六、
ワンジュの空港機能がなくなってからは、旅人の多くは空路から陸路を乗り継いでワンジュを目指すしかない。まず海沿いの大都市の空港に降り立つのだが、そこから先が厄介だ。空港のある都市群の鉄道網と、ワンジュが含まれる鉄道網はまだ繋がっていないため、いくつかの交通機関を乗り継ぐことが必要になる。
廃止されたばかりの空路と連動していた鉄道網、それを延長させる手段のメインは大型バスになる。そのバスの集まる所、近郊都市のバスターミナルに、ジェロは客人を迎えるために向かった。モヤに包まれたバスターミナル、途中の路面がしっかり濡れていたから、このあたりは夜に雨が降ったらしい。その日、最初に到着するバスは、飛行機から乗り継いだ客を多く乗せているはずだ。このあたりがワンジュを含む鉄道網の始点であり、長距離バスを乗り継いだ人々の中継地点となる。ここで、駅構内に入って鉄道の始発を待つ人と、バスを乗り継ぐべく別の乗り場へ向かう人、それにモータープールに向かう人に分かれる。
モータープールで人待ち中のジェロは、車の外に立って視線を泳がせた。やがて、バスから流れ出した人波の中から見覚えのある人影が現れる。その人物はジェロが声をかけるより早く、手を挙げて近づいてきた。ジェロは手を振り返して声をかける。
「お久しぶりです。キツジさん。」
キツジは穏やかな笑みを浮かべていた。
「やあ、わざわざ出迎えすいませんねえ。私としては一風変わった空港に来たつもりなのに、飛行機でなくてバスをこんなに乗り継ぐことになるとは思いませんでした。空港再編後にもっとも必要なのは、長距離バスの居住性の向上です。リサさんにも伝えておかないと。」
「まあ、ここからは私の車でシムナナムナの所までお連れしますよ。居住性は保障できないですけどね。」
「それにしたってあなたとの二人旅だ。話し相手を確保していますし、寝ている人に気兼ねして黙る必要はないですから。居住性とはそういうものも考えなくてはいけないですね。」
「あそこに飲食街があります。すこし一休みしてからがいいでしょうか。朝ごはんは食べられました?」
「いえ、でも、シムナナムナの作ったものを食べることになっていますからね。軽く食べたいが、何より広々とした所に少し居たいんです。」
「じゃあ、ちょっと散歩してコーヒーと一緒に何かつまみましょう。荷物はトランクに入れておきますよ。」
ジェロはそう言ってスーツケースを受け取ると車の後部にしまいこんで鍵をかけた。それから見晴らしの良さそうなルートを選んで歩を進める。土産物を扱う店などはまだ開いていなかったが、ファストフード店は営業中だ。
「ワンジュの空港がなくなって、このあたりは活気づいてるんでしょうかね。」
「いえ、どうでしょう。乗り継ぎが多くなるということは、それぞれで休憩も小きざみになりますからね。」
「そうですね。飛行機と鉄道、その間のバスが休憩になればいいのですがそうはいかない。むしろ加速、減速が多く最も揺れやすい乗り物だから疲れますよ。」
「ワンジュと空港を繋ぐ、高速鉄道の開通を待つしかないでしょうね。」
「いや、空港とバスはターミナルを用意すればいいのですが、鉄道は線路を敷かなくてはいけない。線路を一から整備するというひと手間は、けっこう厄介なことです。一通り整備を終えた高速道路とは違いますからね。このあたりのレポートは前々から報告ありましたが、現実的なものになりました。」
「はい、それは私が書いたレポートかもしれません。辞める少し前からそんなものを書いてました。」
「そうでしたね。他のプロジェクトメンバーは再編推進のことばかり。それはそれで正しいんですが、総合的なメリットが見えた時点で興味が他へ移ってしまい、考えが少なかったのかもしれません。あなたのような視点が利用者には一番重要ということです。」
「でも、組織の中ではプロジェクト推進することが正解だったのでしょう。変化がない限り、世界交通機関の意義は薄れます。」
「私はあなたみたいな人がもっと居た方がいいと思いますけどね。まあ、その後も、リサさんはずいぶんと活躍されていますよ。そろそろまた役職が上がるんじゃないでしょうか。」
「それは良かった。」
ジェロのその顔を見て、キツジは何かを見つけたかのように笑った。読みグセを発揮してまた楽しんでいるのだ。
