氷の谷の冒険者 1
とある冒険者の、新たな物語。
このところの寒さで、氷瀑への道がやっとつながったらしい。
そんな話を、リースは酒場で耳にした。
凍った川を道にして、いくつもの商隊が続く光景は今年も圧巻だろう。
空は晴天。積もり積もった雪の中を貫く一本道。
一万尺と謳われる峰々の、峡谷にあるその村は、道のつながるのを心待ちにする商隊や護衛の冒険者たちで盛況していた。
何処の宿屋も満員御礼で、キン、と冷える空気さえ、どこか熱気を帯びているようで心がふわふわと落ち着かない。
寒さばかりの所為でなく、体が火照る。
心の熱に促されるように、目が覚めてしまった山の朝。
シードル一壺と交換に、リースは今朝の雪かきを引き受けた。取りあえずは、夜の内に新雪で埋もれてしまった通り道の確保だ。
屋根雪などは、天候を見て、今日明日中には降ろさねければならないだろうが、そこは宿の主と暇を持て余した泊り客との交渉次第だろう。
そういう次第で今この時、得物は愛用の剣ではなく年季の入ったスコップだった。
頑丈な木の柄は、剣の稽古を始めたばかりの頃に、与えられた木刀を思い出す。
辺りは同じように、薪を運んだりする力自慢の男たちが雪壁の向こうにちらほら見える。
彼らもまた、麦酒や食事の一皿と引き換えに、鍛錬を兼ねて体を動かしているのだろう。
霧の立ち込める中。白い吐息を吐いてリースはゆっくりと小道を歩いていた。
この谷は、氷竜の繁殖期真っ只中。
氷竜の卵の殻は、繊細で貴重な細工物の材料となるのだ。
氷竜の卵は、一定以下の気温が保たれないと孵化しない。かといって、あまりの寒さでは卵は凍えて死んでしまう。
その寒さを得るために、竜達は凍った滝を穿って卵を保管するのだ。
熱すぎず、寒すぎず。その氷の穴に守られて孵化した竜の巣を掘り出す採取者はエッグノッカーと呼ばれた。
氷竜に交渉して質の良い卵殻を、状態の良い場所で産んだ幼竜を、早く手元に引き取るために、腕の良い採取者を。
その材料を求めて、採取者と、商人と、職人とそして氷竜とが集まり始める。
その収入を見込んだ大店が、氷室で卵保管してははどうかという話を出した事もあったが、卵が孵らないかもしれないリスクを冒す竜はおらず、職を失うかもしれない採取者達もいい顔をしなかった。
結果、昔ながらの口コミと伝手がものをいう商い方法が今も健在である。
リースは、馴染みの職人の、交渉の補佐役と護衛という役柄だった。
性質の悪い商人が傭兵を雇って採取した卵殻を奪うということも間々ある。
それは、細工で身を立てる職人にとっては死活問題。氷竜にとっても信用できない人間に自分の子供の卵殻を渡す気にはなれなかった。
よって、リースは繁殖期毎に、護衛の依頼を受けるようにしている。
新しく繁殖期を迎える竜達や、仕事を覚え始めた商人、採取者。彼らと顔をつなぐ意味合いのほうが強いかもしれない。
村にとっては冬ごもり前の、貴重な外貨の稼ぎ時だった。
幸い、飢えて年を越せない程の不作は近年ない。
例年通り。集まってくる人間や竜達に酒や肉を振舞う余裕もある。
それが変わらずに続くことを願う程度には、他所者であるリースもこの土地のことを気に入って、気に掛けていたのだ。
ざり、ざり、と。
掘り起こした足元で、粗目のような雪が砕けてゆく。
宿から通り道まで道をつないだ頃には全身汗だくで、雪の中に倒れこんでしまいたい位だった。
成年男性の、肩まで届こうかと言う深雪の中は、すべてが綿帽子に覆われ、樹氷が朝日を弾いて煌めく。
宿へと引き返すため、スコップと重い足取りを引きずって通り過ぎた拍子に、雪の綿帽子が不意に落ち。
雪に埋もれた柵の隙間から赤い冬薔薇の蕾が顔をのぞかせた。
聖クラリスの裳裾と呼ばれる八重咲きの薔薇は
真紅の聖娼婦の名を冠されるに相応しく、鮮やかに赤い。
子供の守護者である聖クラリスは、この村で冬に産卵期を迎える氷竜たちの好むものだった。
最初は嫁いできた妻のためにと宿屋の主人が取り寄せたものが、竜たちの繁殖期に咲く花として、冬の女神所縁の花として、新しい物好きの若い世代にあっという間に広まった。
今ではクラリスを祭る東方教会に並ぶ産地として、貴重な収入減になっている。
気の早い竜たちの幾人かは、子供が卵から孵るのを待ちかねて、先日かリースが泊まる宿に詰めている。
持って帰ったら喜ぶだろうか。宿の主に剪定鋏でもあとから借りてこようと、その薔薇の蕾に手を伸ばし……
「あらヤダ、スカート捲り?」
「第一声がそれかよ!」
酷い出だしもあったものである。
からかう様な女の声に振り返えれば、最初に眼に飛び込んできたのは赤い衣服。そして、良く見覚えのある顔だった。
女の年の頃は、精々十代後半。
西の出とも、東の出とも付かない肌の色をして、栄養不良気味の黒髪が腰まで伸びていた。
六角の雪の結晶を衣服や髪に纏いつかせて、彼女は楽しげに笑っている。
「いい日和ね、放浪者」
大陸のあちこちを移動して、一か所に腰を落ち着けることのない冒険者。
その中でも持ち主を自ら選び、使い手に栄光と破滅をもたらすという竜骸の剣になぞらえて、その現所持者であるリースを最初に放浪者と呼んだのは、彼女だった。
「いつ来たんだラーラ」
「ついさっきよ、そろそろ生まれそうな天気だから」
朝日がようやく登ったこの時刻に、どうやってこの場所にたどり着いたのか、そんなことを女に問うのは無意味だった。
生まれそう、の言葉にリースは空を見上げる。
雲ひとつない晴天で、今朝がたは特に冷え込んだ。この分なら、氷竜の卵は孵り始めているだろう。
「薔薇の蕾よりあんたの方がご利益たっぷりだな。スカート捲り上げてくれとは言わないからキスしてくれよ女神様」
「貴方に?卵ちゃんに?」
細い女の体を抱き上げて、腕に座らせるように抱え込めば、女の方もリースの首に腕を絡めて頬を摺り寄せてくる。
ご機嫌な様子は猫にも似ていて、華奢なブーツに包まれた爪先が愛しい。
片手に彼女を抱えなおし、もう一度スコップを手にして戻る雪道の中。
煙突から煙を吐く宿の前で、司祭服を着た誰かが二人を待ち受けていた。