一、
シムナナムナは空港を出ると、そのまま湾岸を伸びる鉄道に乗り換えた。海辺に広がる巨大な街、海沿いに弧を描くように走る快速列車を使えば、目的地まですぐのはずだ。
「今日が勝負だ。ボクは今日、最も冴えなきゃいけないんだ。」
シムナナムナは声に出してつぶやく。近くの乗客の耳にも届いたかもしれないが、シムナナムナはそんなことは気にしない。
「今日だ、今日しかないぞ。」
もう一度、声に出して自分に言い聞かせる。ここ数か月、自分はそのために全てを費やしてきたのだから。三十をとうに越したシムナナムナだったが、ここまで高揚した気持ちは今までの人生でそう何度もなかった。目的の駅まであとわずか。シムナナムナは体温がさらに上がるのを感じ、制御できない自分の気持ちを持て余していた。もうすぐ、その時がやってくる。もうすこしだ。今はまだこの思いをぶつける相手がいない、シムナナムナは高揚した気持ちを一旦静めようと、窓辺からの景色へ視線を向けた。
オーギュシティ、この街がとても巨大なことをシムナナムナは知っている。しかし、目の前に広がる景色には、なんの窮屈さも感じない。それだけここは洗練された都市なのだろう。道路の先に海、そして吸い込まれるように青い空が広がっている。初めてきた街の様子、普段なら好奇心に駆られてはしゃぎがちになるシムナナムナだが、今日はそんな気持ちにはなれなかった。やるべきことへの責任感、今はただそれを感じている。シムナナムナはこれから巨大な組織の担当者と会う予定だ。そのために三十時間以上かけた旅路は、まもなく最終目的地へたどり着く。
これから会う男、こんな街に住んで、しかもこの国で交通機関を統括するような立場の男だ。きっと頭が良くて、高い志を持っているはずだ。理想に立ち向かうような、そんな人物だろう。彼にとって自分の計画はどう映るのだろうか。たとえどう思われたとしても、なんとしてもその男を説得しなくてはいけない。
「大丈夫。ボクはやれる。」
目前に広がる海には四角い形をした大型のタンカーが数隻浮かんでいる。飛行機、鉄道、船、この街には乗り物が溢れていた。しかし今のシムナナムナは、そんなものに今は心を動かされない。海と空を交互ににらみつけて、そうしてまたつぶやいた。
「ボクならやれるはずさ。」
そのころジェロは、国際交通機関のビル三十階で、けだるい午後の時間を過ごしていた。シムナナムナとまもなく会うことになる男は、国際交通機関に籍を置く一人だった。自分のオフィスと別フロア、ジェロはここにあるセルフサービスのコーヒーがお気に入りだ。今もオフィスを抜け出し、窓辺の長イスでぼんやりと空を眺めている。
コーヒーがややぬるくなっていたが、まだ香りは完全には損なわれていない。ジェロはそれを惜しむようにまたカップに口を運んだ。その時、聞き慣れた声が急かすように耳に届く。
「ジェロ、また息抜きか。ちょっと過ぎるんじゃないのか。」
上司のアクツとの思わぬ遭遇、いやアクツが生来の嗅覚を発揮してジェロを見つけ出したのだ。何かを頼まれるのだろう、顔を向けた途端にアクツと目が合ったジェロは、そう覚悟した。
「息抜きしているわけじゃないですよ。ちょっと集中して読んでおきたい論文があったので場所を変えているだけです。」
手に持っていた携帯型モニタの端末を見せたが、アクツはすでにジェロの言動を見破っているので、そんなものには興味を示さない。
「ちょっと頼みたいことがあるんだが、いいか。」
なにがいいのか分からないまま、ジェロは頷く。アクツは低い声で言葉を続けた。
「もうすぐ客が来る。ホタイトの空港からだ。」
「ホタイト、ホッタート・・、西域のオアシス地帯の都市でしたっけ。」
「確かそんなところだ。断りにくい昔の知り合いからの頼まれごとでな、そいつの部下らしい。すまんが相手をしてやってくれ。」
それほど難しい問題ではなさそうだったので、ジェロは内心胸をなでおろした。アクツの突然の頼みごとのなかでは、まあ軽い方だ。
「別に構いませんが、アクツさんは同席はされないのですか?」
「どうせ航空施設に関する要望とか人員配置の話とかそんなとこだろう。たいした話じゃない。」
そのたいした話じゃないことを自分は引き受けなければいけないのか、ジェロは内心げんなりした心持ちになった。
「でも、私の管轄外ではないでしょうか。」
一応ジェロは抵抗してみせたが、それは及び腰だ。
「だから聞いてやるだけでいいんだ。なんなら担当のやつを紹介してやれ。」
「はあ、分かりました。」
ジェロの抵抗といえばこの程度だ。この組織においてジェロはそれほど優秀とは認識されてはいなかった。要領は悪くなかったが、彼は若干、熱意に欠けるところがあり、アクツのように仕事を次々と頼む人間がいなければうまく機能しないからだ。
高層ビルの三階、長旅を終えたシムナナムナは応接ブースでやや落ち着かない心持ちで座っていた。ひどく長く感じられる待ち時間、世界交通機関の担当にやっと会えるのだ。これからが自分にとって勝負の時だ、シムナナムナはそう思って自分をまた奮いたたせる。
そうして五分ほどしたのち、目の前のドアがやっと開いた。そこに入ってきたのは、上等な背広を着た背の高い男、ジェロだ。シムナナムナが鉄道の中で想像した通りの男だったが、思っていたよりは若かった。シムナナムナより五歳から十歳は下だろう。
「お待たせしてすいません。」
「今日はお目にかかれて光栄です。」
面談相手であるジェロの方は、シムナナムナを見た瞬間、その風景の中に彼がいることに違和感を持った。それはシムナナムナの風貌が、全くあか抜けていないからで、すこしもオフィスに馴染めていなかった。ジェロから見て、シムナナムナの顔つきや服装は異国風であったし、大きい目を動かしてこちらをうかがう様子はどこか動物的でもある。
「キツジさんの代理の方ですね。」
キツジというのがアクツの知人の名だった。アクツを上司に持つジェロとしては、そういう言い方で、それだけの繋がりで会っていることを相手に知らせたつもりだった。一方のシムナナムナにはそんな余裕はない。握手をしようと差し出されたジェロの手をぐっと掴むと、シムナナムナは堰を切ったように話しだす。
「キツジさんは今日は来れないと言ってました。だからボクは一人で来ました。」
「はい。」
ジェロはゆっくりと手を放す。相手の粗雑さにいらだちを感じながらも、続いて名刺を出した。握手をして言葉を交わした後に名刺を差し出すのが、ジェロの重んじているスタイルだ。しかし、そうした形式美の重要性は相手には全く伝わっていないようだった。
シムナナムナは困ったようにそれを受け取ったが、すぐにまた話し出した。シムナナムナは代わりに渡す名刺などなかったし、何よりすこしでも早く、自分の思いとアイデアを伝えたかったのだ。
