。バッテリーだし。ほかにも書き込めている人がいる。」
「ダメだ。電気がなければシャッターを開けることは出来ない。」
「なに。」
「住居区まで運べるかは分からない。」
それからすこしの間、沈黙があった。それぞれがどうすべきか迷っている。再び口を開いたのはアウリだった。
「とにかく、ちょっと探しにいきましょう。何か役に立つものを。」
「そうだ。ここはショッピングセンターだから物が揃っている。きっと今必要なものだって。」
ジェロが答えると、ナムオカも続いて口を開く。
「緊急時の定期講習をこの前受けたばかりだ。明かりはつけられる。非常電源の操作は可能だが長くはもたないだろう。」
「でもこっちの棟はこの三人しかいないんだろ。それなら住宅区の方に回してやった方がいいんじゃないのか。」
「その通りだ。蓄電池は共通だから、こちらで使わなければその分、住宅区が長持ちするはずだ。」
「それはいい判断じゃないか。じゃあ店に行って、ライトを探そう。」
「ああ、そうだな。また三人一緒に動くのか。」
「三人ルールだ。」
三人は再び階段を昇り、二階から上へ進んだ。そこには日常品の売り場がある。真っ暗なフロアは、窓際でなくとも砂の圧力を感じる。音と振動、それが階が上がれば上がるほど砂の勢いが増していることを知らせている。ナムオカのライトは的確に乳幼児向けショップのスペースへ導いた。
「こんなに暗いのによく分かるね。」
「私は見回りを怠ったことはない。」
「は?」
「夜間の見回りの時は照明が消えた状態で行う。だから店舗街の様子も覚えておく必要がある。」
「へえ。そうなんだ。」
そう言いながらアウリは商品を抱えようとした。
「商品タグを見比べておいた方がいい。値段がずいぶんと違うはずだ。」
「今はそんなのどうでもいいでしょ。」
「どうでもよくはない。」
「は? こんな時に金をとるのか。」
「本来は営業していない時間だが、緊急時だからしかたがない。私がレジ係をやろう。預かって明日、店の人に事情を伝える。」
「なにもこんな時にさ。本気?」
「もちろんだ。なぜならそれが私の仕事だからだ。ここで金をとらないと暴動が起きて金を盗まれたのと変わらない。」
アウリの口調が尖ってきたので、ジェロが慌てて二人に割って入る。
「住民からこんな時にとれるわけないだろう。僕が立て替える。」
ナムオカは相変わらずの一本調子だ。
「ああ、三等分しよう。私は幸い、財布を持ってきている。」
ナムオカは続いてアウリに向かって声をかけた。
「きみもいいだろ。」
アウリはちょっと黙ったが、呆れた様子で声を出す。
「結局、あんたは面倒くさい性格なんだね。」
「そうかもしれない。それが私の誇りなのだ。」
「まあ、いいから分かったよ。」
「じゃあ、誇り高いあんたに聞くけど、住居区へ行く方法はないのかい。」
「さっきも言ったが、住居区まで行くことはできるが、鉄格子のシャッターがある。」
「とにかく行こう。途中まで行ってだめなら引き返せばいいじゃないか。」
手押しカートを発見したのでジェロたちはそれを使うことにした。カートを階段の下に置いて、そこまで手で持っていく。一階まで何度か往復すると、すぐにカートは品物で溢れてしまう。アウリとジェロが階段の上り下りをしている間、ナムオカは会計に間違いがないか何度も検算をしていた。
駐車場と職員専用の通路を通り、住居区との境界にさしかかった当たりでジェロはいくつかの光が動いているのを見かけた。誰かのライトのようだ。通路の向こうでライトが不規則に動いている。人が歩いているのは間違いないが、その不規則な点滅は、その間には格子の扉があることを示していた。
「あっちに誰かいるんじゃない。」
「そうみたいだな。」
アウリとナムオカが話すと向こうから声がかかる。
「おーい。誰かいるのか。」
「おーい。」
向こうの数人から声がかかる。最初にその声に答えたのはナムオカだ。
「こちらは今夜の店舗区当直員、緊急避難している付近住民二名と住居区の様子を見にきた。そちらは住民の安全、財産が阻害されるような深刻な事態には陥っていないか?」
よく、そんな言葉がすらすら出るものだとジェロは驚いた。しかし、向こうのグループから戻ってきた声は同様のトーンだった。
「こちらは今夜の住居区当直員だ。住民は各住居区にて避難中で幸い危機的な状況ではない。ただし、こちらの棟に閉じ込められた住民が、当住居区の人数以上でやや物資が不足している。さらにはこの停電で住民の不安が増している状況だ。」
その二人以外は何か会話に違和感を持ちながらも、二つのグループは互いに近づいた。
