四、
夏の暑い日、シムナナムナは青い空を見上げていた。わずかに浮かんだ雲、その白さに安心する。それからシムナナムナは、数か月前まで住んでいたホッタイトの空のことを思い出した。あの街の空はいつも真っ青で吸い込まれそうだった。雲が極端に少ない空を見ると、たまにシムナナムナは疎外感を感じることがあった。
シムナナムナが生まれ育った島、サラスタミズナではいつも雲が浮かんでいた。一年を通して、その姿が見えない日はほとんどなかった。だからホッタイトの雲を拒むような青い空を初めて見た時は、自分の土地じゃないみたいで不安だったのだ。それに比べて、この街の第一印象は非常に良い。長く住んだホッタイトの街をシムナナムナはかなり気に入っていたが、この新しい街はきっと自分にとってそれ以上の存在になると、初めて来た日のうちにシムナナムナは確信していた。なにより空を見上げるたびに、この街との絆が深まっていくのを実感できるのが、このところの楽しみだった。
この街に来てからのシムナナムナは、夜も空を見上げることが多い。最近のシムナナムナは天体観測に凝っていた。昼間は喫茶店でやってきた人を相手に思いっきりおしゃべりする。そして夜は一言も言わずに星を見上げる。最高の生活だった。気がつけば自分に相応しい所に収まっている。世の中は、とてもよくできているとシムナナムナは思った。
シムナナムナのコーヒーショップ、その日、最初の来客を告げる鈴がなり、扉が開いた。シムナナムナはこの鈴が好きだ。店の扉に結わえた鈴は、来客の到来を知らせる幸福の音である。
「やあ、シムナナムナ。いいコーヒー豆は入ったかい?」
「いらっしゃい。うちのは、いつだって最高のですよ。豆もですが、入れ方がいいですからね。」
いつもの顔、いつもの挨拶、今日最初の客はジェロだった。彼はこの店の常連で、シムナナムナにとっては大切な友人の一人だ。その友人の印象は出会った頃と今ではずいぶんと違う。
天文公園の喫茶店、ここをオープンした日も最初の客はジェロだった。それからずっと、毎日のようにやってきてくれる。ジェロは休暇でこの街を訪れた時に気に入って、休暇明けにそれまで所属していた組織を離れる決断をして引っ越してきた。店の開店とともにシムナナムナがやってきたのはそれから半年も後のことなので、ジェロの方がこの街の先輩だった。現在のジェロは、組織を離れてこの街でプログラマーをやっているという。
「ジェロさん、聞いて下さい。じつは昨日、大発見をしたんです。」
コーヒーを出すと早々にシムナナムナはカウンターから身を乗り出して話しかけてきた。シムナナムナはコーヒーを入れる時はひどく真剣に無口になる。そして客の前にコーヒーを置くと、途端にしゃべり出すことが多かった。ジェロは、シムナナムナの興奮した口調から、誰かに話したくて客が来るのをずっと待っていたのだと悟る。それはよくあることだったし、そんな時は今日のように最初の客がまず標的にされた。
「昨日の夜、ボクは発見をしたんです。星のまたたきと上空の風の関係についてです。ライダーをご存じですか?」
「光を当てて上空の大気の状態を調べるものだったかな。あまり空港には設置されない。パイロットは嫌がるからね。」
「そうです。でも、星のまたたきがその代わりになると考えられませんか?」
「それはどういうこと?」
「上空の風が強いと空気の温度、あるいは密度が大きく変わって分布するので、星から光が屈折してまたたくものです。このまたたき方が空のどの高さの風によって変わるか、あるいは風向きが推定できるのではないかと思うんですよ。」
「うーん。それは難しい気がするな。上空の上下方向の温度の分布は毎日違う。その上で風の様子も変化するわけだし。」
ジェロは気象学についての多少の知識を持っていた。だからシムナナムナの話し相手には最適なのだ。
「いや、でも、この街の上空に限って言えば、風が強まるのは西か南西なんです。」
「一年間ずっとではないんじゃないかな。」
「その通り。でも各月ごとに事前に統計を持っていれば新たな発見がある、ボクが思いついたのはそういうことです。」