「ボクの空港には詳細な気象の予測が必要です。そのためには許可が必要ですし、もっと多くのデータが必要です。だからここに今日来ました。」
「ちょっと待って下さい。事前に私が把握している事項は多くありません。『ボクの空港』がどこなのか、それにあなたのお名前も全く知らないのです。重要な話であれば、まずお互いの信頼関係を築くことは大事だと思いますよ。」
それはマナーの話だとジェロは思ったが、さすがにそういう言い方はしない。シムナナムナが口を開きかけたので、ジェロは相手に言葉を遮られるより早く続けて言う。
「それに我々の組織は機能体ごとに権限がありまして、あなたの要望に対して私が最適な答えを持っているかも分かりません。」
ジェロの話の後半をシムナナムナは聞いていなかった。一旦言い損なったこと、自分が言おうとしていたことを口にする。
「ボクの空港とはホッタイトの空港のことです。ボクのホッタイト空港には詳細な気象の予測が必要です。」
シムナナムナは再び言った。詳細な気象の予測が必要である、シムナナムナの考えはそれだけでしかないのだ。
「ホッタイト、ホッタート、発音が難しい。その空港に限らず気象の予測はすでにありますよ。一日に三回、航空機の運航に関わるシビアな現象があれば臨時で追加されます。」
発音はともかく、ジェロが名前を憶えている空港であれば予測は安定的に発表されているはずだった。
「その予測は十分ではありません。もっと細かい予測が必要ですし、それに予測は実際の空を見て風を感じているホッタイトで作って出した方がいいんです。」
どうも論理的な話し方が好みではない人らしい、とジェロは頭の中で相手を分析した。この相手にマナーを求めることは難しいことが分かってきたので、ともかくも早く終わらせてしまおう、とジェロは目的を定める。
「確かに空港の規模に応じて予測の作り方は違いますね。」
そう言いながらジェロは頭を巡らす。空港の規模や監督空港の配置に応じて、予測は地方ごとにあるセンターでまとめて発表される場合と、現地で作成する場合に分けられていた。たぶんホッタイトは前者なのだろうとジェロは想像した。しかし、その各施設の運営は各国が担っており、ジェロの属する機関は、全体の調整や国をまたいだ決め事などを公平な形で最終的にまとめるのが役割だ。
「ボクの空港の予測をどうすればいいか、一生懸命考えました。その結果、空港の予測は、空港で作るのが良いという結論になりました。」
「あなたの出した結論と、いろいろな組織が判断することと、それが異なる場合はあり得るかと思います。」
やはりお門違いの要望のようだとジェロは判断する。それを相手にどう伝えようかとタイミングをうかがう。一方、シムナナムナはさらに興奮してきたようで、語気を強めて話してくる。
「ボクの空港で予測をつくれば、もっと細かくできます。空港のまわりには砂漠と畑ばかりで農民が多くいますし、すこし離れると遊牧も盛んですから、みんなは詳細な予測があれば喜びます。ボクはセンター作成の予測を知らせていますが、だいたい、もっと寒さや暑さの予測をほしがります。」
「気温の予測ですか。住民の方はそうなんでしょうね。空港の予測にはより明確な目的があります。それは空港の予測は飛行機を安全にスケジュール通りに運航し、かつ乗客が快適に過ごすためです。そもそも空港のまわりの住民向けではないんですよ。」
空港の出す情報は雷、強風などの激しい現象、それに雲底の高さや見通しの良さなど、一般の人には馴染みがあまりない情報が中心だった。それは航空機のためだからで、決して一般人の体感や要望に合致したものではない。
「滑走路の状態を推定するために気温の予測は出ているので、寒さ、暑さがどうなるかは、すこしの追加で出来ます。それに雲の底の高さだけでなく、雲の頂きの高さも分かった方が、飛行機の窓から雲を見る人も喜びます。」
「まあ、ちょっと座りませんか。」
「あ、ええ。」
シムナナムナはすでに話に本題に入っているが、ジェロは名刺を出した姿勢のままだ。ジェロとシムナナムナがテーブルごしに向かい合って座り直すと、すぐにシムナナムナは話を続ける。
「特にボクの街では雲が少ないから、雲が出ることに多くの人が気づいたらきっと素敵だと思います。毎日、空を見て楽しむ、そのためにもです。空港で予測を作った方が要素も毎日変えられるし、いいと思うんです。」
空を眺めて楽しむ人がそんなに多いだろうかとジェロは疑問を持ったが、そんな論点より早めに根元を切り分けてしまおうと別の言葉を返す。
「予測の目的の話と予測要素の話、それに作り方の話が混ざっていますね。すこし分けて議論が必要かもしれません・・」
その先の言葉を待たずに、シムナナムナはテーブルに身を乗り出すようにしてまたしゃべりだす。
「ボクはそのためにトレーニングをしました。昨日の朝も出発前にやりました。ずっと毎日やってます。」
「トレーニング? あなたがその予測を作成するおつもりですか?」
「はい、ボクは数か月前から気象の本を読んでいます。入手できる気象データも先月から見るようになりました。それにじつは最近、知り合いから近くの街の気象情報を送ってもらっているんです。」
なぜだか最後の部分だけシムナナムナは自慢げだった。
「そうは言っても航空気象の予測というのは、そう簡単に出来ないでしょう。」
「はい。そう思います。でもボクはだいぶ上手になりました。ボクは二週間ほど前、初めて予測を作ってみたんです。それを航空の管制官、それに空港の近くで働いているみんなに知ってもらおうとしました。でも言われたんです。通報された情報しか利用してはいけないと。」
これは話にならないな、ジェロは内心呆れ果てていた。ないなら自分でやればいい、それほど世の中は簡単ではないとジェロは分かっていた。専門的な知識や情報の利活用、そして各機能の役割分担や連携、それらがうまく組み合わないと、物事がうまくいかないものだ。なのに目の前の男はそれらを独学と独断で済ましてしまうつもりらしい。ジェロは自分の思う常識が相手に通用しないことを、いよいよ達観するしかなかった。
「予測を出すには相応の設備、それに人員の配備が必要です。中央から出す予報でなく現地で出すには、それだけの必要性がなくてはいけない。」
「ホッタイトの詳しい予測はみんなあったらいいと言っていました。」
「そうですが、予算だって必要ですし、人の配備もあるので簡単ではありません。仮にあなたが気象を予測する知識と経験を持っていたとしても、それを空港発の予測として認めるかは別の問題です。当たるか外れるかの問題ではありません。むしろホッタートの都市予報を出すことは空港の機能ではないのです。」
「ボクが初めて作った予測は全然当たりませんでした。センター発の予測はだいたい当たっていました。すごいですね。」