「あれあれ、ナムオカさんとこの会社じゃあ、緊急時はああいうしゃべりかたをするような訓練でもあるのかい。」
アウリのつぶやきにジェロも思わず頷く。すると先頭を歩くナムオカから意外な返事がきた。
「あれはたぶん私の弟だ。」
「あ、そうなの。」
お互いのライトで表情を読めるくらいまで近づいた所で、シャッターの向こう側にナムオカによく似た顔が見えた。ただ、この状況でもこの警備員たちは兄弟らしい会話をしようとしない。
「そちらも全て停電中か。」
「その通り。非常用の照明もつかない状況だ。」
「全フロアで同じ状況のようだ。こちらは通信系は全て役に立たない。唯一見えたのはこのモール街の住民専用サイトのみ。」
「こちらも同様だが、先ほど状況は悪化して、今は通信は完全に途絶えている。」
「そうなのか。こちらも通信状況を再確認しなくてはならないな。」
その会話を聞きながら、ジェロは兄弟の間にある大きな格子扉をライトで照らして確認していた。電動で制御されているもので、動かし方がまるで分からない。
「これ開けられないのかな。」
ジェロのつぶやきをきっかけに、その兄弟以外の者たちで会話が始まった。
「これが開かないと店舗区へいけないなあ。」
「あんたたち、住居区から来たんだろう。店舗区はこの三人しかたぶんいない。」
アウリの呼びかけに反応して扉の無効からも声がかかる。
「さっき書き込みしてくれてた人たちだろ。本当にいたんだね。」
「物が足りなくてさ、ここから進めなくてどうしようかと思っていた。」
「こっちの棟には物資はあるからね。レジ係を通せば夜間でも入手できる環境さ。オムツが足りないのかい。」
「ああ、一晩くらいどの家も乗り越えられるんだけど、悪いことに一階の講堂で母子参加可能な体操講習会があってさ、幼児の数が多い。」
「一応持ってきたんだけど。」
アウリがライトを向けて運んできた物資を見せた。
「ありがとう助かるよ。」
そこでジェロが住居区の警備員、ナムオカの弟に聞く。
「扉の解除方法はないのかい?」
「無理にやろうとすれば設備を壊すしかない。それはだめだ。私の職務の限り、それを見逃すわけにはいかない。」
「じゃあ、どうするのさ。ここまで来て、この人たちを見捨てるのかい。」
アウリは言う。
「この隙間があればオムツだって一枚ずつなら通るさ。粉ミルクだって小分けすればいい。」
「まあ、そうだよな。」
「いいじゃないか。冷静でいられることは素晴らしいと思うよ。」
「別に異論はない。」
ナムオカの弟はやはり冷静に言った。
「ありがとう。助かったよ。」
シャッターの向こうでナムオカの弟はさらに言う。
「代金は?」
「今夜はおごりです。」
「そういうわけにはいかない。」
ナムオカの弟が困ったような顔をして言ったので、アウリとジェロは同時に吹き出した。
「なあ、持ってきたのはオムツとミルク、あとは懐中電灯くらいなんだけど、ほかに何か必要なものはないか。」
「けっこうみんなが持ち寄っているからな、大丈夫さ。」
「なにより赤ちゃん用品だよ。」
小分けして、荷物を扉の向こうへ手渡しする作業は意外と時間がかかったが、無事に荷物を届けることが出来た。カートが使えないので住居区側で何度か往復する必要がありそうだ。
「じゃあ、まだ何かあったら書き込みして。」
「もう掲示板も見えなくなったよ。だからこっちもどうしたら良いか分からなくてさ。」
そういえば先ほどナムオカの弟が、そんなことを言っていたのを思い出す。
「・・・そうか。電話もダメだし、じゃあやりとりする手段はないなあ。」
「あのさあ、動いている時計はあるか?」
格子の向こうの一人が声を出す。
「ああ、それはあるけど。」
「じゃあ、二時間ごとにここで情報交換しあうというのはどうだ。」
「なるほど。それもいいかもね。」
「ずっと暗闇の中にいたから思うんだ。とりあえず前向きな予定があるっていいなって。何かあった時に助け合える状況を用意しとくのさ。」
「じゃあ、二時間じゃくて一時間でいいんじゃないか。交代交代なんだし。」
「でも住宅区に一通り声かけるんだと一時間じゃなあ。」
それからしばらくは二つのグループで話し合いが続いたが、結局は二時間ごとということに落ち着いて、ジェロたちは再び警備員の詰所に戻ることにした。
詰所で端末を操作しようとしたところ、確かにモール内のサイトにも接続不能となっていた。詰所に戻った三人には全く何もすることがなかった。
「なあ、思ったんだけどさ。さっきの二時間ごとのやつ、二時間ルールとしてさ。」
「ああ、三人ルールでいくと二時間ごとに三人で移動することになるのかな。」
「そうなるな。」
「別に三人ルールを変えたっていいんじゃないか。」