「あなたは全く前の職場に未練がないようだ。今、本当に素直に良かったと思いましたね。」
「え? ええ。まあ。あまり深く考えませんでしたが。」
「知り合いの成功、特にそれが自分と直接関係ない時は、単純に喜ばしいものです。ジェロさん、もしあなたに少しでも後悔があれば、リサさんの成功をそうあっさりとは喜べないものですよ。」
軽食をとって温かいコーヒーを飲み終えるとすぐに、ジェロとキツジはワンジュへ向かった。二人が店を出る頃には朝モヤは消えていて、わずかに空気が重たく感じるくらいだった。二人を乗せた車は出発する。
「モヤはすっかり晴れましたね。私は早朝の空港にはモヤは良く似合うと思っていましたが、こうした野外のバスターミナルの方が合っているかなと思います。なにせバスは飛行機ほど大きくないですから。」
「そうですね。まあ、どちらの場合もボディのカラーリング次第だとは思いますがね。」
キツジがワンジュの街を訪問するのは今回が初めてだった。ジェロは幹線道路へ向かうべくハンドルを回しながら頷く。
「ここから二、三時間といった所ですか。」
「そのくらいですね。寝ていても大丈夫ですよ。」
「いやいや、飛行機とバスに乗っていた時にだいぶ寝ましたからね。バスの中ではあまりすることはない。」
「寝てばかりだったのですか。」
「すこしネットゲームをやっていましたけどね。」
「あ、アクツさんと対戦しているという?」
「ああ、そのお話しましたっけねえ。『集合する文明』というやつです。アクツの国と隣接するエリアに新しい街に人材、財力を注いで、あいつの国を取り込む準備をしていました。まだアクツは気づいていないでしょうがね。」
「どういうゲームなんでしたっけ。」
「人々はある程度の大きさまでは集合したがるのです。村から街になるまでは。しかし街がある程度の大きさになると違う重力が生まれるんです。いや重力に種類が生まれるんです。もちろんメガタウンと呼ばれる大都市になると人が集まるし、発展する、だけどその都市の個性、経済力だったり、文化や科学の中心となれたかとか、性格の異なる重力が大事になってくる。その度合いによって都市は特徴づけられていきます。それには何よりも歴史観が重要です。中規模都市くらいの方が出生率は高いが、その後は上昇率が低くなり、それに従って都市の重要さは目的によって違ってくる。メガタウンになれるかどうかの瀬戸際ですね。ジェロさん、都市の発展の尺度はなんだと思います。」
「さあ。人口かと思っていましたが、あるいは交通機関の発達のレベルとか。」
「うん、考え方はいろいろあると思いますよ。ただ、『集合する文明』ではインフラ充実度が指標になっています。通信回線、まずはそれが存在すること。それが電信柱のようなむき出しでなくて、地下網に移っていくことを確認。さらに自然をどう配置していくかで決まります。ですから都市の見た目なんですよ。訪れた人の感覚が重視されます。人口や存在する大学や大企業の数なんか、数字に落ちるものは全てその感覚の裏付けに過ぎない。」
「・・・なかなか奥深そうなゲームだ。では都市間の高速鉄道や道路という考えかたはないのですか。」
「もちろんありますよ。ただ都市の距離が離れるほど線路や道路を作るのに金がかかる。ある程度の距離を超えると、やはり飛行機がいい。空港をつくればおしまい、新しい都市ができるたびに繋ぎ直す必要もない。」
「その理論でいくとワンジュの空港閉鎖は失敗ということになりますね。」
「いや、どうでしょう。私は空港をつくる時は、都市の規模や付近の空港の分布を考えます。今回は一つの英断が、後の時代を救うパターンなのかもしれません。二十年ほど前に新空港網構想として、空港の数をかなり増やした時期があったでしょう。それは失策でした。そのツケを今払っているのに過ぎないと思います。ゲームの場合、それで最適な状態に戻したとしても浪費した時間、それに費用は取り戻せないので痛い失敗です。アクツが喜ぶだけですよ。」
「私たちの場合は文化や政治の話と切り離されて、交通機関は全世界で共通し合っていますからね。だからこそ世界交通機関がある。別に誰かと争っているわけじゃない。」
「はい。なので浪費があってもそれを本当に悔しがるオーナーがいない。いや、正確にはオーナーが共同体として大き過ぎるから誰もそれを実感できていない。」
「うーん。そうかもしれません。」
