五、
流星群の夜から数週間が経ち、街の空気には秋の気配が感じられるようになってきた。秋風の中、いつもの習慣で車に乗ってその店を目指す。
「やあ、シムナナムナ。いいコーヒー豆は入ったかい?」
「ジェロさん、いらっしゃい。」
ジェロが店に顔を出す早々に、シムナナムナは嬉しそうに話しかけてきた。話し相手が来るのを今か今かと待っていたのだと、ジェロにはすぐに分かった。
「とても素敵なことを思いついたんですよ。ジェロさん。狭域ラジオって知ってますか?」
ジェロがカウンターに座る前からすでに会話は始まる。
「ええと、ラジオ局じゃなくて個人が始められるラジオのことだったっけ。」
席に座りながらジェロが答えた。ジェロはとりあえずコーヒーを注文したかったのだが、シムナナムナの言葉は何の躊躇もなく続いていく。
「そうです。狭域ラジオは地域コミュニティーの中心になる場合があります。ボクはそれを始めようと思っているんです。」
それは商業ベースでなく地域ごとの情報共有の手段とされ、地方自治体、地場企業、あるいは個人と多様な人々が様々な番組を流すことが出来るものだ。電波の帯域は十数キロという狭い範囲に限られるが、むしろそれを特徴として活かしやすい媒体だと一般に言われている。ジェロはおぼろげな記憶の中の知識を呼び起こした。
「なぜだい。なんでラジオなんだ?」
「気象と天体の観測結果を伝えるんです。」
「きみの天体観測の成果や明日の天気予報を伝えるために電波を出すってことかい?」
「はい、そうです。」
毎日様々な媒体から情報が流されて、それが世界中を飛び交っている。通常はその情報は公的な情報か、私的なものかに大別されることが多い。シムナナムナが考えているラジオが一体どんなものかジェロにはイメージできなかった。
「そういえば最近、天気予報を店に出しているね。」
そう言ってジェロが指差したのは、カウンターの後ろ側の壁に貼られた紙だった。そこにはシムナナムナが作成したこの街の天気予報が書かれている。ホッタイトの空港にあった店でも同じようなことをシムナナムナはやってきたが、その習慣がここでも再開されたらしい。ジェロの言葉に満足そうに頷きながら、シムナナムナは応える。
「この街の気象特性を、ボクはだいたい理解するに至りましたからね。それにこの前の霧を見てからボクは考えを改めました。何かを予想しても誰かに伝えることが出来なければ、なんの意味もないことを。ジェロさん、違いますか?」
「まあ、そうだろうね。」
「人に伝わった時に一番役立つのはどういう場合か、ボクは考えています。一番、心地良い手段を見つけるために、それを試すために、ラジオをやろうと思っています。」
相変わらずの凝り性だなとジェロは思ったが、シムナナムナの目にはこれまで以上の真剣さがあった。
「ネットと繋がっていれば情報発信は簡単だろうに。」
個人からの情報発信は、ネット上に様々あるサイトやサービスが使われることが多い。それらをシムナナムナはもうだいぶ前から使いこなしていたはずだった。
「ボクは人に伝える方法について、前にも調べたことがあります。その時、ネットワークについて勉強して、ボクの考えた情報をネットに載せることが出来るようになりました。今回はさらにもっと考えました。今度、霧が出る時にはどうすればいいのか、その答えがこのラジオ局です。人に伝える方法を、ボクは一つでも多く使おうと思っています。」
どうやら狭域ラジオをすることはシムナナムナにとって思いつきではなくて、今までのテーマの延長線上にあるということらしかった。シムナナムナの話は続く。
「人に伝えること、それが伝える幅がない時はエッセンスをフォーマットにして送るという美しい方法が定められました。それは世界を駆け巡る通報式です。その伝えるための線が太くなってどんなものでも送れるようになった時、完全に同じものを再生させることが本当に正しく伝わることなのでしょうか。ボクは違うと思っていました。だってボクは通報式の方がテレビの天気予報よりも好きですから。でもね、やっぱり疑問になったんです。それが最善なんだろうかと。まだ通報式にできていない大事な要素、物理量があるんじゃないかって。だからそれを試してみるんです。」
「物理量なら、だいたい出尽くしているんじゃないかな。」
「まだ測ることができないだけで、存在しているものがあるんじゃないかって。思うんです。ひょっとしたら、それは法則に支配されないものかもしれないですし。」