夜は空を見て、しっかり考える。そして昼間はコーヒーを振る舞って心ゆくまでおしゃべりをする。シムナナムナは新しいこの生活が自分にとても合っていると思った。シムナナムナが新たな持論として星のまたたきと上空の風に関する仮説を一通り話し終えると、やっと落ち着いたようだ。ジェロはそれを見計らって軽い食事を注文する。
「今の室内気温は二十三度です。だから余熱の設定はノーマルにしましょう。」
注文を聞いたシムナナムナはトーストを焼いてフライパンを温め始めた。プレートを用意する時のシムナナムナは、コーヒーを入れる時ほどは無口にはならず、相槌くらいならする。だからジェロは他に客がいない時には、その間に時々つぶやくように話す。ふと浮かんだこと、大概はそういう話題だ。
「今朝ね、家を出ると親子連れが笑いながら歩いていた。幸せそうだった。だから自分でもね、マネして笑ってみたんだ。そしたら一人で笑っていたらなんだかおかしいって気づいたんだ。そういうのって試してみると実感するんだよね。違和感を知るって、とっても大事だと思うんだ。」
聞き役が入れ替わった形で、会話は続く。
「ええ・・。」
「みんなが笑っている時に笑えない、それは自分がその中にいないと感じるから。自分のいる世界はここにはないんだってね、それに自分で気づけるかどうかだよ。」
「・・はい、そうですね。」
「今の仕事を始めたのも、この街に住むことにしたのも、オーギュシティにいると、時々自分で自分が何をしているのか分からなくなる時があったからなんだ。意識していないのにそういうことになる。そんな不思議な時間帯があった。一時期はそれがいい方向に動いたんだ。だけどやっぱりうまくいかなくなった。」
「そういうことはあるんでしょうね。」
シムナナムナは取り出した卵の品定めをしながら答えるが、ジェロの話の内容はほとんど聞こえてはいなかった。
「それがここに来てからは全くない。自分の身体や影がどこまでも自分にくっついている、そんな感じだ。」
「そんなものなのかもしれないですね・・。」
つぶやきのような言葉は、プレートの味付けで上の空くらいのシムナナムナの相槌がちょうどいい。
「でも、その分ぼんやりくせが増してしまったよ。最近、特にそう思うよ。もうここに来て一年だ。」
プレートのまわりについたソースを拭き取ってシムナナムナはジェロの前に朝食を差し出す。シムナナムナがジェロのことをしっかりと思い出す、我に返った瞬間だ。そのタイミングでよくシムナナムナは同じ質問をした。
「最近儲かってますか?」
シムナナムナは時々心配になるのだ。ジェロはプログラムを作ってはそれを売っているらしいが、それで生計が成り立つのだろうか。そんなに特別な才能があるようにはシムナナムナには見えなかった。
「さあ、どうだろうな。少なくともこの店にはツケはないぜ。」
ジェロはまともに答えたことがない。しかし、シムナナムナはいつだってジェロを心配してやる必要があると思っていた。
「見得を張るのは下らないことです。だってそれでお腹が満腹になったり楽しい気分になりませんから。ただの一瞬、気持ちが高揚する、それは下らないことなのです。」
じつはジェロの作ったプログラムのうちいくつかは評判が良く、転職は成功していた。だから、不安定ではあるものの、それなりの収入を得られている。でもジェロは、シムナナムナにそれを告げる気にはならなかった。
二人の会話、出だしはだいたいこんな感じで、お互いが心に浮かんだことを話す。相手はただ聞いているだけでいい。なのにお互いをいたわり合っていた。その時もシムナナムナは、ジェロを元気づけてやろうと自分の中で決めていたのだろう。
食事を終え、ジェロがフォークを皿に置いた途端、シムナナムナは突然カウンターのテーブルに地図を広げだした。それはシムナナムナがよくやる手だった。だいたい食事を出し終わった後からが、二人がお互いの話にまともに耳を傾け始めるタイミングだ。
「ボクの生まれた島、サラスタミズナはここです。そしてこの前まで住んでいたホッタイトはここ、ジェロさんの住んでいたオーギュシティの街は確かここですよね。」
「ああ。」
「ホッタイトのまわりは砂漠しかないでしょう。あの街からよく見えた山はこれです。」