「でも、それらの都市たちが、同一のインフラを持ち、文化を共有して、結果長い時間をかけて生活習慣まで共通性が増えてくれば、もう都市ごとに考える必要はない。それこそが国というものですし、全ての国がインフラ、文化、習慣で一定の共通性を持つことが全世界のあるべき姿ではないかと思えてきます。」
「それは壮大な構想ですね。ゲームの世界でしか実現しそうにない。」
「いやいや人が考えられるものは大抵は実現可能なんですよ。特にそれを真剣に考えていれば考えているほど。しかし、あなたが言う壮大な構想を考え続ける偉人というのには、なかなか巡り合えない。」
キツジは相変わらず柔らかい顔でしゃべっていたが、声の中に真摯さがすこし入っているような、微妙な違いをジェロは感じた。キツジはそのまま言葉を続ける。
「私は思うんですよ。全世界のことを本当に思える人は、例えば私の知っている中で候補はシムナナムナくらいだとね。」
「シムナナムナが世界のオーナーですか。あんなのが世の中にたくさん増えても困るような気がするなあ。」
「そうですね。しかし、そうでないとあの言動は説明できない。人の言動には基本的にはその拠り所となる価値観が存在しますからね。価値観が読みづらい人というのは自分よりも大きな価値観で動いているものです。あるいは価値観自体が理解できない場合もありますが。」
シムナナムナについてそんな考察をジェロはしたことがなかった。友人である変人、としか思っていなかったが、価値観で考えるとシムナナムナは結構すごいやつなのかもしれないとジェロは思い直す。
ではキツジの価値観は何だろうとジェロは思いを巡らせた。先読みが好きな癖はひょっとしたら価値観を繋がっているのかもしれない。そういえば自分の価値観は何なのだろうか。自分の価値観を認知している者が世の中にどれだけいるのだろうかと、ジェロの思考は漂うように進み、時間がすこし流れた。
しばらく車内で沈黙が続いていることに気づいて、ジェロは再び話をキツジにふる。
「ところで、そのゲーム、アクツさんとの勝負はつきそうなんですか?」
「空港再編のプロジェクトが落ち着いたせいで、アクツがここ半年ほどゲームにムキになっています。毎日のように朝晩も手を入れられてはさすがに私も劣勢で、最近は二連敗でまた同点になってしまいました。五勝の差が出たら、やつのおごりで、旅行に付き合わせるつもりだったんですけどね。そうもいかないので、今日は一人で来たわけです。」
「何か賭けているんですか。」
「いや、たまにそういう約束は飲んだ席でしますけどね。何か賭けずとも、そういうやりとり自体が面白いんですよ。」
「アクツさんも、よくそんなことをしている時間がありますね。忙しいはずなんだけどな。」
部下だった時代のくせで、ややぼやき気味にジェロが言う。
「だいたい彼は朝早くと夜にやっているようですね。彼が休みの日はすぐに分かる。彼の国が大きく動きますから。」
「アクツさんとキツジさんは仲がいいんですね。」
「ええ。若い時からの付き合いですから。昔は仕事上でやっていたことを、この頃はゲームという健全な場に切り替えてやっているだけです。そうするとね、純粋に勝負に集中できるので、かえっていいんです。本当にいいライバルを私は持つことができました。」
ひょっとして昔、仕事の主導権争いや出世競争がキツジとアクツの間にあったのかもしれない。ジェロはふとそう感じたが、それは口には出さなかった。
そのあともゲームのことがほとんど話の中心で、そうこうしているうちにワンジュの街が近づいていた。最初にホテルに荷物を預けて、再びキツジが車に乗り込んだ時にジェロは気づく。
「ちょうど時間ですね。シムナナムナの放送を聞きましょう。」
カーラジオのスイッチが入ると民族音楽が流れてくる。キツジに気を使ったのか、それはホッタイトのものだった。動物の皮でできた太鼓、どこか乾いて陽気な音だ。
「間違いなくシムナナムナの選曲ですね。」
「ええ、この後に気象通報の読み上げが始まるんです。」
ジェロがそう解説し終えるのとほぼ同時に音楽がフェードもなく止んで、シムナナムナの朗々とした声になる。
『地上通報。書式8002。
3月2日0時、現地時間午前9時、
47765 01520 41305 10125 20050 30085
