氷の谷の冒険者 2
「やあ、いい日和でございますな放浪者殿」
宿屋の前で待っていた誰かは、東方教会の司祭だった。昨夜遅くにこの宿に到着し、自分との仲介を知己に頼んでいたのだ言う彼の名を、リースも聞いた事があった。
東方教会の中でも、聖クラリスを祭る大聖堂に籍を置く、異色の司祭。
教会勢力の主流派閥から外れ、対抗勢力にも属さず。出世から遠い位置にいながら、排除されないだけの権力と人脈と資金力がある曲者。
そんな異端者がなぜこんな片田舎にと、リースは目を見開いた。表情には意地でも出さないが、内心は大荒れである。
教区の司教さえも、ないがしろに出来ぬと噂の人物ならば、大理石でできた階段の上で絹と宝石に囲まれて、地位の向上に腐心して権謀に明け暮れるのが存在意義ではないか。
間違っても、こんな雪と氷と空しかないような、娯楽の一つもなければ、考えることといえば日々の食事と空模様と燃料で、それ以上のことを考える余裕がないような鄙に現れていいような人物ではない。そんな貴顕に足を運ばれても対応に困る。今現在、主に自分が。食堂の一角で、遠巻きにされているのは気の所為か。
リースの困惑もどこ吹く風で、仲介を務めたなじみの職人兼雇い主はカラカラ笑う。
「何を言うかリース。聖クラリス様はこの時期凍える子供に祝福を与えるために雌馴鹿が引く橇に乗って世界中の夜空を飛び回っていらっしゃるじゃないか。その女神を祭る教会の司祭が、ちょっとばかり遠出したところで不思議でも何でもあるまいよ」
「女神ならともかく、ちょっとの距離かよ爺さん。
司祭様、貴方も何故―――――」
思い立ったからと気軽に足を運べる近さでもなければ、立場でもない人だろう。
色がついていた前金と、それとなく匂わされた同道者の存在。
現地で落ち合うのだとは聞いていたが、この人物は想定外だ。
反射的に返した後で、思わずまじまじと見つめてしまえば、司祭はうっそりと微笑んだ。
「聖クラリスに捧げられる薔薇のの一大生産地として、この谷は我々教会関係者の中でも有名なのです。いろいろと身の回りの始末が付きましたので、巡礼の名目で」
いつかあの薔薇を手に取ってみたかった―――――
夢見るような瞳と万感の思いを込めた呟きに、リースは何も言えなかった。
彼は、そう高い身分の出ではないと聞いた。口減らし同然に幼い頃教会に預けられたと言う壮年の司祭の胸中は如何程だろう。
厳しい修行と、清貧を極めた生活。寒さに凍え、飢えに苦しむ暮らしの中で、孤独な子供は何を思っていたのか。
子供と娼婦の守護者である聖クラリスに捧げられたあの赤い薔薇が、心の支えであったことは想像に難くない。
「女神の慈悲深さはかくのごとく。今この時、私を御園に導き給う―――――」
天に近い、氷の峡谷で聖句を唱える司祭の姿は、教会の中で眠たくなる説法を唱える僧侶よりも敬虔に見えた。
隣に座る女が笑っているので、リースはただ、林檎酒の入った杯を軽く掲げる。
典雅な作法など何も知らない冒険者が、心から送る敬意の表れだった。
・
盃の中で、林檎酒の泡が弾けて消える。
朝から一労働してきて火照った体に、凍るような酒精はまさに至福。
煙突のついた重厚な四角いストーブの中で、薪を枕にしていた火蜥蜴の這い回る爪音が、朝食を取りに一階の食堂へと降りてきた宿屋の客の騒めきと溶け合う。
朝食に出されたのはチーズとピクルスを添えたライ麦のパンで、腸詰肉がついていた。
この山奥で冬場に出される食事としては上等だった。
雪掻きの対価であった林檎酒は、同席した司祭と女にも振舞われ、うっすらと霜降る杯に、二人は目を見開いた。
この谷を訪れることになって久しいリースには珍しいものでなく、残る一人は、その顔が見たかったとばかりに笑っていた。
この杯こそが、厳寒のこの時期に谷が賑わいを見せる理由の一つ。
氷竜の卵殻で作られたこの竜杯だった。
「まあ、初めて見たわ。これが氷竜の杯なのね?本当に冷たい……」
「実に」
「冬場なら雪の中にでも酒瓶放り出しておけば酒は冷えますが、まあ、この宿で普段使いにしているのは、我々職人の腕と名前を売るためですな」
目線の高さに杯を掲げ、しげしげと眺める二人に、職人を名乗る老人―――――ヘンリク氏はここぞと語る。
自分の生業に関する事で、熱が入るのはご愛敬だ。
竜杯を作る職人達は、宿に自分の作品を置いてもらったら一人前。盃を見て、商人達はこれぞと思う職人に繋ぎをつける。
氷の谷の宿屋はいくつかあるが、その主は皆、細工物の目利き。
この宿の杯は、手に持ちやすく、重たくなく、中に注がれた酒は程よく冷えている。
使い勝手を優先しているように見えて、その実、細やかな装飾に職人技の光る代物を揃えていた。
見る目のある者にはわかる、という類。
解かりやすく成金趣味宜しいゴテゴテした装飾のものや、権力と財力を示す為の凍るような冷たい温度を保つ杯などは、ほかの宿屋の専門だ。
「ご老人、貴方の作ったものも此方に?」
「職人街は麓のほうにありますが、駆け出しの時分に売り込みをかけましてな。以来、お得意様と言うやつです。
この時期に此処でしか顔を合わせない相手もおりますし、まあ、足の動くうちは会いに来ようと思いましてな」
「どなたですの?」
小首をかしげて尋ねる女に、ヘンリケは磊落に笑って見せた。
「―――――この谷の竜ですよ」
この話はあくまでノンフィクションです。
現実の団体、人名 階級、名称などとは無関係です