「そうだな。」
「でもさ、寝といた方がいいんじゃないか。朝まで持たないぜ。」
「一つ提案したい。次は三人で行って、その次からは仮眠担当者を決めて二時間ごとに交代してはどうだ。」
シフト勤務をしている経験からきたナムオカの提案は採用された。新しいルールに沿って、二時間ごとに住居区組に会いに行く。しばらくはそんな時間のやり過ごし方をした。自分たちのやることを決めて、ルールを決める。それが自分たちの目の前にやってやることの全てだった。それでも、無力さだけを実感するだけの夜よりはずっとましだった。
夜が更けていく。建物の中にいるせいで、暴れる砂の状況より、闇の方が意識に残るようになる。長い夜、それぞれの心配ごとが増幅されていった。
「まさか僕の今住んでいる所までは砂嵐広がっていないよな。家族に何事もなければいいけど。」
誰も答えられない問いをアウリが口にした。それを合図にするかのように三人の口数は減っていく。アウリが家族の話をしたことで、ジェロはこの街に一人で来たことを思い出す。ジェロの家族はオーギュシティにいるから、二人よりはましな状況なのだろう。そういえばナムオカも娘にだけは連絡をとろうとしたと、ジェロが駐車場に着いたばかりの時に言っていた。
自分がもし気楽な立場でないのなら、きっとこの闇は一層こたえただろう。今、ジェロの心の中で一番占めているのは、それはシムナナムナのことだ。この嵐でシムナナムナがひどい目に遭うのは、ジェロにはひどく耐えられないことに感じた。もう今は誰も聞いていないラジオ、でも、彼はきっとそれを続けているんだろう。アウリとナムオカはそれぞれに心配ごとの整理をしているのかもしれない。ジェロの方は暗闇の中でさらに考えを深めていった。
人の役割ってなんだろう。生きることの意味、シムナナムナはすでにそれを見つけていた。自分の場合は、自分の場合は、生きる意味がもしあるとすれば、何かを残すことかもしない。少なくともシムナナムナとの友情を保つこと、それだけが答えなのかもしれない。
「なんだか夜が嫌いになりそうだ。」
「夜が嫌いなのは、夜に浮かぶことが嫌いだからさ。」
アウリの呟きに珍しくナムオカが返した。今、ジェロは夜が嫌いにはなっていなかった。それは心配しているのとは違っていたからだろう。
二時間ごとの逢瀬が三回ほど行われ、ナムオカが仮眠に入る順番になった頃、詰所にあったラジオがふいに電波を拾い出した。蓄電池式のラジオのステータスランプが変わったのに気づいたアウリは、無言で周波数を合わせる。
『・・ああ、結局僕は何もできなかった。もうすっかり夜が明けました。そして嵐は去りました。嵐は去りました。』
シムナナムナのつぶやきだ。彼の声はかなり疲れていた。
「復旧したのか。」
「ああ、どうもそうらしいな。」
「そうだな。しかし、僕はなにも出来なかったなあ。」
アウリがつぶやいた。
「多少だけど何かの役には立つことが出来たさ。それでいいんじゃないか。」
ジェロはそう軽く答えたつもりだったが、意外とその声は部屋に響いた。その反響でジェロは、自分自身がこだわっていることに気づいた。ジェロ自身にしたって、出来たことは目の前のことに比べてひどく小さいことは十分に分かっていた。
『砂嵐は過ぎました。雲がありません。いつもの空です。夜のような砂嵐はやってくることはないでしょう。いいですか。何度でも言います。砂嵐は過ぎました。砂嵐は去ったのです。』
ひょっとしたらこの夜は、愚直な気のいい男が報われた瞬間だったのかもしれない。その瞬間はひどく控えめで切ないもの、達成できたことは、わずかな光でしかなかった。けれども、それはそういうもので、だからこそ大事なことだと、その時ジェロは分かったような気がした。
ショッピングモールの地上階へ上がると、窓ガラスの向こうにある景色は劇的に変わっていた。夜は明けていたのだ。明るい空、うごめく砂はもう空中にはない。それらはあたり一面に積もっていて、道路や畑の境目が全く分からない、見慣れない景色だ。しかし、明るい空が戻っていることは十分に人に安心感を与えていた。
「やった。嵐が止んでるぞ。」
「ああ、そうだな。良かったですよ。」
アウリとナムオカ、それにジェロの三人はそれぞれに顔を見合わせて笑顔になった。しかし、一つの危機を超えても、また異常な夜の後始末は全く済んでいない。それは三人とも理解し、頭を切り替えた。
「これじゃあ、車は使えないから歩くしかないか。ナムオカさん、車はここに置いていっても大丈夫かい。」
「ショッピングモールが再開するまでに移動してくれ。オープン後なら駐車料金が必要だ。」