降水なし 視程20キロ 130度 風速05メートル 気温12、5度 露点温度5.0度 気圧1008.5ヘクトパスカル。
空港通報。書式9002
2日0時、現地時間午前9時、
アージェ 9999 スキャ040 ヒュハイクラウド 13010ノッ ノスワ。
視程10プラス 130度10ノット スキャター040 ヒューハイクラウド 特段の気象現象なし
』
それから先ほどの音楽がまた始まる。唐突さだけが目立つ編成内容だが、天気変化に特別なことがなく、天文台としての告知事項がなければいつもこんな感じだ。
「これだけですか?」
「はい、これを日に3回、最後に解説をつけたりすることはありますけどね。彗星が見える時期とか、あるいは天気が荒れそうな時ですと。」
「それにしてもラジオでやる必要あるんでしょうかね。これならネットで見るササジー通信の内容と何も変わらない。」
「はは・・。僕もそう思います。」
ジェロはラジオの音楽を聞きながら元空港施設の前に駐車した。そのまま二人はすぐにシムナナムナの店へ入ったが、客だけでなく店員さえ誰一人としていない状況だ。その後、二人がとりあえずカウンターに座ったタイミングで、ちょうどシムナナムナが戻ってきた。
「どうも。アクツさん。お久しぶりです。あなたにお会いしたかった。」
大げさな手振りだが、シムナナムナは心からそういう心境なのだろう。
「やあ。お元気そうでなによりです。お忙しそうで。」
その声を聞いたキツジの目は、みるみるうちに優しくなったようにジェロには見えた。
「はい、気象通報も作らなくてはいけないし、放送はあるし、なかなか忙しい。この店が混雑しないことを願うばかりです。」
「でも、お金になりそうなのはこの店だけでしょう。そこは踏ん張って下さいよ。」
「はい、分かってますよ。それより中へどうぞ。ボクはね、最近コーヒーを作る腕前がかなり上がったんです。ぜひそれを確かめてもらいたい。」
「ほほう。それはいいですね。」
シムナナムナはキツジを店に招き入れた。シムナナムナはそのままカウンターの中に入る。
「今まで車の中であなたの放送を生で聞いていましたよ。」
「ジェロさんが迎えに行ってたんですよね。だから今日は店番が居なかった。キツジさんもせっかくここに来たんですから、店番のやりかたくらい覚えて下さい。そうです。それがいいですよね。」
ここでシムナナムナはジェロに向かって同意を求めた。しかたなくジェロはシムナナムナに賛同する。
「僕だって毎日店番しているわけじゃないが、まあ、旅の思い出としては悪くないでしょう。」
「はい。店番のしかたは後で教えてあげられるかもしれませんが、あまりあてにしないで下さい。まあ、習ってやるより、慣れてから習い直した方が身になるものですよ。」
シムナナムナは笑いながらキツジに言った。
「休暇中は普段の倍ほどは忙しいのですけどね。まあ、それも一興でしょう。」
キツジは肩をすくめると、やはり静かに笑った。そのたたずまいからして、こんなシムナナムナとの再会を楽しんでいるようだ。話の流れでキツジの研修担当にされるのを警戒したジェロは、話題を換えようとキツジに話しかけた。
「このお休みは、何をして過ごされるのですか?」
「読書、散歩、それにすこしはこの近くの観光名所を巡ってみたいと思っています。まあ、がっちりと予定の決まっているのは好きではないので、その日の朝の気分で何をするか考えます。」
「それもいい過ごし方でしょうね。」
「ところで、ボクの空港、ホッタイトはどうですか? 変わりはないですか。」
シムナナムナにとってホッタイトはいまだにボクの空港であるようだ。
「相変わらずです。また、遠方への空路がなくなりましたからね。食事をしたり土産を買ったりするのは、乗り継ぎの大きな空港が人気ですから、テナントは大幅見直しですよ。」
「ボクのいた土産物屋はどうなりましたか?」
「あのフロアは改修しまして待機場所を広げました。」
「そうですか。それは残念です。でも安心して下さい。キツジさん。このお店の名前はササジー。ただ、引っ越しをしただけですよ。ササジー通信だって健在です。」
空港でジェロがやっていた土産屋の名前がササジー、そう言えばこの喫茶店の名前も同じだった。ジェロは今さらながらに気づくが、それにしても業種は随分と違う。
「おい、シムナナムナ。まさかこの店で土産ものまで置く気じゃないだろうな。」