「それなら、それは物理量って言わないんじゃないかな。」
「それは、そうかもしれません。通報式との相性がよくないシロモノの可能性があります。ジェロさん、だからですね。ボクは通報式以外のことにも挑戦しようと思うんです。それが狭域ラジオなわけですよ。」
ここでシムナナムナはやや誇らしげに言った。
「でも、そんな簡単に始められるもんじゃないだろう。」
「音声を取得する設備、音声を電波に変える設備、そして大事なのが電波を発信する設備。それが基本だとボクは考えました。だから、これらの設備を新たに買おうと思っています。」
「なぜ? そんな予算、どうやってつけるんだい。」
「予算ではありません。ボクの貯金にあとすこし足せば買うことが出来そうです。もうこれでボクは完全にすっからかんです。ここから離れることが出来ない。」
どうやら私財を全部つぎこむつもりらしい、そういえばシムナナムナはそういう性質だったことをジェロは思い出したが、その判断にはやはり唖然とするしかなかった。
「それで大丈夫なのか?」
「はい。でもですね、じつはボクはすこし悲しいんです。計画していた天体観測の会、あれは中止です。まずはラジオを先にやります。だけど大丈夫です。ボクは気づいたんです。ラジオで宣伝をしてから展開観測の会をした方が、きっと人が多く集まるだろうって。だからね、ジェロさん。大丈夫なんです。」
「なるほど。まあ、それは大丈夫そうだ。」
シムナナムナの心配とジェロの心配は全く違うものだったが、シムナナムナはやはりそれには気づいていなかった。
「ところでマスター、そろそろ僕のオーダーを聞いてくれるかい?」
「はい、もちろん。一番の常連さんですから。」
その後やっとジェロはコーヒーと遅めのランチを注文することが出来た。その後、何人か客が現れたが、そのたびにシムナナムナは狭域ラジオのことを語って聞かせる。その日、コーヒーが出来上がるのがいつもより遅い。コーヒーを入れるのには手を抜かず、いつもより熱心に話していれば必然のこととも言えた。
「どうです? 素晴らしいアイデアだと思いませんか?」
他の客に同じようにラジオの話を続けるシムナナムナを見てジェロはふと思う。愚直な気のいい男が報われる、ただそれだけの奇跡というのがあったら、ぜひ見たいものだと。ジェロはそんな風にシムナナムナの成功を期待し、やがてコーヒーを飲み終えると店を後にした。
それからほどなくして、シムナナムナの計画は具体的に動き出した。ある日、ジェロが店を訪れると、喜びに満ちた顔のシムナナムナがあった。そして早々にシムナナムナに店の外へ連れ戻される。そして見上げることになったのは施設の屋上部分だ。
「あの右から三番目のやつが、新しいアンテナです。ほかよりずいぶんと丸いやつ。どうです。ジェロさん、どう思いますか?」
「まあ、いいんじゃないか。」
「ええ、いいでしょう。」
元は空港だった建物なので、多くのアンテナ類が建物の上部を占拠していた。その中の新しく据え付けられた一つ、それをシムナナムナは見せたかったようだ。
「あれはラジオ用ってことかい?」
「そうです。すでに、あのアンテナは下の部屋、元の副管制室と繋がっています。あそこからは空港施設の気象測器のデータが見られますからね、便利です。副管制室が放送スタジオになるわけです。おまけにここの地下には大きな非常用電源設備がある。空港一つを支えようとしていたものですから停電が起こったって問題はない。切り替え方法のマニュアルはちゃんと残っています。」
「なるほどね。」
「それにしてもあのアンテナは素晴らしい。ちょっと古いものですが、未使用のものですからね。輝きが違う。」
ジェロにしたら、似たような棒が乱立しているので、新しいアンテナと言われても正直どれにも深い感想はない。しかし、シムナナムナには違う輝きが見えているようだった。
「これで電波を出すことができる。準備にはもうすこし必要ですが。」
「まだ何か買うつもりかい。」
「設備はこれでだいたい揃ったんですが、まだ免許がない。難しいものではないですが、免許をとってから電波を出さなくてはいけないそうです。そうした順番を守ることはボクは必要だと思います。」
「うん。まあ、そういうことがいるんだろうな。」
「ええ、あとすこしです。ただね、まだ一つ問題があります。」