「まあ、それはそうでしょう。」
ジェロにすればそれは当たり前のことだった。シムナナムナの技量の問題だけではない。各センターや主要空港の予測機能は費用や人員をかけている。専門的な観測値やシミュレーション結果を使うのに適した人材が、それなりの時間を使って予測を生成しているのだから。
「ボクは毎日やってますから、もうすぐ、きっと上手に予測を出せるようになります。他にもボランティアでそういう人が現れるでしょうから心配ありません。予測を出すことは可能です。」
「ボランティアが毎日予測をしてそれで成り立つと思いますか?」
「きっと素敵でしょうね。」
ふいにシムナナムナが、夢を見るように遠くに視線を移して顔に笑みを浮かべたので、ジェロはまた呆れる。なんで自分がこんな相手をしなくてはいけないんだと、内心で自分を哀れんだ。
「やはり、それは空港に求めることではありません。市民向けに予報を出している都市気象台に相談してはどうでしょう?」
都市気象台は国の機関であり、ジェロのいる国際交通機関とは別の組織体だ。ジェロの管轄する空港から出る予報は、航空機や空港関係者のための情報なのだから、都市気象台と関係のないのは当然の話だ。
「ホッタイトは小さな街です。自動の観測器はありますが気象台はありません。ですから空港がホッタイトの気象台になったらいいと思います。ホッタイトに限らず空港と気象台が連携をなぜしないのかと思っています。」
それはなかなかいい視点だとジェロは思った。実際は技術者の人事交流もあるし、連携はしている。ただし、それは互いの仕事をうまくこなすためで、二つの機能を融合する必要はないと、世界交通機関も都市気象台の統括部も思っていた。ジェロ個人の考えなら、むしろ今のシムナナムナの言うことに同意したい気持ちもあったが、それがいかに困難か分かっているから、自分からそれを推進するつもりはないのだ。
「都市予報に求められる情報と空港ごとに求められる情報は違うからです。それはお分かりでしょう。」
「今の空の状態を伝えて、この先の空がどうなるかを伝える、それ以上のことはないです。」
「いや、それはそうですが、需要が限定される予測は専門の業界が責任を持つのが適正だと思いますよ。」
「ボクがホッタイトの予測を出していいなら、もっと都市気象台にやってほしいことをするのは可能です。」
もうすこし理路整然としていれば、納得できる部分もありそうだと思いながらも、ジェロは組織の一員として言葉を返す。
「それは現実的には難しいことですよ。」
「なぜでしょうか? ボクはこれからもっと勉強しますから、きっと心配はないですよ。」
二人のやりとりは延々と続いた。シムナナムナのやりたいこと、そしてそのための具体的なイメージがあることは分かったが、ジェロにはそれが現実的には滅茶苦茶な話にどうしても聞こえてしまう。
「ボクは思うんです。天気の予測について、もっと普段から人々が話していたら、みんなが楽しく暮らせるのではないかと。だってそうでしょう。今日の空の色の話や昨日の暑さの話をして、それで誰かを責める人はいないんです。もし、怒っている人がいたら、その理由をみんなで考えることができる。例えば、雷が鳴るのは人間がわざとやって出来ることではありません。」
「まあ、予測を出す責任というものはありますがね。」
「空港は多くの人が行き交う所ですから、そんな話をするのに最適だとボクは思います。」
「世間話をする機能はどこかの機関が管轄する話ではないでしょう。快適性や利便性の話とは違います。やるべきことは交通のネットワーク強化です。人同士のコミュニケーションは、仮にテーマとしてあったとしてもプライマリーではないと思いますよ。」
「はい?」
「いえ、だからですね・・」
こういう相手には理論ではなかなか伝わらないことをジェロは知っているはずだったが、その時は失敗していた。そんなジェロに、なぜかシムナナムナはいたわるように言葉を投げかけ続ける。
「きっとあなたは難しいことを考えているんだろうと思います。でも、簡単です。ボクはその答えを持っている。空港で天気予報を出して、それが飛行機の乗客だけでなく、周辺の農民やホッタイトを訪れた人に喜ばれればいいんです。」
「そのお考えは否定しませんが、空港の主要な機能には今は位置づけられていませんし、空港が今、もっと追究しなくてはいけないテーマは別にあると思いますよ。」
シムナナムナとジェロの話し合いは平行線をたどり、ジェロはなるべく早く終わらせるという目標をまったく達せられずにいた。ジェロは組織体の機能と目的を理解させようと何度も説明を試みるが、シムナナムナは自分の思う理想的な空港の話ばかりで、議論が集約しないからだ。
いたずらに時間だけが過ぎていく。ジェロは何度も時計を見る動作をしたが、シムナナムナは話に夢中で、まるで時間を気にするそぶりはなかった。
「分かりました。そういう要望があったのは伝えましょう。」
ジェロは最後にそう言って話を終わろうとした。どうもこの相手とは相性が悪い。思考回路の一部が断線してしまったような、そんなぎこちなさをジェロは自分に感じていた。最後にはシムナナムナの熱心さに押し切られる形で、ジェロは一旦、自分が話を受ける形をとることにする。ジェロの返事を聞いたシムナナムナは嬉しそうに頭を下げた。
「お願いします。」
「分かりましたから、アクツさんと一緒にすこし考えてみます。この場で確定できることではないですよ。」
「了承の返事はいつもらえるのですか。」
「分かりませんよ。私に権限があるわけではないので。」
やや投げやりに言う。これ以上時間をとられたくないというのが、ジェロの本音だった。
「なんにせよ明日には進捗をお話ししますから。」
こういう場合、今を逃げ切った後は中途半端に時間をかけてはいけない。検討した姿勢を見せた上で、きちんと姿勢を示すのだ。今断りを言えば判断は自分がしたことになる。それを避けるためにも一日だけ時間稼ぎが必要だった。
「今日これからと明日で各所に確認します。明日の同じ時間、また来て下さい。その時にすべてをお話しします。」
「明日ですか・・」
突然シムナナムナの顔色が変わったので、ジェロは慌てて言葉を足す。そういえばジェロは相手がどこから来たかを忘れていた。
「あ、遠方から来られたんでしたね。失礼しました。後日メールで連絡を差し上げますよ。」
「いえ、いいんです。分かりました。明日まで待ってここに来ます。それでいい結果が出るならボクは構いません。」
「いいお答えになるとは限りませんよ。大丈夫ですか?」
「はい。」
「じゃあ、そうしましょう。ええとお名前はなんでしたっけ?」