シムナナムナの唐突な地図話に、ジェロは耳を傾ける姿勢になる。目前の地図では、自分の言ったところばかりが、やけに鮮明になっているとジェロは感じた。一方、シムナナムナは地図の至る所に興味があって、地図の中にある都市全てに友達がいるような口ぶりだ。
世界の全てを回ることなんて出来ないのに、行ったことのない街は確かに存在している、その不思議さがジェロが好んだ部分なのだが、シムナナムナにとっての地図は世界共通と地域特化の話の延長であるようだった。
シムナナムナは地図を見せる時、自分の趣味を披露しているという気持ちは全くなかった。シムナナムナには、ジェロに地図を頻繁に見せるべきだという使命感のようなものがあった。ジェロが地図を見ることで気持ちを奮い立たせてほしいし、何か大事なことに気づいてほしいとシムナナムナは思っていた。それに少なくとも、気持ちを和ませるためだけに地図を見せてやるのもコーヒー屋の仕事の一環だと、シムナナムナは信じて疑っていないのだ。
「ボクがこの街に引っ越すことを決めたのはキツジさんの紹介だったからではなく、ジェロさん、あなたの口ききがあったからですよ。」
「今さら何言ってるんだい。」
「もし森に入ってしまったら、迷路と同じ。抜け出す方法をいろいろ言う人がいると思います。ずっと右にいけとか風の流れてくる方法に進めとか、きっと一番確実で時間のかかる方法は、それを隅々まで知ることなのでしょう。でもね、ジェロさん、ボクの方針はいつも決まっているんです。信じる人を決めること、その人のことを裏切らないことだって。」
「やっぱりよく分からないな。」
シムナナムナの頭の中ではしっかり繋がっている地図の話、それがジェロには理解できない。
「天気や季節を感じて、そして世界地図を眺めるくらいの余裕が必要なんです。だから地勢とか、気象学というのはいい。最近は星を見上げるのも同じだと気がついています。」
「まあ、星や雲を見ていたら、ぼんやりしていても目立たないから便利ではあるな。」
ジェロが混ぜ返すように返事をするが、シムナナムナはそれに構わずに自分の話を続ける。
「隅々まで知ろうとすること、それが大事です。だいたいが隅々まで知ろうとしている最中に全ての真実はあるものですから、真実とはなんでしょう。ボクの場合は信じる人を選んで決めている。ジェロさんには、きっとジェロさんのやりかたがあるでしょう。でもね、あなたを見ていると思うんです。余計なことを考える人が余計なことを考えることを止めた時、きっと幸せだろうって。」
シムナナムナはそうして笑って、それから洗い物を片づけ始めた。
「それで、きみみたいに、星のまたたきのことを考えるのが幸せなのかい?」
シムナナムナにつられて笑ったジェロは言う。
「そうです。これが幸せでなくて、何が幸せなんでしょう。」
「そういえば、まだ気象予測の勉強、続けているみたいだね。」
「もはや勉強ではありません。実践ですよ、実践。ふもとの街は人口が増えていて今成長中です。今は街中の空港でハブ空港までピストン輸送で済んでますが、もう十年もすれば、この場所が、ジェロさん、あなたが今食事をしているここが、ハブ空港になる可能性は高いとボクは直感しています。だからですね。ここの天気予報は重要なんです。今、その経験を積んでおけるのはボクしかいないですから責任は重大です。天気も天体もやらなきゃいけないわけですよ。」
「あなたの本業はコーヒーと軽食ではないんですか。」
ジェロは冷やかすように他人行儀な言葉で言う。
「コーヒーと食事は生きていくために必要なもの。天気と天体はボクの人生そのもの。だからですね。ボクは忙しくってしかたがないんです。」
「ふうん。なるべき目標を、きみは簡単に見つけるんだな。もういいから、分かったよ。」
「なんにも見えなくても人生の目標だけはひどく鮮明なものだと、ボクは小さい頃から気づいてましたよ。」
ジェロの言葉をシムナナムナは褒め言葉と受け取ったようで、白い歯を見せて笑った。確かにシムナナムナの毎日は忙しいのだろうとジェロは思った。彼がやっているササジー通信は対象地点をホッタイトからワンジュに変えて今も継続しており、最近は前日の天体観測の成果や気象の実況に加えて、気象予測も追加して流しているからだ。
カウンターの奥で湯気が立ち上ぼった。その時、シムナナムナの中に何か閃きがあって昔の風景を思い出す。