「それはいいアイデアです。ラジオが落ち着いたら、早速プランを練ってみましょう。ただ・・」
「ただ?」キツジが聞き返す。
「ただ、もう資金が切れてしまいました。うん、そうですね。この店の売り上げが上がらないことには。」
ラジオの自主放送をしたくてお金がなくなるのも、この店の売り上げがアップするのも、ジェロにとってはどちらも現実離れした夢のような話だ。そんなシムナナムナの変わらぬ様子を見て、キツジはやはり笑いながら話しかける。
「シムナナムナさん、相変わらずですね。私と離れてから余計に財政面で計画性がなくなったように見えますよ。」
「いや、そんなことはありません。キツジさん、あなたは相談相手としてはあまりに慎重でしたが、最近の相談相手であるジェロさんはあまりに聞き流すので、まあ、自分で決めることが多くはなっています。」
ジェロはここで口を挟もうとしたが、シムナナムナとキツジの話題はすぐに次に移っていた。
「今のあなたの空港、こちらの店の具合はどうですか?」
「空港に今も昔もありませんよ。ここはボクの店です。そして天文台だし、気象台です。しばらくしたら飛行機も戻ってくるでしょう。そうしたらここもボクの空港になります。」
話がまるで途切れそうにないので、ジェロはここで一旦口を挟んだ。メニューさえ出ていない状況では、コーヒーショップとしての形にまるでなっていないからだ。
「シムナナムナ、話は尽きないんだろうが、キツジさんと僕にランチセットを用意してくれないか。キツジさんはここのランチのために食事はまだ軽くしか、していないんだ。」
「そうですか。それは素晴らしい。早速用意させてもらいます。」
そう言うとシムナナムナはコンロに向かい合って、ランチの支度にかかる。
「何が素晴らしいと思ったのか、それはおそらく自分の腕を振るう環境が整っていることを言っているんでしょうか。あるいは私たちの食事に対する心がけのことを言っているのか。」
キツジがひとり言のようにつぶやいた。
「キツジさんはいつまでいらっしゃるんですか。」
「はい、宿の予約は五日ほど入れています。まあ、のんびりしようかと思いまして。」
「そうですか。ところでシムナナムナは食事を作る時は上の空で会話くらいできるが、コーヒーを入れる時は完全に黙って自分の世界に入ってしまう。つまりは集中し過ぎるんです。なので、しゃべり疲れた頃にコーヒーを頼んだ方がいいですよ。」
「なるほど、そういうものですか。じゃあ、今もあまり話を聞いていないんでしょうね。」
「何か言えば、はいとか、そうですねとか言うでしょう。きっとそのくらいです。」
シムナナムナは後ろを向いて食材の吟味をしているようだ。キツジはすこし珍しそうにシムナナムナの背中を見ていたが、やがて思い出したようにまたジェロに話しかける。
「ところで、あなたのお仕事は最近どうですか? あなたのアプリはだいぶ好評だそうですね。」
「はあ。そんなたいしたものじゃないですが。」
「特に主要管区でないエリアの人には役立っているようですね。空港関係者や気象台関係者にも愛好家がいるとか。」
「僕はつくってメンテナンスするばっかりですよ。ライセンスの発行、継続契約の管理は登録してある会社がやってくれますからね。」
「あ、そういうものなのですか。」
「はい。ただ、だいぶ収入は安定するようになりました。」
シムナナムナのランチを食べ終えてコーヒーが出た段階で、シムナナムナはいよいよ会話を本格的に再開しようとカウンターににじり寄ってきた。
「そう言えばホッタイトからレポートが来ていました。そろそろ砂が始まったとか。もっと西の友人も今年は大変な砂だと言ってます。昨日からその友人のネットが繋がっていないようなので詳しい状況は知らないですが。」
「ええ、この新しい季節の訪れというやつですよ。どの街にも季節の到来を告げる現象というのがある。ただ、ホッタイトの砂の場合は外出がおっくうになるし、空港にとっては厄介ですがね。この街ではなんでしょう?」
「まだ住んで一年も経っていないですが、この街は穏やかですね。朝の寒さや日差しの強さとか、微細な変化にそれはあるような気がします。ボクの生まれたサラスタミズナも天気は穏やかでしたが、あと三か月もすると霧が多くなります。数年に一度はひどいことになった。」