「ボク、ボクですか。ジーナーラ、ダッムサ、ダリ、シキシムナナムナと言います。シキは継ぐべき家がないという意味です。ボクについてはシムナナムナと呼んでもらえれば、それでよいです。」
「そうですか。難しい発音ですね。」
「ええ、どこに行ってもよく言われます。」
何度となく繰り返されてきたやりとりなのだろう。慣れているのかシムナナムナは笑ってそう言った。
「私の名前は先ほどの名刺の通りですので。」
「名刺?」
シムナナムナは最初にジェロが渡した名刺を握ったまま話していたので、それはすでに原形をとどめていなかった。
「もう一枚差し上げますよ。」
「そんなもったいない。大丈夫です。十分これで読めますので。」
初めて会う者同士のトラブルを防ぐ礼儀、例えば名刺を大切に扱うことなどにシムナナムナは興味がなかった。ジェロはそれを咎める気にもなれず、ともかくも打ち合わせの最後に二人はやっと落ち着いて名乗りあった。そうして二時間を超すその面談はようやく終わった。
三階の応接ブースを出たジェロはひどく疲れを感じていた。目的が同じでない真面目な相手というのは、やっぱり面倒なものだと痛感する。自分のデスクに戻ると奥で座っているアクツが見えたので、ジェロはわざとアクツの視界に入るようにして一層の疲れ顔を演出してみせた。
「いや、まいったよ。」
近くにいた同僚のリナにジェロは話しかける。
「どうしたの? ずいぶん長い打ち合わせだったわね。」
「どうもこうもない。西域から来た人だったんだけど、なんというか・・自分がつくった気象予測を空港独自の予報と認めてほしいって要望さ。西域の中規模空港の話。」
「あら、航空気象台を独自でやってくれるというの? 採算が合わないと思うけど。」
「人材はボランティアで成り立つと思っているらしい。」
「アイデアとしては面白いかもしれないけど、実現の可能性としてはどうかしらね。」
「・・・まあ、夢みたいな話さ。第一・・」
「第一?」
「・・・いや、なんでもない。」
ジェロは先ほどまで会っていた人物の主張にはもっと理不尽さがあったように思ったのだが、あらためて説明しようとすると、どこが理不尽なのかうまく言葉に出来なかった。
「そのほかで、厄介ごとかしら。」
ジェロの言葉を待ちきれずにリナが聞き返す。
「・・いや、とにかく長い面談になってしまい疲れたんだ。まいった。まいったよ。」
ジェロは自分が感じた違和感をうまく消化できずにいるのを感じながらも、その場を誤魔化した。
「私ちょうど今、西域の今後の政策提言のレポートを書いているの。向こうの事情に詳しい人ならお話し聞きたかったわ。」
「まあ、詳しいだろうけど、もう僕はなるべく関わり合いになりたくないなあ。」
「そうなの。残念。」
リナはすこし何かを考えこんだようにも見えたが、それはすこしの間で、すぐに自分の仕事に戻った。ジェロはアクツに面談の内容を報告しに行こうと思ったのだが、やはりなんと説明して良いか分からず、報告を後回しにすることにした。その日、アクツの方から面談の内容を聞いてくることはなかった。
国際交通機関のビルを出たシムナナムナを迎えてくれたのは夕焼けだった。色を失う直前の紅色の空、闇をはらみつつある街の輪郭。その境界は高層ビルのシルエットや高架を走る鉄道だったりする。砂漠のようにシルエットがきれいなのは、今日はこの街でも空気中の水蒸気が少ないからだとシムナナムナは理解した。
せっかくだから夕焼け色の飛行機雲が見たいな、シムナナムナは思った。ホッタイトでは雲自体を見かけることが少ない。飛行機雲が出るのは上空に湿り気が多い時、確かそんなことがこの前読んだ本に書いてあった。海沿いのこの街の方が、ずっと飛行機雲の現れる確率が高いのではないかと考えを巡らせる。
それにしても美しい夕焼けだとシムナナムナは思った。砂漠帯の夕焼けより色が繊細で、その黄昏色になった光線がシムナナムナを照らしている。頑張ったなと労わってくれる誰かの意思表示、シムナナムナはそんな風に感じていた。
これからどうしようか、今から空港へ向かえば西へ戻る飛行機はまだある。途中のターミナル空港ならこの街より何倍もホテル代は安い。シムナナムナの手持ちの金は十分ではなかった。シムナナムナの当初の計画ではすぐに飛行機に乗って夜が来る前にこの街を去るはずだったのが、明日も来なくてはいけなくなった。
『明日の同じ時間、また来て下さい。その時にすべてをお話しします。』
それはきっと嬉しい進展であるはずだ。そう信じて明日もあの男に会うことに決めたのは自分だ。ひとまずはあの男に全てを任せよう、それしかない。シムナナムナは先ほどまでの面談相手のことを思い出す。この洗練された高度な街が似合う男、なにより欲がなさそうな所に好感を持った。シムナナムナの場合は誰に会っても大概の人には好感を持つのだが、それはジェロとの出会いでも同じだった。
「なんとかなる。明日になればきっといいことがある。だから大丈夫さ。」
いつもの楽天的な考えが頭に浮かんで、シムナナムナはすこし気持ちが楽になった。もう一度、夕焼け色に染まった街並みを見渡す。それにしても、ここはとんでもない街だと改めてシムナナムナは思った。シムナナムナにとって、ここは遊園地のように、まるで乗り物のパレードが一日中行われているように見える。海沿いの線路、その手前に高速道路がある。船のコンテナと連結したトラックや大型の四輪車がシルエットとなって走っている。車線が何本もあるのに、車間距離がずいぶんと狭い。そう言えば空港も湾を巡行する船の数もずいぶんと多かった。都市を綺麗に感じるのは新型の乗り物が多いからだろう。この頃には、シムナナムナには好きなもののことを考える余裕ができていた。
そうだ、せっかく大きな街に来たのだからブックストアに行こう。きっといい本がいっぱいあるはずだ。今夜のことはそれから考えればいい。大きなブックストアがどこにあるか誰かに聞くことにして、シムナナムナは話しかける人を探し始めた。
一日の終わり、ジェロたちのオフィスにもようやくそんな時間帯がやってきた。照明の数はしぼられて、静けさが空間を支配するようになる。その日一日を振り返ってゆっくりと立ち去る人、家に戻るのが嬉しくいそいそと帰る人、ジェロは短い挨拶で同僚たちを見送っていく。最後に残ったのはジェロとリナだったが、そのリナも今日は仕事を終えるのがいつもより早いようで、すでに帰り支度に入っていた。
「じゃあ、お先に。」
リナの声は朝と全く変わらない。いつもの冷静な調子だ。ジェロが振り返った時にはもうその背中しか見えない状況だったが、リナはそれを知っているように背中を向けたままバッグを持った片手をあげる。それが気障に見えないのは都会育ちだからだろう。
「お疲れ様。また、あした。」