「今、ふと思い出したんですが、ボクは気にしていることがあるんです。ボクの生まれた街、港街だったのですが、数年に一度、ものすごい濃霧になるんです。霧が海からやって一度それが始まると数日は港が使えなくなる。ボクは五、六回見ました。その濃霧をサラスタミズナにいたおじいさんは、ほとんど完全に言い当てたんです。すごいでしょ。ボクはそのおじいさんを尊敬しています。そんな風になりたいって。」
「へえ。まあ、その人なりのコツがあるんだろうね。」
「はい、きっとそうなんだと思います。人に伝えてもうまく伝わらない、だけどその人だけに分かる何か、です。」
「ふうん、重大な自然災害を防げれば、それは素晴らしいのは確かだな。それはこのあたりでいえば強風になるのかな。僕はまだ会ったことはないけど数年に一度、とんでもない風が吹くことがあるって聞いたよ。」
「はい、すこし砂も混じることがあるそうです。砂は空を見ていると雰囲気が分かります。昼も夜もですね。あれもボク、予測できますよ。なんと言ってもこの前までホッタイトにいましたから。」
自慢げなシムナナムナが眺めながら、ジェロは食後の時間を過ごした。コーヒーのおかわりを飲み干すとジェロは席を立つ。そろそろ仕事に集中しなくてはいけない時間だ。
「ジェロさん、そう言えば今夜の予定はどうですか。」
「今夜って天体観測かい?」
「そうです。今日は流星群があるんです。今夜一緒に星を見ませんか?」
ジェロは前にも、シムナナムナに誘われて星を見たことがあった。夜空を見上げてシムナナムナの星の講釈を聞く。飽きたらシムナナムナを放っておいても問題はない。そんな気ままな時間だった。ジェロは作りかけのプログラムのことを思い出す。大枠は完成したが、細かい見直しを入念に時間をかけてやっている。根気のいる作業で、まだ数日かかるだろう。それでも、もともと考えていた計画よりは早く仕上がる見込みだ。
「そうだな。じゃあ、参加させてもらうか。」
今回のプログラムを完成させるには根気が必要だったから、たまに付き合う分にはいい気分転換だと思い、ジェロはその誘いに乗ることにした。
「はい。そうして下さい。いよいよ来月から観測会をやりますからね。毎月、日を決めて星好きが集まる会、それにもぜひ参加して下さいね。」
それは、このところシムナナムナがよく口にしていた計画だった。この施設は天体観測所としても登録されているのだから、そうしたイベントを行うこと自体は全く問題ないのだが、果たして、どれだけの人が集まるのかをまず心配すべきではないかとジェロは思った。
「定例の方は、まあ考えておくよ。参加者が誰もいない時にだけ声かけてくれ。」
「そうですか。集まる時は一人でも多い方がいいですから。それに、確かに一人でじっくり見たい人向けも企画した方がいいですね。」
「そうだな・・、そうじゃないんだが、まあ、そうだな。」
シムナナムナの喫茶店が入っている建物は常にテナント募集をしている。もともと空港だったその施設は、今は役割を大きく変えていた。名目的にはこのあたり一帯が天文公園であり、施設には天体観測所としての登録がされているが、少なくともその役割は大きくない。もともと空港の騒音対策のために街から離れた所に建設された施設だ。空港がなくなった時点で街明かりはさらに減り、夜は真っ暗といいほどだ。天体観測に向いているというキツジの読みは悪くなかったのだが、特に集客力のある施設があるだけでなく、冷静に見ればシムナナムナの自己満足のための肩書のように思えなくもない。
この施設では、昼間の時間に広大な滑走路を利用したラジコンのレース場を使用することができるので、地元の人には天体観測所というより、ラジコン場として認識されていることが多い。だからラジコン用機材の調達やメンテナンスをする店が、この建物には入っていた。後は味の評判があまり良くないレストランくらいである。昼間はドライブインとしての役割を多少は担っている。だが、どれも昼間のみの営業なので、この施設の夜間機能はほとんどない。実際、天体観測所としての役割は、ほとんど期待されていないのだろうとジェロは値踏みしていた。
「わぉ。」
「すごいなあ。」