「そうそう、あなたたちに会えたら言おうと思っていたことがある。この前の電話があったので調べ直しておいたのですが、この街は霧は起こりにくいですよ。空港だった数年間の記録を見たが濃霧はなんと一度もない。ひどい時でもモヤくらいなので、近づきにくいようですね。むしろ他のことに気をつけた方がいい。」
シムナナムナとキツジの話はまだまだ尽きることはないだろうと思い、ジェロはそろそろ店を出ようと思った。
「じゃあ、僕はいいかげん仕事に戻りますよ。」
「残念ですね。でも、ジェロさんのお仕事があるのはいいことですからお引き止めできません。」
「ジェロさんはそんなに暇ではないでしょう。」
キツジが当たり前のように言うと、シムナナムナはびっくりしたように言葉を足す。
「だって、この人は世界交通機関を辞めてしまって、ここで暇そうにコーヒーを飲んでいます。だからお金がないんじゃないかと思っていつもヒヤヒヤするんですよ。」
「何を失礼なことを言っているんですか。ジェロさんの作ったアプリは業界では評判ですよ。たぶん、あなたよりずっと安定した収入というのがすでにあるんです。」
「そうだったんですか。それは良かった。」
「あった方がいいんだけどあまり誰もやりたがらない。それをやり抜くのですから人気も出ますよ。ローカルな通報式の翻訳と再フォーマット化は特に便利だ。シムナナムナ、あなたは使っていないんですか。」
「あ、いえ。知りませんねえ。ではボクのサイトでぜひ紹介させて下さいよ。いやあ、ジェロさんの仕事がそれほど順調だとは。良かった。良かった。」
ジェロは自分の仕事の話を今までシムナナムナにしなかったが、それは自慢話にならないか心配だったためだ。その時もなんとなく居心地が悪くなったので、ジェロはタイミングを見つけたかのように席から立ち上がった。
「では、これで。キツジさん、どこか遠出したい時は車でお送りしますので、その時は連絡下さい。」
「ありがとう。ジェロさん。まあ、どう過ごすかはこれから考えます。とりあえず今日、明日はシムナナムナと話したら、ホテルに籠ります。読もうと思っていた本もあるし、ネットでアクツを出し抜くチャンスですから。それをいつもと違う空で出来るのがいい。」
「アクツ?」
シムナナムナが不思議そうに言った。シムナナムナの頭の中にはアクツの名前は完全に残っていないようだ。
「ああ、ライバルのことですよ。」
ジェロが曖昧な補足をした。
「そうですか。ライバルがいるとはいいですね。籠りきりでもあれでしょうから、食事をしたくなったりコーヒーが必要ならここに来るといいです。宿はどこですか。」
「センターモールの二十階だよ。」
キツジにかわってジェロが答えた。
「ああ、ショッピングセンターの高層階ですね。この街の中心部だ。」
「ここから歩いて一時間くらい。ちょうど散歩にいい距離です。」
「あ、キツジさん、来てくれるなら昼の十二時か午後三時のちょっと前にぜひ来て下さい。そうすれば店番も兼ねることができる。」
二人が手を振ってジェロが背中を見せると、二人の会話はすぐに再開した。
「ところでシムナナムナ。放送で現地時間という言葉を使っていましたが、現地の暦は一つなのでしょうか? このあたりの暦は複雑ですよね。」
「さすが、よく知ってますね。ここには大きく三つの暦があります。」
そんな会話を背中に聞きながら、ジェロは店の扉を閉めた。
キツジがやってきた日の夜遅く、ジェロは気になる画像データを見つけた。プログラム作成のサンプルとして使用したものなのだが、どうにも気がかりに感じる。次の日、目が覚めても心持ちが変わらないため、ジェロはキツジに連絡をとることにした。
「どうも、おはようございます。夜遅くまでシムナナムナと語っていましたので今起きた所です。」
電話口のキツジはいつもの落ち着いた口調で笑っていた。朝の挨拶を交わすとすぐにジェロは話を切り出す。
「ところでキツジさんは、今日はシムナナムナの店には行きますか?」
「これから名所巡りで移動しようと思っています。まあ、スケジュールにしばられない旅ができるというのも休暇の醍醐味ですから確定的なものは何一つないですが、とりあえず朝食というか昼食をとっておきたいですね。」
「僕もこれから行く所なのでよろしければ送りますよ。」
「そんなに毎回送ってもらっては申し訳ない。」
「いえ、ちょっと気になることもあるもので。」
