とぼけたカエルと女子高生の襲撃
虎之助が目を覚ました場所は、建物の中のようだった。まだ意識が朦朧としていたので、鉛のように重い頭を何度か振って、平手で頰を一度引っ叩いた。
どういった経緯で現在ここに居るのか、という認識を取り戻すのとほぼ同時に、薄暗い部屋に目が慣れ始める。
彼の目線の先には木製の長いローテーブルと、それを囲むソファーが見える。天井は体育館のように高く、錆びついた鉄骨がむき出しになっていて、倉庫の一角に応接室を設けたような印象を受けた。
「久し振りだな、トラノスケ」
部屋の奥から地を這うような低い声が届くと、一瞬にして10年前の衝撃的な体験がコマ切れの映像となって虎之助の脳内を迸った。
心拍数が跳ね上がり、呼吸が乱れる。
虎之助は、声のした方向をじっと見つめて固まった。 向かって右手側に並んだ窓から夕陽が差し込むと、木製のデスクの上に座っている、化け蛙の姿が露わになった。
「で……出た……」
「お前が来たんだろ」
あまりにスピーディーで歯切れの良いレスポンスに、彼は戸惑う。
「覚えてるよな? 蝦蟇岡卦呂三郎だ。 あ、そういえばこれ返すわ」
「んえ? 」
赤いロープが巻き付いた紙袋が突如視界を遮り、虎之助は驚きのあまり後ろに倒れこみ腰を強打する。
ドサ、と音を立てて目の前に落ちたのは、真琴のアップルパイだ。 それを届けたロープは、掃除機のコードのように勢いよく暴けながら、蛙の口の中へ戻っていった。
彼を拉致した不気味な赤いロープは、この部屋の奥に鎮座する化け蛙の舌だったのだ。
「喰っちまおうかと思ったんだけどなぁ」
虎之助は目を剥いて身構える。
「アップルパイの話だぞ」
アップルパイに魔除けの効果はなかったらしく、ガマオカはデスクから降りて、虎之助に向かって歩を進めた。
ひた、ひた、と不気味な足音が虎之助の心臓の鼓動を煽り立てる。
恐怖がピークに達し、涙が吹き出しそうになるのは懸命に堪えたが、下半身の緊張がおざなりになってしまい、僅かに失禁した。
ジリジリと後ずさりするも、背中が壁に着いた衝撃を受ける。 もう、逃げ場はない。
足が震えて立ち上がる事も出来そうになかった。彼の恐怖と尿道は既に決壊寸前である。
一方、ガマオカは何故か笑いをかみ殺すように口を一文字に結んで、鼻から奇怪な音を漏らしている。 そして、口を開いた。
「まるで、ヘビに睨まれたカエルだな」
ガマオカはにやけた顔で虎之助を見下ろしている。
「いや、カエルはお前だろ」
極限の緊張状態の中で微かに息づいていた「もうどうにでもなれ」というある種の防衛本能が、ガマオカのとぼけた言動と人を食ったような表情に刺激を受けて吹き出してしまったのが、このド直球のツッコミであった。
簡単に言えば、虎之助の精神は恐怖による負荷に耐え切れず、キャパシティを超えて崩壊したのだ。 幸か不幸か、その結果引き起こされたツッコミの暴発によって、虎之助は悟りの境地とも言える心情に達していた。
「喰われる」あるいは「魂的なものを抜かれる」そのどちらかだ。 もう、その運命に抗うことはできない。 薄々と感じていた事ではあったものの、腹を括って覚悟を決めたせいか、彼の脳内は不思議とクリアになりつつあった。
先程まで恐怖のあまり失念していた「最初に伝えるべき事」が、意識の表層に浮上してくる。
「失礼しました」
正座をして地面に手をつき、目の前のガマオカを見据える。
「10年前、まこちゃんを、姉を救っていただきまして、本当にありがとうございました……」
額が床に着くほど深々と土下座をしたその肩に、ガマオカの手が優しく置かれる。虎之助がゆっくりと顔を上げると、そこにはガマオカの満面の笑みがあった。
「お前、土下座慣れしてんのか? めっちゃ上手いな」
「ケロケロケロ」という、蛙として恥ずかしいほど捻りのない笑い声を尻目に、虎之助は緩慢な動作で立ち上がる。
ズボンを何度か叩いて「では、僕はこの辺で」と踵を返したが、3歩目を踏み出せないまま小規模な逆バンジーにより元の位置に戻された。
「で、トラノスケ。 あの姉ちゃんは元気にやってるか」
「お陰様で、飛んだり跳ねたりしています」
「カエルじゃねぇんだからよ」
「あの……まこちゃんを利用して、俺を家から出したんですか……?」
「あぁ? 利用? 何の事だ、意味がわからねぇ」
ガマオカは深いため息を吐いて項垂れてから、カッと目を見開いてにじり寄る。
「その前によう、トラノスケ。 もっとフランクに行こうぜフランクに! 俺たちはこれから共に戦っていくタッグなんだからよ」
「戦う……? タッグ……? 」
「何度も言うが、俺の名は蝦蟇岡卦呂三郎だ。 ケロさんでいいぞ。 相棒、これからよろしくな」
ガマオカは手を差し出して握手を求めている。
唐突に放り込まれた相棒認定に、動揺を隠しきれない虎之助である。
「まぁ、とりあえず色々と聞きてぇ事があるだろう? 俺も教えなきゃならねぇ事が山程ある。 今日はちゃちゃっと要点だけ伝えるからな」
虎之助は真琴を救ってもらった恩義を深く感じていたが、それを表現した土下座は一笑に付された。 とにかくノリの軽いバケモノである、まさに拍子抜けだった。 軽く失禁するほど怯えていた自分自身を滑稽に思えるほどに。
「さぁ、トラノスケ、向こうに座ろう」
ガマオカの指が奥のソファセットを指している。今はとりあえず、成り行きに身を任せるしかない。そう判断し、彼は指示された通りに一歩を踏み出して、ガマオカの後に続く。
そのソファーは、中央のローテーブルをコの字型に囲んでいる。 上座に据えられた古めかしい木製のデスクは、最初にガマオカが座っていたものだ。
ガマオカに促され、虎之助はソファに腰を下ろす。
「さ、授業始めるぞ。 心の扉開いて」
「そんな、教科書開いてみたいなノリで言われても……」
ガマオカはそこで、特徴的な手を開いて虎之助の眼前に翳した。
「ちょっと待った」
「え?」
唖然としている虎之助の前で、ガマオカはこめかみの辺りに指を当てて、何か考えるように斜め上に視線を移す。
「侵入ってきやがった、何者だ……?」
「は、入ってきた? 何が? どこに?」
突如、ガラスが砕ける甲高い音が室内に響き渡る。
大きな窓が一枚、粉々に割れていた。
その前に佇むのは、制服姿の女。
室内の淀んだ空気を、外から吹き込む乾いた風が撹拌する。
彼女の髪やスカートがはためく。
夕陽に縁取られたシルエットが、少女の無駄のない体型を際立たせていた。
ガマオカが舌打ちを一つ打って、虎之助の前にずい、と出る。
「あなたが、ガマオカ?」
制服の女は、淀みのない、凛とした声音でそう言った。
幻想的とも言えるそのシュールな光景に、虎之助は思わず息を飲んだ。