「はいはい。分かったよ。とにかく家に行ってみる。じゃあな。」
アウリはひどく淡泊に別れを告げると出ていった。
「じゃあ、僕も。」
ジェロがそう言うと、ナムオカはすこし声を落として言う。
「きみも行くのかい。」
「ああ。」
ここでジェロは、ナムオカが不安げな顔をしていることに気づいた。それは今だからなのか、昨夜からずっと続いていたものなのか、ジェロには分からなかった。
「夜が明けた途端に皆、忙しくなった。」
「ああ、お互い頑張ろう。じつは心配なことがあるんだ。じゃあ。これで。」
「車は置いていくか。」
「これはオフロード用のやつだからさ。」
「用意がいいな。私は住居区の様子を確認したら設備の復旧作業だ。本部にも行かなくてはいけない。少なくとも予定されていた勤務時間内は仕事を続ける。」
ナムオカのつぶやきはジェロに聞かせようとしたのでなく、個人的な宣言だったのかもしれない。ナムオカの表情はすこし柔らかくなったように見えた時、ジェロはふと思った。シムナナムナは今、どんな顔をしているんだろうかと。そしてジェロは一人で空港施設へ向かった。
ワンジュの街の様子は一変していた。砂が積もり、道と荒地の区別がつかなくなった地面の上を、ジェロは慎重に車を走らせる。家畜が倒れて亡骸になっているのを何度か見かけた。窓が割れている建物も多い。あの建物の中は砂だらけになっているだろう。この街全体で、いったどれだけの被害が出ているのか想像できなかった。
ラジオをつけてみるとシムナナムナの声はなく彼の好きな民族音楽がただ流れていた。やがて空港施設が見えてくる。空港施設は砂をかぶった姿になっていたが、大きな損傷はないようだった。とその時、ラジオに突然シムナナムナの声が戻る。
『地上通報。書式8002。
三月十二日0時、現地時間午前9時、
47765 01520 42710 10112 20050 30082
降水なし 視程20 270度 風速10メートル 気温11、2度 露点温度5.0度 気圧1008.2ヘクトパスカル。
空港通報。書式9002
三月十二日0時、現地時間午前9時、
アージェ 9999 スキャ080 スキャ110 27005ノッ リエスエス。
視程10プラス 270度5ノット スキャター080 スキャター110 過去天気、砂嵐
』
それだけ言うと音が途切れ再び音楽が鳴った。いつも通りのシムナナムナの通報式だ。最後の気力を振り絞って作ったものなのかもしれないが、通報式からはそれは分からなかった。
ジェロは元空港施設に着くと、まっすぐに副司令室へ行く。そこでシムナナムナは、マイクの前で茫然としていた。
「シムナナムナ、今、君の通報を聞いていたよ。」
「・・ああ、ジェロさん。」
シムナナムナは顔色がひどく悪くなっていた。ずいぶんと疲れ切っているようだ。
「ボクはとてつもなく無力でした。ボクの出来たことはなにもなく、なのにこの街では今、大きな悲しみが広がろうとしてる。ホッタイトの街でもそうだった。嵐が止んで夜が明ける。大事に育てた動物の姿が消えた飼育舎、もう取り壊すしかない建物、親しい人が亡くなったり傷ついたりしている。
今日これからは、とても悲しい時間になります。そう昨日の夜よりもずっと悲しい日、そんな日が来ないようにまだボクには出来ることがあったはずなのに、なのに、ボクはまたこの日を迎えている。」
シムナナムナの目の先には荒涼とした景色を捉えていた。建物は傷つき、昨日まで見えていたはずの放牧地は消えた。それは確かに悲しい風景だ。
ジェロは何かをシムナナムナに言いたかった。小さくとも彼の声で事態が変わっていたことを。ほんの少しかもしれないけど出来たことがあったことを。でも目の前の現象は、ささやかな抵抗をほめるにはあまりに悲劇的すぎた。
言葉を失ったように立ち尽くした後、ジェロは一言つぶやいた。
「君の努力に対して、出来たことは小さかったかもしれない。でもそれだけが昨日の夜、希望の光だったよ。」
シムナナムナは返事をしなかった。その時、すでにシムナナムナは椅子に座ったまま眠りについていたのかもしれない。
「お疲れ様でした。まずはゆっくり休んで、そしてまた嘆いて、また頑張ればいい。きみはそれがいいんだよ。」
今日から続く未来、いいことばかりのはずがない。だけど悪いことばかりのはずもないし、時には小さな奇跡だってあるだろう。
それからジェロは、シムナナムナの向かいの椅子に座った。そういえば、いつになったら、この場所で天体観測の会が始まるんだろう。ジェロはふとそんなことを思い、やがてシムナナムナと同じように眠りに落ちた。