見晴らし台に上って、その晩、最初に夜空を見上げたシムナナムナとジェロは思わず言った。あたり一面に広がる圧巻の星空、その空全体を斜めに裂くように星が流れていく。ジェロは流れ星の音を聞いたように感じた。
「今の流星は大きかったですね。今のように大きな流れ星を火球と言います。」
シムナナムナは、デッキに新たなにとりつけられた望遠鏡の準備をしているが、その夜、流星群は活発で望遠鏡を使わずとも、すでにいくつかの流れ星を見つけていた。
「今夜は当たりですね。ジェロさんを誘っておいて良かった。」
「望遠鏡なんて要らないんじゃないか。」
「せっかく流れ星が多いんです。欲張って両方使ったらいい。」
そうこう言う間にも、また小さい流れ星が出る。
「今のも見えましたか?」
「ああ。見えた。」
「今夜は月明かりもないし、まったく絶好のコンディションです。」
「ああ、また流れたな。」
「はい。」
しばらくしてシムナナムナは望遠鏡を使うのを諦めたようだ。二人は建物の上で敷布を広げて仰向けになる。それから一時間近く二人は夜空を見上げて過ごした。
ジェロは夜がしっとりと更けていくのを感じる。流星群はまだ活動が活発だ。眠気が忍び寄るのも勿体なく感じる夜、シムナナムナがふと口を開いた。
「むかし、夜の散歩と言えば追いかけっこでした。もういない息子と一緒にやりました。その頃も星を見上げるのが好きでした。」
「ふうん。」
シムナナムナは家族を事故で亡くしている。だからジェロは、シムナナムナがしゃべりたいことだけしゃべればいいと思って、その話を聞く。
「たしか息子の友達によく嘘をつく子がいて、そのせいで息子が困っていました。もう、自分で見たものしか信じないなんて息子が言ったんです。でもね。ボクは息子に言ったんです。それじゃあ、たいへんだってね。」
「それはそれでいい気もするけど、どうかな。」
「協力し合わないと大きなことはできません。誰かの知識や経験を活かすことで人も学問も、経済だって成長するんです。だって、おかしいじゃないですか。学問だって最初に勉強で誰かの本を読むことは昔の人に協力してもらっているのと同じなんですから。死んだ人と協力はできても生きている人と協力できないなんてね。」
「まあ、そう言われるとそうかもしれない。でも、どっちかというと想像力の問題じゃないかな。」
「そうです。想像力は大事です。でないと、自分が言ったことのない世界のことが分からないし、天文学も発展しない。天文学っていうのは国の制約がないんです。だから世界中の人々が協力しやすい。というか協力なしではなり立たないんです。星の名前をつけたり観測の役割を決めたり、そういう全てのやりかたが人々が連携し尊重し合う前提でできている、いい世界です。気象も天体ほどじゃないけど制約は少ない。全てはそうなるべきだと思うんです。」
「でもさ、それじゃあ、息子さんの悩みは解決しなかったんじゃないかい。」
「そうです。だからボクは言いました。その友達をよく観察しなさいって。そうしたら、きっと何か分かる。ひょっとしたら嘘を見抜けるようになるかもしれないって。」
星がまた一つ落ちて、二人の間に少しの沈黙ができる。
「・・・」
「・・・」
「天体の世界も気象の世界も面白いのです。両方ともこの星全体のことに繋がっていますから。天体のことと気象のこと、合わせることができるかもしれません。それで直接は誰か助けられるわけでないかもしれませんが、でもね、ジェロさん、きっと誰かの役に立つ気がしています。」
「まあ、世の中もその仕組みも常に変わっていくからさ。」
「ボクには世界がめまぐるしく変わっているとは思えません。はじめ異なるものが反発してやがて溶けていく、その時間がかかっているようにしか、どうにも思えないんですよ。」
「そんなもんかな。でも、そうだとしてもさ、世の中が変わっていないように見える人は、たぶんそんなに多くはないよ。」
「変化は成長や発達に欠かせない要素です。でも、技術にはハヤリスタリがあります。でも、それは本質的な変化ではない場合が多いんだとボクは思います。ホッタイトの砂漠を見ていた時によくそう思っていました。当時、ボクが考えていたことを実践するのが、きっとこの街なんですよ。」