それから数十分後、ホテルの車止めで待ち合わせたキツジは、心なしかぼんやりしているようにも見えた。たぶん昨日はキツジなりにはしゃぎ過ぎたためだ。そのままジェロの車はシムナナムナの店に直行した。
キツジが店の扉を開けると、来客を告げる鈴の音がシムナナムナを振り向かせた。
「やあ、キツジさん。今日の予定は決まりましたか。」
キツジとジェロの顔を見たシムナナムナは快活そうに声をかけてくる。シムナナムナの場合はあまり疲れが表に出ない。
「出かけようかとも思ったのですが、やっぱり今日は読書三昧をしようかと思います。読みたい本がじつは十冊ほどたまってますので。もうダウンロード済みです。」
「そうですか。ところでボクはこれからササジー通信をやってきますから、店番をお願いしますね。」
「分かりました。戻ったらコーヒーをお願いしますよ。」
シムナナムナが扉を閉めるとやや空気が落ち着く。そこでキツジは改めて聞いてきた。
「ところで電話で言っていた、気になることとは、なんでしょう。」
「はあ、昨日、衛星画像の処理をしてまして、ちょっと西域が気になりました。一緒に見てもらえますか?」
「はい。」
ジェロは携帯していた薄型モニタで画像を呼び出した。
「これです。砂嵐だと思いますけど、こんな規模になるでしょうか。」
「・・・うん。これは解析画像ですね。解析方法は正しいですか。このあたりはいつも可視化不能範囲ですよね。」
「はい。差分画像、1と4チャンネルで、極域でやっていた推定合成の手法をブラインドエリアにも適応してみたんです。この処理何度もやってますから間違えようはないんです。」
「これは、すごい規模ですね。人がほとんどいないエリアではありますが。」
「東に動いていくことになりそうです。昨日シムナナムナが受け取ったレポートもちょっと気になりまして。」
その領域の東にはホッタイトの街がある。それはキツジもすでに理解しているようだ。
「ううん・・、この画像処理は素晴らしいが、本当にこんな規模になるかどうか。」
そう言うと、しばしキツジは無言になる。やがて、シムナナムナが放送を終えて戻る頃には、キツジは何本か電話をかけて、方々と意見交換をしている所だった。
「なんだかキツジさんはずいぶんと忙しそうですね。」
シムナナムナは耳打ちするようにジェロに言う。
「ああ、西域で大きな砂嵐が発生しているそうだ。」
「ああ、そうなのですか、やっぱり。酷い規模かもしれないと気になっていましたが。」
シムナナムナはそれからしばらく無言になった。シムナナムナは後悔をしているのかもしれないとジェロは感じた。やがてキツジはシムナナムナとジェロの方に向かっていう。
「シムナナムナ、コーヒーを一杯入れてくれませんか。それを飲み終えたらこの街を出ることにします。」
「砂嵐はそんなにひどい状況なんですか?」
ジェロが聞くとキツジは頷いた。
「ともかく私は帰っておいた方が良さそうだ。未来なんて分からないものです。だけど、なるべく後悔しない方法はだいたい分かっています。みんな成功と失敗を比べたがりますが、それはよくない。大きな成功と小さな成功を比べることも同じです。比べるなら、大きな失敗と小さな失敗です。それが私のような凡人における人生のコツというやつですよ。」
それからキツジはふと笑みをこぼして言葉を続けた。
「全く・・。少なくともあと二、三日はのんびりしたかったんですがね。それだと帰りの便がホッタイトに着陸できないかもしれない。不測の事態の時に休暇中だったというのは後味が悪すぎますのでね。今日のうちにバスでまた長距離移動です。」
「本当に行ってしまうんですか。それであれば、これから作るコーヒーは旅の最高の思い出にしなくてはいけないですね。」
「はい、すこし短くなりましたが良い休暇でした。休暇の予定は細かく決めておかない私の流儀に合った休暇でしたよ。」
シムナナムナはそう言うとカウンターの奥へと向かった。
「まあ、別れのコーヒーというのも格別ですよ。それが突然であればあるほどね。」
三人がコーヒーを飲んだ後にキツジが慌ただしく出発した。そして、キツジがワンジュの街を出た数日後、ホッタイトの空港は記録的な砂嵐に見舞われた。その年、今までになかった規模の嵐が多くの街を襲うことになる。ホッタイトを襲った砂嵐はその先駆けとなるものだった。