それでオフィスで残っているのはジェロ一人になった。ジェロが遅くまで仕事をしているのは、夕方になって統計処理の仕事をアクツに頼まれたためだ。難しい統計ではないが、扱う数字が多いので慣れていないと時間がだいぶかかる。そういうものはジェロに回ってくることが多かった。その日も別の人間に頼んでいたのだが、埒があかなくなったのでジェロに声がかかったのだ。
最初から自分に言ってくれれば夕方には終わらせることが出来ていたのに、そう思いながらもジェロはデータの整形、統計処理を効率良くこなす。ジェロはこういう作業自体は嫌いではなかったし、人が少なくなってから仕事をみっちりするのが好きなので、それほど残念には思っていないのだ。昼間は適度に時間をつぶして頭を使い過ぎないようにして、夜は仕事か遊びに集中する、それがジェロの性に合う時間の使い方だった。
あと一時間もあれば作業は終わりだ。そう自分の中で気合を入れ直して、ジェロは目の前のモニタに意識を戻した。統計結果の最後の見直しを始めようしたその途端、電話が鳴った。先ほど一日の終わりの挨拶を交わしたリナからだった。
「よう、リナ。忘れものでもしたのかい?」
「今受付にいるんだけどちょっと下に来てもらえない?」
「何かあったの?」
「不審者じゃないと思うんだけど、ちょっと変な人が入口の所にいるのよ。警備員さんが言うには昼間にジェロさんを訪ねてきた人だから追い払っていけないんじゃないかって言うんだけど、困っているみたい。」
当惑した様子だった。今日、ジェロを訪ねてきた外部の者と言えばあの男しかいない。確か長い名前で、自分のことはシムナナムナと呼んでほしいと言っていた。
「分かった、とりあえず受付へ降りるよ。」
仕事の区切りも良かったので、残りは家でやることして、ジェロは急いで荷物を整えた。五分もしないうちに受付のある二階に降りる。
そこではリナと初老の警備員がヒソヒソと何かを話していた。リナはジェロが降りてきたのを確認すると笑顔で迎えたが、その顔は面倒な仕事を押し付けようとする時の顔だった。リナとアクツはすこし似ている所があると、ジェロはかねてから思っていた。
「いやあ、もう誰もいないかと思ったんですが、助かりました。」
すでに受付業務は終了していて、他には誰もいない。ジェロは、警備員の困惑した顔を確認しつつ言葉を投げかけた。
「状況がよく呑み込めていないのですが、どうしたんです?」
「あの男ですよ。ビルの中に入れるかと訊かれたので、もう受付時間は過ぎていることを伝えました。そうしたら、それからずっと玄関の所へ座り込んでいるんです。」
警備員の視線の先、ロビーのガラスの向こうでは、確かに背中を向けている男の姿が見えた。
「追っ払って失礼があってはいけない人なのかもしれないので、どうしたら良いか分からず困っています。」
やはりあの男は常識知らずな所があるようだ、ジェロは昼間の言動を思い出す。
「とにかく話を聞いてみます。」
「よろしくお願いしますよ。」
「私も行くわ。」
ジェロはリナとともにそのまま歩いて外へ出た。
ビルの出入り口そばの長椅子、そこに座ってその男は真剣な顔で本を読んでいた。
「シムナナムナさんじゃないですか?」
ジェロはその長い名前の一部分を口にする。
「ああ、ジェロさん、了承してもらえましたか?」
「いや、そういう話ではなくて、何をしているんです。こんな所で?」
「明日、ジェロさんに会うので待っているんです。」
一瞬、冗談で言っているのかと思ったが、どうもそうではないらしい。
「こんな所でですか? 朝一番にあなたとお話できるとは限らない。一旦ホテルへ帰った方がいいですよ。今夜はどちらへお泊りですか。」
「ホテルはないんです。」
「え?」
「でも、敷布を持ってきました。飛行機やロビーが寒かったら思って用意したのですが、こんな形で役に立つとは思いませんでしたよ。やはりボクは運がいい。」
思わずジェロは言葉につまる。
「・・・今夜泊まる所をまだ用意していないのですか?」
「もともと今夜には帰りの便に乗っているはずだったので。」
「空いているホテルを紹介しますよ。」
「いえ、お金があまりないんです。もともとぎりぎりだったので。貯金をほとんど使ってしまいました。」
「今回の出張の旅費が不足ですか? まさか自費で来たのですか?」
「はい、ボクはいつでも自費ですよ。」
思わずジェロはリナと顔を見合わせる。そして、その時、背後から警備員が不安そうに近づいてくるのが視界の端に見えた。
「ジェロさん。」
声をかけてきた初老の警備員に、ジェロは慌てて振り返り、笑顔を作って言う。
「いや、大丈夫です。」
「そうですか。」
ここにいつまでもいるのは面倒だとジェロは思った。そうしてもう一度シムナナムナへ向き返ると提案をする。
「シムナナムナさん、とりあえず少し歩きましょう。散歩すると良い知恵が浮かぶことが多いんです。夜の散歩もいいですよ。」
「それはいいですね。ボクは散歩が好きなのです。」
世界交通機関の建物周辺は明かりが多く、夜になっても暗闇をあまり感じない。それだけ眠らない人がいるということだろう。それにしても、ビルの明かりは住宅地の温かな明かりとはなぜこうも違うのだろうかとジェロは思った。都会の夜はどこかに幻想が眠っているような、そんな不思議さがこの風景にあるように感じる。
隣にはシムナナムナが肩を並べて歩いている。ジェロは現実に戻って、歩きながら打開策を考えようと思いを巡らせようとしたが、なかなか考えがまとまらなかった。その時、ずっと黙ってついてきたリナが、初めてシムナナムナに声をかける。
「すいません、ご挨拶が遅れました。私はジェロさんの同僚のリナステマッケンです。」
「そうですか。ボクはシムナナムナと言います。本当の名前はジーナーラ、ダッムサ、ダリ、シキシムナナムナで、シキは継ぐべき家がないことを表しています。」
「あら、素敵なお名前ね。どちらから、いらしたんですか?」
一度で覚えきれない男の名前を、リナはさらりと受け流した。
「昨日の朝にホッタイトの家を出ました。」
「まあ、いいわね。私ちょうど西域の事情について知りたかったんです。西域の方ってあまり地元を離れたがらないようで、住んでいた経験のある人って、この街でもなかなか見つからないんです。」
「そうですね。そうかもしれません。西域に住んだら他の街に行こうと思いつくのは難しいですよ。発達した街はないですが、なかなかにいい所ですからね。」
「ところで私、泊まれる所を知ってますよ。」
「ボクはどこでもいいんです。ジェロさんたちのビルの前で構いません。」
「だめ、だめですよ。あそこにいたら警備員さんが気にしますよ。仕事熱心な人ばかりが交代でつきますから。」
ジェロが慌てて打ち消す。シムナナムナはそれほど深刻に受け止めてはいないようようだったが、別の考えを口にした。