シムナナムナの問いが難しくなってきた。彼の思考は常に深く、時に深すぎて、本人は悩んでいないのに周りの人間が悩みだす時がある。それを感じたので、ジェロは会話を切ることにした。
「今日は流星群だぜ。流れ星の数でも数えて、それ以上考えるのは今夜は止めておこう。」
「そうですね。今日は流星群でした。」
しばらくシムナナムナは黙っていたが、まだ深い思考の中にいるようだった。そして再び何か思い出したように言う。
「大事なことは一つ一つを吟味して細部まで考えることです。細かい所で勝負しなくてはいけません。大局観ではどうでもいい所じゃないかと思うようなことでも。世の中はこういう仕組みだ、それだけ分かればいいと思っている人がいる。でもね、ジェロさん。その仕組みのとても細かい所、自分の生活のほんの五分間だけ関わる部分でも考えてから、もう一度、仕組みの話に戻るんです。」
「・・・ああ。」
「前にキツジさんにも同じような話をしました。そしたら、キツジさんは言いましたよ。同じ方向で持って一つ一つをやってやる、それがものごとを成功させる秘訣だって。」
「うーん、よく分からない。」
一旦は成功したように見えたが、どうやらジェロは会話を終わらせることに失敗していた。シムナナムナの言葉はまだ続く。
「小さな一つ一つ、それが大きな雲になっていつか奇跡になったりするんです。」
「今夜は考え事が多いようだね。シムナナムナ。」
「はい。ジェロさんはありませんか。星を見ていると切ない気持ちになること。特に今夜のように月がいない夜は見えるのは星だけですから。」
「感傷的な感覚はあまりないけどな。」
「ボクの場合は、家の鍵とか、大切なものを失くしてしまった時と同じ感覚を思い出してしまうんです。星を見過ぎると時々ね。若い頃に恋を失くしたり、家族が居なくなったりした時と同じような感覚です。それらは結局同じことかもしれませんけど。」
「ああ。」
「とにかく思うんです。うまく言えませんが、細かいことをいくつも見ていくことが必要だって。一人の人だけではダメですし、一つの考え方だけではダメだって。ただ仕事をしていれば暮らしてはいける。だけどそれは、生きていけることとは違うでしょう。」
「・・・。」
シムナナムナはなかなか話を止めようとしない。ジェロはすこし一人で星を見上げたくなった。
「向こうからも星を見てくる。」
ジェロはそう言って、展望台の奥の方へと進んでシムナナムナと距離をとった。それからしばらく一人で星を見ながらジェロは、リナやアクツのことをなんとなしに思い出した。一つだけじゃダメだとシムナナムナは言っていた。確かに今はジェロもそう思う。しかし、あの街にはあの街の考え方があるし、それだって決して悪くはない。それに馴染めるかどうかは、結局、個人的な問題なんだろうと思い直す。
『シムナナムナ、本当の自分がどんな人なのか、普通は分からないんだよ。どう変わったか、振り返ってみたら、それもじつは同じことで、つまりは落ち着く所に落ち着いているんだってね。変わり続けることで変わらないでいられるものさ。きみ以外のだいたいの人はね。』
シムナナムナのせいで、今夜は考えぐせが度を過ぎてしまうとジェロは思った。それにしてもジェロにとって不思議なのは、自分は考えるほど今までと同じ行動が出来なくなり悩んでしまうのに、シムナナムナは考えれば考えるほど行動に迷いがなく、明るくなることだ。それは人間の根本の何かに大きな差がきっとあって、ジェロは永遠にシムナナムナのように自分がなれないことを知っていた。
「流れ星の数が減ってきました。流星群のピークタイムが過ぎましたね。」
遠くからシムナナムナの声が小さく響く。ジェロは再びシムナナムナに近づいた。
「そう言えばあんまり流れなくなったな。」
シムナナムナとジェロはそろそろ天体観測を終えることにした。敷物と望遠鏡を片付けるため、ジェロが手持ちライトを探し始めたところで、シムナナムナが近くの山肌の異変に気づいた。
「あれは、ずいぶん低い雲ですね。」
「ああ、霧だろうね。」
二人とも暗さに目が慣れていたし、星明りも十分だったので、まわりの様子はだいたい見てとれる。シムナナムナが発見したのは二つの山の間の裾野から垣間見えるもの、白いその雲は霧の塊となり徐々に広がっているように見えた。