「問題?」
「ええ、ボクの天気予報がなかなか当たらないということです。昨日もネットワークの友人、リーンさんという人ですが、彼にからかわれました。ボクね、頼まれて知らない街の天気予報を出すことがあるんです。リーンさんの街の予報も何度もやっている。その人がね、言うんです。あなたが雨が降らないと言って雨が降ったことは確かにあまりない。だけどあなたが雨が降ると言って実際に雨が降るのは三割くらいじゃないのかと。それはボクの予測実力の問題です。ラジオ局が開くまでにせめて半分くらいは雨が降るようにしなくてはいけない。」
「まあ、それはきみが頑張った方がいいね。」
そのあとでジェロはようやく店に戻って座ることが出来た。アンテナを披露してやっと落ち着いた様子のシムナナムナは、いつものように黙って入念にコーヒーを入れ始めたので、ジェロはやっと緩やかな時間を楽しむことが出来た。
やがて出されたコーヒーにジェロは口をつける。シムナナムナはしばらくカウンターの中で洗い物をしていたが、ジェロが半分ほどコーヒーを飲み終えた段階で、今度は携帯型モニタを取り出して見せる。
「ジェロさん、見て下さい。これが昨日、ショウさんから届いた大盆地の空です。」
シムナナムナの手元で、モニタに出されたのは真っ青な空だった。
「大盆地って、三千キロも西にある盆地のことかい。そこのショウさんて紹介されたことはないはずだな。まあ、リーンさんも知らないけど。」
「先日、ネットで空の写真を交換する約束をした人なんです。天気予報のためには必須です。単なるカメラ画像より、誰がどう感じた時の写真か分かる所がいい。ボクのラジオのファンのためにと言ったら喜んで協力すると言ってくれました。」
「ファン? きみのラジオはまだ始まっていないだろ。」
「ボクのラジオはまもなく始まりますから。開始前からいろいろ協力してもらっているんです。まだ電波は出していないけど、正しい予測を出すためには少しでも多くの空の様子が必要です。それは大事なファンのためなんです。」
シムナナムナはササジー通信というニュースを配信、それにサイトでも情報を開示しており、このネットを使って独自のネットワークを築き出していた。それに加えて、すこし前から地元密着型のラジオ局にも連絡をとっているそうだ。一つの街に一人くらいは知り合いをつくっておいて、互いに情報交換を始めているらしい。それがシムナナムナにとって、事前に最もしておかなくてはいけないことらしかった。
「準備は着々と進んでいるってわけか。」
「はい。幸運訪れてくれるのは、しっかり準備した場合だけです。偶然という現実なんかは、ボクは期待してはいけないと思っています。むしろ、いろんな偶然に備えて準備をしておいた方がいい。」
そう言うとシムナナムナは別の地方の写真をまた見せる。シムナナムナは狭域ラジオ開局の準備を始めた頃から、世界地図を眺めることより、写真収集の結果を確認することの方が多くなっている。そんな様子を見てジェロは、シムナナムナの世界への情熱は形を変えながらも、さらに強くなっていることを感じていた。
シムナナムナのラジオ局が放送を開始したのは、それから一か月ほど後のことだ。シムナナムナの番組は一風変わった内容で、多くの時間はいわゆるラジオ的ではない。数時間に一度、更新された気象通報式の実況と独自の予測を読み上げて、ササジー通信で記事が更新された時には意味が伝わりにくい告知がされる。そして合間合間に民族音楽が流れるというものだった。シムナナムナが気になる気象や天体の事象がある時には、彼の解説が付け加えられた。
「明日はかなり気温が低くなります。今日よりも五度以上も違います。この原因は今夜遅くの雨、ここで寒冷前線がスプリットフロントで、一段階ではありません。ですから、明日は昼間もほとんど気温が上がりません。」
通報式発表の定時のタイミングの十五分ほど前になると、シムナナムナは客の有無に関係なく店を出てしまい、スタジオとなった元副管制室に向かう。そして素早く屋外の気象測器の数字などを見て予測を修正して、ネットのササジー通信を更新し、それからマイクの前でしゃべるというわけだ。放送を終えたシムナナムナは音楽を設定して自動放送に切り替えると、ようやく自分の店のことを思い出す。それまでの間、コーヒーショップは店主不在となるわけだが、その時間にジェロがいる場合は、問答無用で店番をさせられた。