「じゃあ、ブックストアに行く時に公園がありましたら、そこに移ることにします。できれば本が読めて、なるたけ明るい所がいいですけどね。」
「そんな所じゃ危ないわ。」
今度はリナが止めに入る。二人の意図はやはりシムナナムナには届いていない。
「ボクはどこでもいいんです。迷惑にならない場所があれば。」
そんな場所など、この周辺にはないだろうとジェロは思ったが、それは言葉にはしなかった。
「ところで先ほどはなんの本を読んでらしたの? ひどく集中しているように見えましたわ。」
先ほどからジェロは、リナが何か考えがあるように感じていた。リナのここまでの言動、それは仕事を人に頼む時のいつもの感じで、まずは外堀から埋めていくやり方だ。おそらくリナの狙いは西域の情報収集なのだろう。彼女は興味本位や人のよさだけで動くタイプではない。ジェロは特にそれを止める理由はないので、とりあえずはリナに主導権を持ってもらい、その流れに身を任せることにした。
「あの本を手に入れることが出来たのはとても幸運でした。」
シムナナムナとリナは言葉を交わしながら歩幅を合わせて横に並ぶ。この時、もうシムナナムナはリナに好感を持っていた。彼女はいい人に違いないし、頭も良さそうだ。彼女は素晴らしい人に違いない、シムナナムナはいつでもそんな方向に解釈する傾向があった。シムナナムナは言葉を続ける。
「ジェロさんとお話しした後に一度、外に出たのですが、すぐに思い立って受付に戻って聞いたんです。このあたりに大きなブックストアがあるかとね。そしたらほんの二ブロック先にあるというじゃありませんか。ボクは夢中でそこから走ったんです。確か先ほどの警備の人が教えてくれました。」
「たぶん、そこは、この街で特に人気がある店の一つじゃないかしら。」
「それはそれは大きなブックストアがありましたね。ボクが見たことのない本があって五冊も買ってしまいました。だからホテル代も十分でない、本を手にした瞬間、今日はもう、あとはたいていのことは我慢しようと決めたんです。」
「私もそのストアにはよく行きます。あすこは各国特融の事情についての詳しい本なんかも充実していますからね。」
「そうなんです。ぴったりでした。その中からボクが読んでいたのは船の本です。」
「船?」
「はい、最新の船舶のカタログ本がありました。またボクの知らない機能が搭載されたようで。」
シムナナムナがその船の話を続けようとする瞬間、リナが話を遮る。このあたりはジェロよりずっと大胆だ。
「ところで西域の話を伺ってもいいかしら。」
リナは自分で振っておいて、まるで屈託がない。シムナナムナは特段気を悪くした様子はなく、リナの問いに答えた。
「ボクはホッタイトにいる前はリスナという街にいました。砂漠のそばの小さな街です。だから西域にとても馴染んでいます。」
「お生まれは西域ではありませんの。」
「もともとは南海のサラスタミズナという小さな島でした。ここは鉄鉱石が採れる島が近くにあったので海運で栄えていました。だからボクは船と飛行機の両方が好きなのです。それに最近は雲も好きになりました。毎日空ばかり見ているので。たまに雲が現れるととてもドキドキするのです。」
「それにしても良かったわ。私は各域の輸送レポートをまとめているの。飛行機と船はだいたい形になったんだけど、陸路は専門外だから。飛行機と船の輸送をエネルギーとか大口商品だけにしぼった時、つまり、それ以外の多頻度品は個人輸入の扱いにしたら、世界のネットワークはもっと良くなるんじゃないかという仮説のレポートなの。」
リナの話を、シムナナムナは興味深そうに聞く。ジェロは、シムナナムナの印象が昼間と少し違っていることに気づいていた。リナの話は、レポートのさらに詳細な所へ進んでいく。
「これには各地域の流通の状況もそうだけど、一般の人の感覚も調査をしなくてはいけないの。公のものはあるんだけど、もっと個人的なね、なんと言ったらいいかしら。その街の噂話みたいな事情よ。それを教えてもらえれば、レポートがそれで活きてくるわ。」
「そうですか。複雑なことを解き明かそうとしているようで、あなたは素晴らしい方だ。」
シムナナムナは礼儀作法においては非常識そのものだったが、人の考えを聞いたり、何か思いに対しては真摯な思いがあるのではないか、ジェロはそんなことを思う。リナは続けた。
「西域の空港の使用状況や顧客、貨物特性を調べていて思ったの。商業用ばかりだなって。畜産や個人事業的な農作物は陸路ばかりみたい。地元の方はどう思っているのかしら。」
「飛行機を使うと高いとは思っているでしょうね。皆、砂漠の移動には慣れていますし、頼める人も多い。飛行機を使うという発想自体がないんだと思います。」
「では、飛行機はなんだと思われているの。」
「空港は政府の建物、市役所と同じようなものと思っている人が多いのではないでしょうか。」
「個人的な荷物は? 個人輸入とかはあまりやらないのかしら。」
「ホッタイトには大きな街はありません。ボクはサラスタミズナに住んでいましたから、あなたのおっしゃることは分かります。だいたいホッタイトの市民はそんなことに興味はないのですよ。自分たちのラクダのこととか、水のこととか、そんなことで頭がいっぱいです。だから空港には飛行機に用事があってくるのではなく、天気予報とかを聞きたい人の方が多いんです。」
「天気予報ほどには、飛行機は地元にあまり必要とされていない?」
「いえ、天気予報を必要とされていると言ったって、家畜の毛を刈る仕事を今日やってしまうか、来週に延ばそうか考える時に、ちょっと知っておきたいというか、世間話の延長ですよ。完全には当たらないのは皆知っていますから、まあ、気休めといえば気休めですが、それでも何かの役には立っています。」
「なるほど、それならあなたのように、飛行機の運航より気象情報に熱心になってしまいそうだわ。それでは飛行機のルートを変えたりしても住民はあまり気にしないんですね。」
「気にしないというか、気づかない人が多いのでは。むしろ政府の人やすこし西で鉱石を掘っている企業の人とか、困るのはそのあたりで、だから大きな飛行機は必要ないんですよ。」
「公共性が低いという実感ね。ところで西域で離発着の多い中小型の飛行機で長時間飛ぶのって大変じゃないですか。」
「KH33とかQQ4とかですね。ボクもホッタイトから最初の経由港までの時間が一番つらかった。その後にJACK3の飛行機になりましたが快適さが全然違うんですね。」
「小さい飛行機に乗る時間は短いに越したことはないわ。」
リナは満足げにシムナナムナの話に頷いた。
しばらくして着いたのは、ビルの三フロア分を占めるバスのターミナルだった。二十四時間、人やバスが動き続ける場所なので、夜なのにずいぶんと明るく、この時間でも人がごった返していた。