「霧です。こちらに近づいてきている。このまま谷すじを降りていけば、朝にはワンジュの街まで届きそうですね。」
「午後に雨が降ったからな。」
「・・・・。」
「どうしたんだい?」
「・・明日の朝は大変なことになります。伝えなくては。」
シムナナムナは急に人が変わったように騒ぎ出したので、ジェロは呆気にとられた。
「おじいさんは前日の昼間には言っていた。ボクはこんな間際になるまで気づかなかった。このままでは間に合わない。キツジさんの言っていた通りだ。ボクはまだ考えが足りていない。」
ジェロはそれで、昼間にシムナナムナが言っていたサラスタミズナの霧の話を思い出す。
「街に行って叫べば間に合うかもしれない。今から行きましょう。」
「ちょっと待てよ。シムナナムナ。今は寝ている人が多いんだし逆に迷惑だろう。」
「では、どうしたらいいんですか。すでに霧は目前まで来ているんですよ。」
「この街で濃霧になって混乱したなんて聞いたことはない。まあ多少の影響はあるかもしれないが、それだけのことだよ。別に人が死ぬわけじゃない。」
「いいえ、濃霧で船の衝突事故がありました。ああいうことを絶対にまた起こしていけないんです。」
それもサラスタミズナでの出来事なのだろうか、ジェロには分からなかった。ただ、ワンジュには大きな港は存在しない。
「ああ、ボクはこれを誰に伝えたらいいんだ。とにかく街へ行きます。起きてる人がいるかもしれない。」
「まあ、待てったら。」
シムナナムナはひどく興奮していて、一人で街に行かせたら何かトラブルが起きるような気がしていた。ジェロはどうしたものか分からず、とりあえずシムナナムナが屋上からの出入り口へ向かうのを阻むように立ちふさがったが、その実、途方に暮れていた。
「ジェロさん、どいて下さい。急いでいるんです。」
「落ち着けよ。」
ジェロがどんな表情をしているのか夜空の下ではよく分からない。ただ、その大きな目が落ち着きなく動いている様子だけは見てとれた。しばらく顔の見えない人影同士のにらみ合いが続いた後に、突然シムナナムナの手が動いた。
「シムナナムナ?」
「キツジさんに連絡を取ってみます。キツジさんはボクが街へ行くことに反対しないと思いますし、いい知恵があるかもしれない。」
すでに夜もだいぶ更けた時間だがキツジは電話に出たようだ。
「キツジさん、夜分にすいません。シムナナムナです。今、ジェロさんと流星観測をしているのですが、じつは今、大変なことが起きています。」
シムナナムナは事情を早口に説明していた。
「・・・はい。そうですか。うまく出来るか分かりませんがやってみます。道具? たぶんあったはずです。・・はい。」
数分の会話の後、シムナナムナは電話をジェロに渡す。
「ボクは霧観測に必要と思われる道具を探してから駐車場に行きます。ジェロさんは先に降りていて下さい。キツジさんがあなたに説明してくれるそうです。」
そう言うとシムナナムナの人影はジェロのわきをすり抜けていった。ジェロは茫然としつつも電話口からキツジに話しかける。
「キツジさん?」
「ははは。相変わらずシムナナムナの相手は退屈しませんなあ。」
キツジの声はいつもどおり落ち着いていた。
「私はついさっきまでアクツと戦っておりましてね。床に着いたばかりだったんです。全く迷惑な話です。」
そう言いつつもキツジの口調は、むしろ楽しんでいるように聞こえる。電話の向こうでキツジが言葉を続けた。
「すいませんが、今から車を運転してシムナナムナと出て下さい。そして街と反対の道、山へ向かうんです。シムナナムナにはまず霧の脅威を測定しろと、伝えました。これから霧がどれくらいの速さで街へ向かっているか測って、街が霧に覆われる時間を予測しなさい、そこまでしないと誰もきみの言うことは信じないだろうからってね。シムナナムナがその作業をしている間に、私がワンジュの交通機関や自治体に連絡すると伝えています。」
「はあ。果たして大丈夫でしょうか。」
ここでキツジは、いつもの先読みグセを自慢するようにまた笑った。少なくともジェロにはそう思える間があった。
