運命の赤いロープは鳴瀬山直通便
『トラー! 御機嫌よう!』
ラゴブロックと無気力な人間で構成された生気の足りない部屋に、生命の息吹が吹き込んだ。 虎之助はその声を聞いて、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻す。
「どうしたの? こんな時間に珍しいね」
「トラ、今独房にいる?」
「独房?」
「ママが独房って言ってたよ。トラの部屋」
「ひどい親だな、今離れにいるよ」
「刑務作業中?」
「刑務作業?」
「ラゴ作品の量産を刑務作業って呼んでた」
「とうとう犯罪者扱いが始まったんだな」
「大丈夫、トラは罪人じゃない」
「うん、俺もそう思う」
真琴がケタケタと笑っているので、虎之助もつられて笑った。 この程度の引きこもり煽りは日常茶飯事である。 母親と直接相対する夕飯の席などでは、常人なら耳を引き千切りたくなる程の辛辣な言葉が飛び出す事もままあるのだ。
もっとも、母親から放たれた罵詈雑言で受けた傷は真琴の笑い声によってその場で癒されるので大したダメージは喰らっていない虎之助である。
「トラ、お願いがあるんだけどいい?」
「なに?」
「わたし、アップルパイを作ったのね」
「ふぅん、誰を殺すの?」
「劇物じゃないから」
「前に作ってたチーズケーキは劇物寄りだったよ」
「いや、寄せてないからね。 まぁいいや、それでね、お家にアップルパイを忘れてきちゃった訳よ。だからトラに届けて欲しいの。千花ちゃんのお家まで」
虎之助は一瞬固まって、失笑する。
「何言ってるの、まこちゃん。 俺は引きこもりだよ?」
「外出を拒否できる役職って訳じゃないからね、それ」
「千花ちゃんになにか怨みでもあるの?」
「だから毒殺狙ってないから」
真琴の壊滅的な料理の腕を、虎之助は身を持って実感していた。 かつて「逆に、どう料理したら卵が炭になるのか」と問いただしたところ、「魔がさした」という素人には到底理解できない答えが返って来たのを覚えていた。
「何人かいるの? 」
虎之助は電話口から、背後の喧騒を感じ取っていた。
「あー……うん、お友達」
「パーティ的なやつを開くんだ? まこちゃんのアップルパイで?」
「まぁ、そんなとこかなぁ……」
「それはもはやテロだね。 大人しくピザを頼めばいいよ。 ピザを」
彼は、明らかに不自然な受け答えだ、と感じた。 いつもはハキハキと歯切れ良く喋る真琴が、躊躇うように言葉を選び、会話を濁している。
「もういいから! 今回は美味しくできたの! はやく持ってきてね!」
通話が途絶えた。
唐突な引きこもりへのアップルパイ輸送ミッションに、しばし虎之助は呆然とする。
真琴に用事を頼まれる事自体が稀である上に、友達に振る舞う為のアップルパイを家に忘れるという超ド級のうっかりミスを犯す姉だとは思えなかった。
スマートフォンが「まこちゃんからメッセージです」と喋ったので画面を見ると、「千花ちゃんの家」という文章に、地図とルートが添付されていた。
「まさか、ガマオカ……」
その言葉を口にするのがスイッチだったかのように、最悪のシナリオが虎之助の意識に浮上する。 バケモノが真琴を利用して自分を誘き出そうとしているのではないか、あるいは、真琴自身になんらかの被害を加えようとしているのではないか。
何故そんな簡単な思考に至らなかったのかと、虎之助は顔面蒼白となって頭を抱えた。
「まこちゃんに発信!」
音声認識でスマートフォンの画面が切り替わり、「マロちゃん号、発進!」という絵本の検索結果を表示した。
「こんのポンコツが!」
手動で真琴のスマートフォンに発信する。
【現在、電源が入っていな】
「このポンコツが!」
息を荒げながらふと、窓の外に視線をやる。
近づいて様子を伺い、窓を全開にする。 身を乗り出して庭を見渡してみたが、そこには誰もいない。 バケモノが1匹も存在しない庭を10年ぶりに見た虎之助を包んだのは、なんとも形容し難い気味の悪さであった。
離れを飛び出し、母屋の裏口へ繋がる飛び石の道をよろめきながら渡る。
台所を通り居間に入ると、テーブルの上に紙袋が置かれていて、その傍らにちょこんと座ってワイドショーを眺めている母親がいた。 悠長に大福を頬張っている。
「ま、ま、ま、まこちゃんが!」
「ん? もう行くの? 決断早かったわね」
「で、電話が繋がらない!」
母親はテーブルの上に置いてあるスマートフォンに「まこちゃんに電話」と声をかけた。
【現在、電源が入っていないか……】
「あら、電池が切れちゃったのかしら」
虎之助は居間を飛び出して玄関に向かう。「ちょっと、トラ!」という母親の声を無視して靴箱からスニーカーを探していると、追いかけて来た母親が紙袋を突き出して、「これ持っていかなきゃ意味がないでしょう」と言った。
「アップルパイなんて持って行ってる場合じゃ……」
「はいはい、わかったから、ほら!」
ここで虎之助は謎の思考を展開した。
このアップルパイにはバケモノに対抗する何らかの効果があるのではないか。これは神が虎之助に与えたもうた一つのキーアイテムなのではないか。吸血鬼がニンニクや十字架を嫌うように、世の中に伝わるバケモノ達には何かしらの弱点が必ずある。
「わかった……持って行くよ。 ありがとう」
虎之助は肝を据え、ゆっくりと頷いた。
「いや、顔怖っ! まぁ、気をつけていってらっしゃいね」
敷居を跨ぎ、後ろ手で戸をピシャリと閉める。
一呼吸おいて、石畳のアプローチを正門に向かって歩き出した。
正門に差し掛かる寸前、腹部に謎の圧迫感。
虎之助は前進しようとした勢いを完全に殺され、その場でよろめいてしまう。
「なんだ…?」
彼の胴体には、真っ赤なロープのようなものが巻き付いていた。
手を伸ばして触れてみると、まるで生肉のようにほんのりと湿っている。その上、生ぬるい。
想像だにしていなかった気味の悪い触感に全身が総毛立ち、身震いする。 咄嗟に手を引いた彼はそのロープの出所を探ろうと、恐るおそる視線を移動させる。
それを見た瞬間、身体中の血が凍りつくような感覚に襲われた。
なぜなら不気味な赤いロープは遥か彼方、「鳴瀬山」の山頂付近に向かって伸びていたのである。
巻き付いたそれは、僅かに圧を増して虎之助の身体をいとも簡単に持ち上げた。
「えっ、ちょっと、おい、まっ、あぁん!もう!」
足をバタつかせ必死にもがきながら外そうとするが、解こうと力を加える度に、却って締め付けが強くなっていく。
「ひえぇ……なんだこのシステム……! 頑張るほど絞まるシステム! 」
突然、後方への急激な加速度がかかる。
まるで鳴瀬山に吸い込まれていくかのように、彼は宙を舞った。 つまり、逆バンジーのシステムである。
世篠澤家の敷地が急速に遠のいてミニチュア化していくのを視界に捉えながら、彼の意識もまた、急速に遠のいていった。