「あそこが待合所、出発のバスを待つ人たちのスペースよ。ここのバスは昼間でも夜でも関係なく出るから、いつでも開いているの。ここに居たらいいんじゃないかと思ったんだけど。」
「よくこんな所思いついたね。確かにここなら朝まで過ごせるし、あまり人の迷惑にはならない。」
「そうですか。でも、どうもこのあたりにはボクの居場所はなさそうだ。」
シムナナムナはそう言って、ターミナルを見回した。
「なに、あそこの待合室で十分も待っていれば、どこかしらの席が空く。そしたらそこに座って朝まで待てばいいでしょう。」
ガラス越しに見えていた待合室にシムナナムナは目をやって、ちょっと考えてから言う。
「ここでは本が読めないし、それに寝られません。」
「なんでです? ぴったりじゃないですか。」
「寝るまでのもうすこしの時間、ボクは本を読みます。でも、ここではあまり集中できそうにない。近くを人が通るじゃないですか。そのたびに、顔見知りじゃないか、話しかけてくるんじゃないかと思うので本が進まないんです。それにしばらくしたらボクは眠くなる。その時に暗い所へ移動したいんです。このあたりに暗い所はあるでしょうか。ボクは暗くないと寝れません。できれば月夜でなく星空の夜の方がいいんですけどね。」
シムナナムナは真顔で答える。なんて贅沢なやつだとジェロは思ったが、だからと言って好きにさせれば、それが誰かの迷惑になることは目に見えている。
「それじゃあ、しかたないわね。次に行きましょう。」
「ボクは大丈夫です。お二人とも遅くなるから、先に帰った方がいいですよ。」
「いいのよ。こうやって問題を一つ一つ解決していくのって推理小説に似ているわよね。私は嫌いじゃないわ。」
「そうですか。ところであのバスは他と形が違いますね。」
「バス? ああ、あれは他と燃料が違うタイプなんです。試験運行というやつですか。値が張るので、あまり増やせないらしいですよ。」
「ほう、ちょっと見てきます。」
ターミナルの出入り口にジェロとリナを残して、シムナナムナはそのバスに一目散に向かった。乗り物であればなんでも興味のある性質らしい。
「悪いなリナ。それにしても不思議な男だ。」
その振る舞いが自分のせいでもあるかように、ジェロはリナに謝りたい気持ちになった。
「そう、あなたたち似てると思うけど、なんとなく。」
「え? あんなマイペースじゃないよ。」
「そうかしら。スイッチが入ったら、のめりこむような感じ。それをそのまま出しているか、隠そうとしているかの差だけに思えるけど。」
ジェロは、リナの感性に追いつけないと感じることがある。それは、仕事の場合だけとは限らなかったので、おそらく人間性において、リナの方が勝っているのだろうとジェロはずいぶん前から考えていた。
「まあ、よく分からないけど、それよりどうする? 暗い場所で夜中まで居てもいいなら、やっぱり公園とかしかないだろう。」
「うん、さっき思いついたんだけど、このバスの一つ先の停留所、あそこなら屋根はあるし、外も見えるわ。まあ、読書は諦めてもらうしかないわね。」
「なるほど。」
「事前に待つ人は多くないでしょうからね。」
しばらくして、シムナナムナが二人の前にジェロとリナに戻ってきた。
「ダメです。運転手の人はあの乗り物に詳しくありませんね。」
熱心に情報を集めていたシムナナムナだったが、成果を上げることは出来なかったようだ。
「それは残念ねえ。」
そんなシムナナムナをリナは温かく迎える。
「でも、あまり見たことのない形、特に床の部分ですか。あれが特徴的でした。」
「シムナナムナさん、それより次の場所に行きましょう。」
「はい。そうですね。」
それを合図に再び三人は歩き出した。
「もっと西域の話をもっとしましょうよ。あなたはなぜ西域にいらしたの。他の地方から移り住むのは珍しいんじゃないかしら。」
「はい、そうですね。あまりいません。ボクにしたって、何か新しい街に行きたくて、たまたま西域にたどり着いただけなんです。でも、良かった。あそこは世界のことを考えるのにとても適していますよ。」
「世界のこと?」
ちょっと気になったのでジェロが口を出す。
「はい、そうです。世界を斜めから見渡せるような感じ。だいたいの場合は、すこし離れた方がそのものの形が分かりますからね。」
「あなたが思う世界とはなんですか。私たちの機関名には世界とついていますが、その世界と、あなたの言う世界とで、意味が違うように聞こえます。」
「世界とは、この夜空と海が続く全てのことです。あまり注目されない国や地域もありますが、全ては丸い地球の上で出来ています。今、世界で共通になっているものは空港と港、空路と海路です。各空港や船の世界はすでに決まり事があって、それに従えばどこにだっていけます。言葉が通じなくとも実況をやりとり出来ますし。」
「実況?」
「地元の天気です。関係ある空港同士は情報を交換し合っています。」
「それは航空符号のこと?」
「そうです。航空符号、広い意味での通報式です。それは簡潔で美しい言葉です。こうした情報はすでに全世界で共通で必要なものになっている。これからの世界に必要なもの、それが他にもいくつかあって、まだ航空符号のように通報式として完成されていない。ボクはねえ、ジェロさん。それが自分の生涯の仕事だと思うんですよ。」
「シムナナムナさん、あなたのお話で言うと通報式が宝物のように聞こえますね。」
リナが言葉を挟むと、シムナナムナは嬉しそうに頷いて、また言葉を続ける。
「もちろん一面的な話ではないですよ。例えば国籍のない言葉をご存じですか。」
「ええと、なんだったかしら。」
リナが言いよどむ。ジェロも同様にシムナナムナの意図を深く理解しきれない状況で、一方、シムナナムナの饒舌は続いた。
「誰かが作った、覚えやすい極めて論理的な、イデオロギーのない言語。ごく狭い世界では今も存在しています。全世界の人がその共通語と母国語をしゃべれればそれでいいと思うんです。その時の共通語って、おそらく通報式が進化したようなものになるとボクは思っています。」
「なるほど。」
「他にも技術というのは、文化や習慣などよりも、世界共通になる障害が少ないと思うんです。ネットだって同じ話でしょう。でも社会秩序や宗教はなかなかに手ごわい。価値観だってそうです。知っていることを隠すのが美徳の風習、知らないことを公表するのが美徳の風習、何事も知っているふりをするのが良いと思う人、いろいろいます。でも世界で共通のモラルがあります。」
「モラルは国々で違うから難しくないですか。」
「いえ、困った人がいたら助ける。それだけです。向き合うのが同じ人間でなく、この地球上で起こる自然現象や病気とかであれば、まず間違いはありません。」