「シムナナムナが思うほどその霧は一大事ではない可能性が高いと私は思いますよ。だからちょっと時間を稼いでいるんです。これから一応気象データや近くの予測班の見解を確認しますが、たぶんシムナナムナが測っている間に霧はたいして広がらず、そのうち霧がなくなるんじゃないかと思います。」
「なるほど。シムナナムナを騙すんですね。」
ジェロはキツジの機転に関心していた。
「騙すわけじゃないですよ。まずは事実をとことん確かめて誰もが納得できる形で予測を出す、それに応じて対応策を準備する。非常に基本的で古びた考え方ですよ。この考え方の問題は、事実の追及と予測、それに対応策の準備にひどく時間がかかることを考慮していない点です。多くの組織が最初に陥る機能不全の典型ですけどね。」
「とにかく分かりました。」
それから一旦電話を切ってジェロも屋上を降りた。駐車場に着いたのはシムナナムナとジェロはほぼ同じ時間だった。
「僕の車で行こう。乗ってくれ。」
携帯の温度計や巻尺などを持ったシムナナムナに素早く声をかけるとジェロは車に乗り込む。すぐに車を走らせると街へ向かう道と反対側に車を向けた。
「最初に霧の様子を確認すると聞いたけど、シムナナムナ、きみは霧を見ればどれくらい濃霧になるか分かるのか?」
「分かりませんがやってみます。ボクたちしか今やれる人はいないんですから。」
シムナナムナはやはりまだ興奮していたが、先ほどまでのようにパニックにはなっていない。二人はしばらく車で徐行しながら進み、霧の中へ入った。山道は五十メートル先も見えないほどの濃霧だ。のろのろと十五分ほど進んだ所で車を止めてシムナナムナは観測器を使った。
「湿度は98%です。」
シムナナムナは重々しく数字を拾ったが、あまりそれに意味はない。それから車は向きを変えて、今来た道を戻ると霧の先端を監視することにした。シムナナムナの店のすこし手前、道が両側に下っているあたりで、車を道路わきに再び止めて待機した。そこなら霧の先端がよく見える。しかし、十五分経っても、三十分経っても霧は動きを見せなかった。そこでキツジに再びジェロが電話する。
ジェロが状況を話すと、キツジはセンターの予報官の見解として霧は街まで広がらないと言っていると伝えた。しかし、シムナナムナはその見解に全く納得しない。
「そんなはずはありません。こんな大きな霧なんですよ。もうすこし調査を続けます。」
ジェロがキツジとの電話を切った後もシムナナムナは不満げに話を続ける。
「こんな霧、ボクはこの街に来て初めて見ました。街まできっと広がります。ボクはそう思います。」
「なぜ?」
「これからさらに気温が下がるからです。」
「ここからきみの店までの道はすこし上り坂だろう。霧がこの窪地にずっと留まっている。街まではあと三つか四つ、アップダウンがある。それらを全て越えられるだろうか。」
「新しく霧が増えるかもしれませんし、全く油断は出来ないですよ。ジェロさん。」
ジェロはこの頃には、霧は山中だけで沿岸までは達しないだろうと自分なり予測を立てていた。しかし、シムナナムナはまだ何かを恐れるように決して楽観視をしない。
それからさらに二時間ほど経っても、やはり霧はなかなか広がらなかった。シムナナムナとジェロは霧の先端が見える道すそで待機を続ける。やがて夜が明けると、その霧のかたまりはすっと山の上の方へ後退しだした。結局、シムナナムナの予測は外れたことになる。
朝日を感じてジェロが目を開く。どうやら長い間寝てしまったようだ。わきを見るとシムナナムナは赤い目をして道の先を見ていた。目前にあったはずの白い塊はもはや道のずっと先まで遠ざかっている。
「もう安心だろ。シムナナムナ帰ろうぜ。」
自然とシムナナムナを慰めるような心持ちにジェロはなっていた。
「まあ、何事もなくて良かったじゃないか。」
「目に見えないものを恐怖することがあまりになさすぎると思うんです。だいたいの人は、目に見える小さな恐怖の方に怯えてしまう。必ずやってくるけどまだ目に見えない恐怖、こちらの方を軽んじる傾向がありますから。」
シムナナムナはそう言って、やっと諦めたように目を閉じてため息をつく。たぶんシムナナムナは残念には思っていないんだろうと、ジェロは思った。そして、彼はいつでも真剣であることを、あらためて思い知った夜だった。