今、シムナナムナの寝床を探している自分は、人助けをしているのだろうか、ふとジェロはそんなことを思う。それにしたって、心配しているからか、厄介ごとが人に降りかかるのが嫌なのか、あるいは街の風紀を重んじているか、背景はきっと様々なはずだ。複雑であるはずのこと、その答えをシムナナムナが知っているような錯覚がジェロを襲った。
「・・たぶん国際人というのはあなたのような人のことを言うんでしょうね。」
「はい、ボクはこの星に生きている一人の人間です。」
次のバス停までようやくたどりついた。案内板に照明はあるものの奥側は適度に暗い。歩道わきの草場を区切って屋根がつけられているだけの場所なので、柱はあっても景色を遮る壁はなく、頼りない星空となんとか繋がっていた。リナはバスの運行表を見る。
「次に来るのは三時間後、そうして、また三時間したら朝一番のが来るわ。その前後の時間だけ人が来るかもしれないけど。」
「静かだし、街の夜景が美しいです。ここは気に入りました。」
シムナナムナにそう言われて、ジェロは改めてあたりを見回す。星空よりもずっと下に、静かな輝きがあった。建物の上側に設置された赤い照明が並んでいる。航空機の衝突防止用の赤ランプだ。そのランプのせいか、高層ビルが肩を組んで、自分たちを見下ろしているようにも見えた。ようやく今夜を明かす場所が決まったシムナナムナは、嬉々として敷布を広げ始める。
ジェロはリナに促されて近くの二十四時間営業の店に入った。そこは今夜のシムナナムナの寝床からすぐ近くだ。リナはジェロを従えると、食料品の商品棚に向かう。
「一番おいしそうなのはどれかしら。」
弁当のコーナーでリナは商品を見回した。
「彼、夕飯も食べてないのかな。」
「たぶんそうね。あなたには聞こえなかったかもしれないけど、私はクゥっていうお腹の音を聞いたもの。」
「・・・うーん、とことん世話のかかりそうな人だな。」
「でも、私はあんな人好きよ。肩入れは出来ないけどね。彼は素敵だわ。」
「素敵・・・ねえ。珍しさはあるとは思うけど。」
「まあ、珍しくてもそれに輝きがあるのかどうかが重要よ。美しさと同じ意味なんじゃないかしら。」
「ますますよく分からないなあ。」
「先天的な美しさは美しい所からしか生まれないものよ。でも美しいものは、すさんだ心からも生まれる。全ての人が持てるわけじゃない。だからみな美しさにあこがれる。」
いくつかの商品を持ち上げたり斜めに見たりしながら、リナは詩的なことを口にする。そういう感性を持っている一方で、仕事上では非情な冷徹さを発揮することがあるのがリナだと、ジェロは分かっていた。
「ねえ、これを届けてあげてね。」
レジで支払いを済ませるとリナは弁当と飲料をジェロに渡した。
「それよりアクツさんに頼まれている集計はどうするの。まだ終わってないんでしょ。」
「あ、ああ。もうすこし確認すれば終わりだから。家でやるさ。」
「あなたが明日、遅刻する理由を、私が正当な形でアクツさんに報告しておくわ。」
「すまない。助かるよ。」
「じゃあ、シムナナムナさんの夕食、お願いね。」
その店の前でジェロとリナは別れた。それで、ジェロはあの男に食料を届けるために、屋根付きのバス停まで戻ることになる。
夜道を歩きながら、ジェロは出会ったばかりのシムナナムナのことを思い返す。ジェロにとっても、シムナナムナはやはり不思議な存在だった。ふつうの不思議さは、理解を深めることと慣れることで、日常に溶け込んでいく。だから、どんな神秘性のある人間でも、会って話せば話すほど、そして見慣れれば慣れるほど、それは失われていく。しかし、彼の場合は、神秘性というより不可思議さが、全く薄まる気配がなかった。そんな分析しながらジェロは来た道を引き返す。
ジェロがバス停まで戻ると、シムナナムナは案内板の下で本を読んでいた。ジェロはシムナナムナに声をかけて弁当を手渡すと、早々に家路に着く。そういえば、リナがこんな風に人の世話を焼くなんて、どうもらしくない。それはリナが言う美しさと何か関係があるんだろうかと、そんなことを考え出しながら夜の街を歩いた。
翌日、ジェロがオフィスに再びたどり着いたのは昼前だ。帰宅してからの統計情報の見直しに予想より時間がかかって、終わったのが明け方近く。短いが深く寝たことで、ジェロの頭はしっかり働き出した。エレベーターでオフィスへ向かい、隣の席のリナに挨拶をしたところで、電話で呼び出される。席に座ってもいない状態だ。
「あなたが入るのを見ていました。」
昨日の男、バス停で一夜の明かしたはずのシムナナムナだった。その声は力強く、寝不足な様子は微塵もない。その声でジェロは、今日中にシムナナムナに告げなくてはいけないことがあったのを思い出す。
「残念ですけど、まだ、すこし時間が必要です。上司との相談が済んでいないので、それから、またご連絡します。一時からでどうでしょうか? 私が下に迎えにきますので。」
「分かりました。」
しかし、その日のジェロは忙しかった。アクツからの依頼で集計処理の追加が入った上に、同僚で体調不良者が出てしまった。リサはリサーチセンターへ打ち合わせに出かけた後で、つまりはジェロのやることばかりが増えてしまう日になった。
午後一時をかなり過ぎた後に、ようやくシムナナムナは受付に顔を出した。棒立ちになっていたシムナナムナは、よく動く瞳を向けて、ジェロと視線を合わせる。ようやく会えたとでも言うように、その目は笑っていた。
「申し訳ない。お待たせしすぎた。上にあがりましょう。」
「いいんです。それよりボクは飛行機の時間が心配です。そろそろ出発しておきたいんです。ここで答えを聞かせてもらえませんか?」
短く済ませられるならジェロにとっても好都合だった。ジェロは昨日思っていたストーリー通りに答えを出す。
「残念ですが、やはり簡単なことでないのです。伺った内容は十分に理解していますが、今は難しいです。これから政策の変化などのタイミングで心がけておきます。」
「・・・そうですか。分かりました。」
シムナナムナは悲しい顔を見せたが一瞬だった。
「まだ、先は長い。どこかのタイミングで実現できればそれでいいんです。これからもよろしくお願いします。」
「ええ、はい。ただ、あまり期待はしないで頂きたいんです。」
「ほんのすこしでも希望があれば、ボクはそれでいいんです。それより飛行機の時間が心配だ。ではボクはこれで。」
シムナナムナは満面の笑みを浮かべてその場を去った。正確には、シムナナムナは、その続きの顔をジェロに見られないようにすぐに走り去った。
シムナナムナは後悔するのが苦手だった。いつもそのやりかたが分からずに、大げさになったり、楽しい顔をしたりしてしまう。そしてシムナナムナの苦手な後悔をするには、昼間の日差しはすこし明る過ぎた。